靴
靴(1)
玄関脇に植わっている木蓮が街灯に照らされて、ぼうっと白く光っているように見えた。この家にこの花が咲く時期に来たのはいつ振りだろうかとぼんやりと考えながらインターホンを鳴らす。すぐに勢いよくドアが開いて、ひょこっと顔がのぞいた。ついつい職業病で足元を見ると、玄関にあったらしい適当なサンダルを履いている。
「涼ちゃんいらっしゃい」
ぱぁっと花が開くような鮮やかな笑顔に、思わず眩しいものを見るように目を眇めてしまった。ほぼ半年ぶりに会ったにもかかわらず、この姪っ子は俺に無防備に笑いかける。昔から人懐こい子なのだ。
「こんばんは。百合ちゃん、いきなりドア開けたら危ないよ」
「大丈夫だもん。ちゃんと覗いたから。それに涼ちゃんがちょうど来る時間だったし」
家に上げてもらうと、台所で兄が晩飯を作っているのか、おいしそうな匂いが漂ってきた。先に立って歩く彼女の背中でゆらゆらと揺れるポニーテールは、一年でまた伸びたような気がする。大きすぎるスリッパの中で百合ちゃんの小さな足が泳いで、スリッパがパタンパタンと騒がしく音を立てている。歩くたびに見える黒のハイソックスに包まれた土踏まずから踵、アキレス腱へとつながる健やかに伸びるラインが目を惹いた。
「危ないことしてたら兄貴に怒られるぞ」
「あはは、涼ちゃん、内緒ね」
髪の毛を翻して振り返り、人差し指を口の前に立てる仕草は子供のようでいて、どこか女性を漂わせる。それを見てようやく思い出した。あぁ、この子もこの春から高校生か。
「おう涼矢。悪いな、いきなり呼び出して」
リビングに通されると、兄が台所から菜箸を持ったまま出てきたのに思わず笑う。
「何だよ。来て早々失礼な奴だな」
「悪い悪い。兄貴が料理してる姿って、どうも違和感あるんだよ」
まだ学生だった頃、両親が出かけている時は決まって俺に「何か作れ」と命令していたこの兄が、今では娘のために晩ご飯を作っているのだ。笑うしかないだろう。だが兄は分かりやすく機嫌を損ねたようで、
「ようし、涼矢は晩飯はいらないらしいな」
と、わざとらしく言ってきた。その言い方がまた子供っぽくて笑ってしまいそうになるのをぐっと堪える。
「だから、悪かったって。晩飯までまだ時間あるなら、百合ちゃんの靴合わせとくけどどうする?」
「先にやっといてくれ。こっちはもう少しかかる」
「分かった。じゃあ百合ちゃん座って」
「はぁい」
彼女が素直に食卓の椅子に座ってスリッパを脱ぐ間に紙袋から箱に入った靴を出す。この春から彼女が進学する高校が指定しているのと同じデザインのローファーだ。
「忙しいのに、いきなり言ってごめんね」
「いや、いいんだ。三年間履くんだから、やっぱり合ってる靴がいいよ。頼んでくれて嬉しかった」
「本当は誕生日でもないし、学校で買おうと思ったんだけど。涼ちゃんの靴に慣れてたら、なんだか痛いんだもん。涼ちゃんがほとんど毎年誕生日に靴を作ってくれるから、私、靴に関して贅沢になっちゃったよ」
「心配しなくても、これは入学祝い。誕生日にはまた別のを作ってあげるよ」
「ええ?! いいよ、そんな、悪いもん」
「気にしないで。俺もたまには女の子の靴作る方が楽しいし」
無理を言ったと気にしているのか、もじもじと右足の爪先で左足の甲を擦っているのを捕まえて足首から掬い上げた。小さな足だ。普段紳士靴を作ることが多いので、比較すると一層小さく感じる。握りしめてしまえば、足の甲を形作る緻密な骨が砕けてしまうんじゃないだろうかと思えてしまうほど華奢だ。
作ってきたローファーに緊張もなく力の抜けた爪先をするりと滑り込ませる。靴と足の隙間に指先を入れて大きさを確かめ、かわいらしい形の踝が靴にあたってないかを確認する。両足にローファーを履かせて、その足首に口付けた。
