靴(2)

 百合ちゃんに通学用の靴を作ってあげた春から3ケ月弱。夏生まれの彼女の誕生日プレゼントを今年はどうしようかと考えはじめる頃、朝からじとじとと雨の降っている日だった。梅雨がなかなかあけない。傘をさしての帰り道でスマホが鳴った。メールはともかく電話はそんなにかかってこないので内心首を傾げながら開くと、春以来会っていない少女の名前が書いてあった。


「はい」


『……涼ちゃん』


 そう、呼びかけてくる百合ちゃんの声は弱々しく擦れていた。受話器から微かに雨の降る音が聞こえてくる。彼女も外にいるらしい。


「百合ちゃんどうしたんだい?」


 様子のおかしな彼女に、帰宅する足を止めて電話に答える。


『涼ちゃん……家出しちゃった。涼ちゃんちに行ったらダメ?』


「家出……」


 思わず繰り返す。あの仲の異様に良い父娘に限って……。


『ごめんなさい。ダメなら……』


「ダメじゃない」


 普段は軽やかに跳ねるようなリズムで言葉を紡ぐ彼女が、重い口調で喋るのが痛々しくて途中で遮った。


「俺の家の最寄り駅は分かるね。そこで待合わせにしよう。俺はあと十分で着く」


『私もそれぐらいで』


「分かった。じゃあ東口で待合わせだ」


『ごめんなさい。ありがとう』


 ほっとしたように、受話器越しに伝わる空気が緩んだような気がした。


 電話を切ってから、早足で駅に向かおうとした途端、再びスマホが鳴った。珍しいことが続く。


「はい」


『おい、涼矢。百合の事知らねぇか?!』


 とった瞬間、早口の怒鳴り声が聞こえてきて、思わずスマホを耳から遠ざけた。


『百合がどこに行ったか分からないんだ、お前の所に何か……』


「何があったか知らないけど、百合ちゃんから電話はあったよ」


『本当か?! それで』


「話は最後まで聞けよ。家出したって言ってたから、とりあえず話を聞こうと思って待合わせはした。この調子なら兄貴が原因なんだろ?」


『それは……』


 図星を指されたら途端に分かりやすく狼狽えた兄に苦笑する。この思ったことの分かりやすい素直さは娘に遺伝している。


「百合ちゃんも何があったか知らないけど、動揺しているようだったし、すぐに家に帰しても可哀そうだ。とりあえず俺のところで落ち着かせるよ。状況によっては今日は泊めて構わないな? 明日は土曜だから学校休みだろ?」


『そうか……悪いな。頼んだ』


「いや……急ぐから切るな」


 ふっと溜息を付いた。あの子が家出か。この前の二人の様子からもそういうのとは無縁と思っていたんだけど、難しい年ごろになってきてるのかもしれない。


 冷静なつもりでもやはりかなり慌てていたようで、カードを当ててもまだ開かない改札に突っ込みそうになったり、電車に乗っているのに急いで歩いて行かなければいけないようなそんな気にさせられながら待ち合わせた駅に着く。


 待合わせの改札について目を見開いた。


 もうすでに百合ちゃんはそこにいたのだが、その姿に瞠目する。まだ着慣れていない真新しい制服を身に纏った彼女は荷物も傘も持っておらずずぶ濡れだった。慌てて駆け寄るこちらに向けられた瞳もぐっしょりと濡れているように見えた。セーラー服の胸元の臙脂のリボンが濡れてしょんぼりと萎れていて、その様子に彼女の心情が映し出されているようだった。


「百合ちゃん……」


「涼ちゃん……」


 何と声をかけていいか迷いながら彼女の名を呼ぶと、酷く弱々しい声で百合ちゃんが返してきた。それを聞いて、ひとまず気持ちを立て直す。


「ずいぶん濡れてるね。ひとまずうちに行こう」


 怯えたように立ちすくむ彼女に手を差し出す。そっと重ねられた手は雨に濡れたせいか冷え切っていた。


「晩ご飯はもう食べた?」


「……まだ、でも、おなか減ってないからいいの」


 普段の弾むような足取りは、今はまるで足枷でもつけているように重い。今は俺が手を引いているから歩いているようなもので、手を離してしまえばその場でいつまでも動かないのではないかと思った。


 途中のコンビニで必要な物を買ってから、重たい空気のまま彼女を自分の家に連れ、そのまま風呂に放り込んだ。あの制服をそのまま着せておくわけにもいかないから、比較的新しいTシャツとジャージを洗面所に置いておく。


「百合ちゃん、タオルと服、ここに置いておくから」


 一声かけてから、玄関で自分の靴と百合ちゃんの靴に新聞紙を詰めた。制服より先に彼女になじんだ様子の靴を見て、こんな時なのに少し気分が浮上する。


 ほとんど自炊をしない冷蔵庫には碌なものは入っていないが、かろうじて賞味期限の切れていない牛乳ぐらいは入っていた。あの子は確か、はちみつを溶いたホットミルクが好きだった。初めてそれを飲んだ時の驚いた表情と、それに続く弾けるような笑顔を思い出す。今回ははちみつなんてお洒落な物はないから砂糖で我慢してもらおう。


