靴(3)

 その後も百合ちゃんが何て言ってたかと聞きだそうとしてくる兄をかわして電話を切り、リビングに戻ると、百合ちゃんはソファーの上で猫のように丸まって眠っていた。クーラーをつけていたのが寒かったのだろう。ひとまずクーラーを切ってタオルケットをかけてやると、今度は暑くなってきたのか、タオルケットの裾から足がするりと出てきた。


 そっとその足の裏に指を這わす。丸く小さな踵はすべらかだ。日に当たることのない足の裏は白い。ただ、指先と爪だけがほんのりと赤く色付いている。足の裏に走る青い静脈を指でたどった。深く眠ってしまっているのか、ここまでしても百合ちゃんは起きない。綺麗な足だ。無理な靴は決して履かせないようにしていたので、歪められていない綺麗な足。これを見ると嬉しくなる。何事にも無頓着な兄を叱り飛ばして、百合ちゃんの靴にだけは気を配るようにさせた。小柄な彼女は足も小さく23 cmしかない。足の裏をなぞるのとは反対の手で足の甲を包み込んだ。


 生まれたままの柔らかな土踏まずに、ふっくらとわずかに盛り上がった静脈がある。その一本を血流が止まるようにそっと押さえた。足の甲を支える手に力をこめて握りこむ。


 彼女の足が綺麗なままなのが嬉しい。


 そしてそれと同時に、この足を歩けないほど壊してしまいたいと思う。


 言葉に形作られないほどのほのかな思いを昔から持っていた。それまでは、彼女の足に合うように、彼女の足を歪めないように、彼女に負担がかからないようにと靴を選んだり作ったりしていたのだが、ふっとそれとは逆のことがしたいと時々思ったのだ。足を歪めて歩けないように、家から出れないようにしてしまいたい。そう、まるで纏足てんそくをするように。そうすれば、ずっとこの子は兄の元から、そしてそこを訪れる自分の元から離れないでいてくれるんじゃないだろうかと。


 考えるだけで終わったのは、彼女の足が成長を止めたからだった。


 骨が軋むほど握りこまれたのが痛かったのか、百合ちゃんは僅かに身じろいだ。それを合図に足を触る手を止めた。


 これだけ深く眠っているのを起こすのは忍びなかったので、タオルケットにくるまったままの百合ちゃんを抱き上げてベッドに運ぶ。下そうとした時、百合ちゃんの瞼がそっと開いた。


「寝ていていいよ」


「涼ちゃん……」


 俺が言った言葉は聞こえていなかったのか、彼女は俺の名を呼ぶ。


「涼ちゃん、お願いがあるの」


 半分夢の中にいるような、ふわふわとした口調で言葉を紡ぐ。


「靴が、欲しいの」


「構わないけど、どんな靴が欲しいんだい?」


「大人っぽい靴が欲しい。今日会った人は、多分、いい人だったよ。まだ若かったような気がする。式を挙げるかもしれない。涼ちゃん、お願い。勇気がほしいよ。二人にちゃんとおめでとうって言ってあげる勇気がほしい。だから、靴がほしいの。涼ちゃんの靴が」


 夢現でかわいいことを言う百合ちゃんに小さく笑った。


「分かった。とっておきのを作ってあげよう。……もう寝なさい。明日は一緒に家まで行ってあげるから」


「うん……」


 ふわっと笑ってすぅっと眠りに落ちていく彼女に、思わず微苦笑を浮かべた。まったく、いつまでもあどけなく無防備だ。それが嬉しくて、悔しい。




    * * * *




「はい。持ってきたよ。ぎりぎりになってごめんね」


 あれから一年ほど。百合ちゃんが言っていた通り、兄とその交際相手はささやかながら式を挙げることになった。兄がなかなか日程をこちらに報告してこなかったために、大急ぎで百合ちゃんの靴を作る羽目になった。百合ちゃんに『作ってる?』と確認されて初めて日程を知ったのだ。我が兄貴殿は全く反省していないらしい。言ったと思ってたじゃない。勘弁してほしい。