「涼ちゃんはいっつもそれするね」
「ちゃんと百合ちゃんを守ってくれますようにっておまじない。嫌?」
「嫌じゃないよ」
いい年の大人が「おまじない」などと言うのが面白かったのか、クスクスと笑っている。本当にこの春高校生になる少女かと思うほど無邪気だ。
「笑ってないで歩いてごらん。急ぎだったから前回と同じサイズで作ってしまったし、合ってないかもしれない」
「大丈夫だよ。もう三年も靴のサイズ変わってないもん」
そう言いながらも、彼女はソファーの周りを少し緊張した足取りで歩く。ぴたりとはまった靴はこちらから見れば、特に問題はないようだ。視線を上げると、歩みに合わせてプリーツスカートがはためいて、小作りの膝小僧が見え隠れしていた。嬉しそうに笑っている。その顔を見て、ようやくほっとした。
「すごいね、ぴったり!! 全然痛くないよ」
「そりゃあよかった」
「うん、涼ちゃん、本当にありがとう!」
跳ねる様にこちらに駆け寄って、満面の笑みを浮かべる。そうして動いても、俺の作った靴は、彼女の足から寸分も離れなかった。そのことに満足して俺も薄らと笑みを浮かべた。
「おーいお前ら飯できたぞ。百合はそっち終わったら手伝いに来い」
「はーい!」
呼ばれた百合ちゃんは慌てて靴を脱ぎ、キョロキョロと周囲を見渡してから俺が靴を入れていた箱にそっとそれを置く。スカートを翻して台所に駆けて行った彼女は父親に纏わりつくようにして今履いていた靴の話をしている。本当に仲がいい親子だ。あの子がまだ小さかった時にあの子の母親を亡くして、家のことが何もできなかった兄貴にちゃんと育てていけるかと心配していたのは無駄になったようだ。
* * * *
それから兄が作った晩御飯を三人で一緒に食べて、にこにこと笑って手を振る百合ちゃんに見送られて帰路に着いた。車で送ってやると偉そうに言う兄に甘えることにする。
この辺りの街路樹には木蓮が多い。住宅街の薄暗い中をヘッドライトに照らされているところだけ木蓮の蕾がぼおっと輝く。
「あの子、年々義姉さんに似て美人になってくるな」
「……そうか?」
普段馬鹿みたいに娘を自慢する兄にしては珍しく、歯切れ悪い返事をする。隣の運転席を見れば、気まずそうな微妙な表情をしていた。義姉が亡くなってもう十年ほども経つというのに、まだ彼女の話題は駄目らしい。仕方がないので笑い話にしておく。
「うん。特に足の作りが。兄貴に似なくてよかったよ」
「あいっかわらずの脚フェチだな、この変態。お前、人のこと絶対顔じゃなくて足で覚えてんだろ」
「流石にそこまで酷くない」
「そんなんだから結婚できねぇんだろ」
「できないんじゃなくて、しないんだよ」
「だよなー。お前もてなくはないだろ。彼女いんの?」
「余計なお世話だよ。……それにあんまり興味ない」
「もったいねぇなぁ」
「そうかな? 仕事の方が面白いからかな。俺は、一生独身でもいい」
言いながらニヤニヤと笑いながら運転をしている兄の横顔から目を離して、外を、遠くを見る。
あまりこの話はしたくない。
いつもならこの手の話題が大好きで、なんだかんだとつっこんでくるくせに、今日の兄貴はそこで黙った。
しばらくしてぽつりと声を出す。
「なぁ、涼矢」
「何?」
「……いや、何でもない」
無神経なくらい何でもかんでも口に出す兄の珍しい姿に、内心首を傾げつつ黙った。その方が俺も都合がよかったからだ。いつになく口数の少ないままその日は別れることになった。
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