 用意をしてリビングに出ると、風呂から上がった百合ちゃんがソファーにちょこんと座っていた。やっぱり服は大きすぎたらしく、ジャージからは爪先しか出ていない。あったまったためか、その爪先は淡く赤く染まっていた。頬にも先ほど会った時は完全に引いていた血の気が戻っている。

 

「はい、ホットミルク好きだったよね?」


「ありがとう、ごめんね」


「大丈夫だから、ごめんはいらないよ。ありがとうだけもらっとく」


 先程から、らしくもなく萎縮した様子で謝罪を繰り返す彼女にそう言うと、ぎこちなく笑みをこぼした。両手で包むようにマグカップを持ち、口に近付ける。湯気が上気した頬へとあたって空気に溶けた。一口二口、舐めるようにちびちびとミルクを啜って、彼女は手元に目線を落としたままぽつりと呟いた。


「お父さんは再婚するんだって」


 その言葉に目を見開く。


「ねぇ、涼ちゃんは知ってた?」


「いや……初めて聞いた」


「よかった……私、全然気づいてなくて。今日、その人に会うまで、本当に全然」


 思わず嘆息した。兄は百合ちゃんに一切話すことなしに唐突にその再婚する相手を紹介したのだ。無神経としか言いようがない。確かに同じ家に居ながら父親が誰かと付き合っているというのに全く気付かなかった百合ちゃんも鈍いのだろうが、それでも兄はちゃんと話すべきだったのだろう。


 ……いや、そういえば、春に会った時に俺に何かを言いかけてやめていた。あの時の話題がそれだったか。


「涼ちゃんは子供みたいだって笑うかもしれないけど、本当に悔しかったんだよ。私はその人のこと全く知らないのに、その人は私にはじめまして百合ちゃんって言うんだよ。私はお父さんから名前も聞いてなかったのに、その人は私の名前を聞いてたんだ」


 大きな目からそれに見合った大粒の涙をこぼす。


「そうか、それは酷いな」


 彼女が吐き出す言葉一つ一つに本気で相槌をうった。百合ちゃんだって父親の再婚に何が何でも反対というわけではないのだ。ただ、秘密にされていたのが悲しかったのだろう。自分には相手のことを秘密にして、そのくせ相手には自分のことを話しているのが裏切りのように感じられたのだ。いっそ不思議なぐらい仲の良い父娘だっただけに、一層。


「私、どうしていいか分かんないよ」


 涙を拭いもせずに俺が貸したジャージの膝の部分をぎゅっと握りしめている。きっと力の入れすぎで爪は白くなっているだろう。しゃくりあげるたびに上がる華奢な肩が痛々しい。


「そのまま兄貴に話すしかないな」


「そのまま?」


「そう。秘密にされたのが嫌だった。ずるいと思った。酷いと思った。あいつは鈍いから、それぐらい言ってやらなきゃ分かんないよ」


「そんなこと……」


 不安げにこちらを見上げてくる百合ちゃんの頭を撫でる。あまりちゃんと乾かしていないらしく、髪の毛はまだ少し濡れていた。


「大丈夫。兄貴はそんなことで百合ちゃんを嫌いになったりしない。なにがあっても百合ちゃんのとあいつが親子なのは変わらないんだから」


「うん……」


「明日、送ってあげるから、ちゃんと言いなよ」


「涼ちゃん、ついてきてくれる?」


「君がそう望むなら」


「じゃあ、ちゃんと、明日帰る」


「分かった。兄貴にはそう電話しとく。百合ちゃんがかける?」


「やだ」


 拗ねたようにそう言うのに小さく笑って、電話をかけるために部屋を出た。


「もしもし」


『百合は?』


 俺からの電話だってことはスマホのディスプレイに出てるだろうが名乗る前からこの第一声に少し安心した。


「兄貴、再婚オメデトウ?」


 いくらうちの鈍い兄貴でも俺の言葉から何かしらの含みを感じたらしく電話の向こうで唸っている。


『百合は駄目だって?』


「というか、それ以前の問題だろ。兄貴は何でいきなり百合ちゃんに会わせたんだよ。その前に情報開示位しとくべきだろ。俺も今日百合ちゃんに言われて初めて知ってびっくりしたぞ」


『まあそうなんだが何だか言いだしにくくてな……』


 そんなことだろうと思ったけど、兄はほとんど何も考えてないようだった。思わず溜息を吐く。


「あの子の気持ちも少しは考えなよ。兄貴は百合ちゃんに甘え過ぎだ。今日は泊めて明日帰すから怒られろ」


 仲のいい親子だと思ってた。けど、たまにはしっかりぶつかることも必要かもしれない。


『……分かった。涼也すまん、迷惑かける』


「まあ俺は兄貴の再婚とかどうでもいいけど、あの子にとっては大事なことなんだからしっかり話し合ってくれよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る