「ううん、こっちこそ無理言ってごめんね。お父さんがなかなか涼ちゃんに言ってくれなかったから。とっくに言ってると思ってたよ」


 少し唇を尖らせて言う。あれ以来、百合ちゃんは少し自分の父親に文句を言うようになった。


「時間もないし、すぐ合わせてしまおう。そこ、座って」


 待合室の椅子を示すと、彼女はすとんと腰掛けた。足元には、今着ているワンピースとは合わないローファーが履かれていた。


「何でローファー……全然あってないじゃないか」


「だって、涼ちゃんがどうせ靴持ってきてくれるから、どれでもいいかなって、つい一番慣れてる靴を履いてきちゃったんだよ」


 指摘されたのが恥ずかしかったのか少し顔を赤くしている。それを見て笑いながらローファーを脱がした。一番慣れている靴に俺が作った靴を上げてくれたのが嬉しかった。


 百合ちゃんは特に何を思うでもなく、こちらに足を差し出しいる。初めて見るストッキングに覆われた脚は、思いのほか艶めかしく見えて一瞬息を飲んだ。そんな俺には気付かずに彼女の興味は完全に今日俺が持ってきた箱に向かっている。


「夏だからね、明るい色にしてみた」


 箱から取り出した靴を、そっと彼女の華奢な足に履かせる。今回もすんなりと隙間なくはまったのにほっとした。また時間がなかったので採寸なしで作ってしまった。そろそろ採寸させてほしい。


 彼女に俺の作った靴を履かせるときはいつもいつも色々と願ってしまう。


 ――今回の靴が、彼女に似合いますように。


 柔らかな幅広のリボンを足首に絡めて蝶々結びにした。もう片方の靴を履かせていると、その足元を覗き込んでいた百合ちゃんが呟いた。


「リボンかわいい。でも私、こんなの一人で履けるかな」


「大丈夫だよ。結ぶだけだ。無理だったらいつでもおいで。教えてあげる」


 ――この靴が足枷となって、百合ちゃんをここに留めておいてくれますように。


「こんな細いかかとのある靴初めて」


「今まで成長途中だったから避けてたけど、百合ちゃんももう高校生だからね。ほら立って歩いてごらん」


 ヒールのある靴が慣れていないため、一歩一歩踏み出す足が頼りない。少しリボンが緩かったのもあるようだ。後でもう一度しめなおそう。確かに彼女の言うとおり一人で履くのは少し難しいかも知れない。


 歩くたびにワンピースの裾とともに足首にとまった蝶々が揺れる。少しヒールがあるためにきゅっとしまった足首の細さが強調されていた。


「ヒールが高いのに全然痛くない。もう私、涼ちゃんの靴以外履けないや」


「あはは、そりゃあ光栄だね」


 ――百合ちゃんが俺以外の作った靴を履きませんように。


「……涼ちゃん」


 俺の目の前で立ち止まった百合ちゃんがこちらを見上げてくる。ほんの少しいつもより目線が近い。


「何だい?」


「嫌になったら、涼ちゃんのとこに逃げていい?」


「いいよ、いつでもおいで」


 ――彼女がその足で歩いてくる場所が俺のところしかありませんように。


「……涼ちゃんは、何も言わずにどこかに行ったりしないでね。黙って結婚したりしないでね」


「大丈夫だよ。百合ちゃんを置いて行ったりしない」


 ――そうしてどうか、彼女が僕の近くにずっといてくれますように。


「もう一回座って。左足、少し緩かっただろう?」


 百合ちゃんを椅子に座らせて、左足のリボンをほどいた。きつすぎないように、緩すぎないように丁寧にリボンを結び、最後にくしゃりとなっていた蝶々の羽を丁寧に広げた。


 ――そして何より。


 小さく華奢な足を壊れ物のように丁寧に手に取って口付けた。


「この靴が、百合ちゃんを守ってくれますように。百合ちゃんが幸せでありますように」


 そして口には出さずに許しを請うように最大の願いを心の中だけで唱える。


 ――百合ちゃんの幸せが俺のそばにありますように。





    了

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フェティシストの恋 (連作短編) 小鳥遊 慧 @takanashi-kei

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