ピアス(3)
「おい、藤江。このメールどういうことだよ」
菅野君が帰ったのと入れ違いに来たのが不機嫌な部長だ。不機嫌なのは、まぁ、しかたがない。何せ今、部長が突き付けているスマホの画面は私の送ったメールで、それは『五時までに来たら殺す』なんて、物騒なものだったから。
「ごめんごめん。菅野君の耳にピアスホール開けてたから邪魔されたくなくって」
描きかけの絵から目を離して、部長の方を見る。部長はもう、今日は描く気がないのか、鞄を放り出して画材の準備もせずに私の隣に座った。
「え、お前、菅野のピアス開けたのか? 無償で?」
部長は細い目をめいいっぱい見開いて、驚きをオーバーに表現している。
「うん」
「はぁ?! 俺が頼んだ時は、一言目には『何が嬉しくてあんたの耳に穴を開けなきゃいけないのさ』で、二言目には『見返りは?』って言った挙句、次の日の昼飯を奢らせたくせに」
ぎゃーぎゃー喚いているのが煩くて、耳を掌で覆った。それから部長が黙るのを待ってにっこり笑って言い放った。
「あんたと、かわいい菅野君を一緒にすんな」
私のその言葉に沈没した部長が、浮上してくるのを微笑みながら待つ。
「お前……菅野のこと好きだよなー」
「ふふ。だって、彼、かわいいじゃない」
「かわいいって……あんな背の高い男子高校生が?」
「かわいいわよ。大型犬みたいで。何でか知らないけど私のこと慕ってくれるし。天然記念物みたいに馬鹿正直で素直なところも」
「まぁ、いっそ馬鹿だよなーと思うぐらい素直なのは知ってるけど」
「思わず、悪いことを教えたくなっちゃうよね」
私が笑いながら言うと、部長はドン引きだとでも言うように、口元を引き攣らせて、椅子に座ったまま上体を仰け反らせた。
私だって菅野君のこと最初からかわいいなぁと思ったわけではなかった。彼は身長に見合わず幼くて、素直だったので最初はどうやったらこんな高校生が出来上がるんだろうと首を傾げていただけだった。
そんな彼が何故だか、犬がぶんぶんと尻尾を振ってる姿を想像できるほど私に懐いてきたときに面白くなった。もしかしたら、彼の持つ馬鹿みたいな無垢さを、私が好きなように染めることができるんじゃないだろうかと。
「お前、なんかとんでもないことを菅野に言ってないだろうな?」
「うーん。まだ言ってないよ。今回のことといい、先輩にしてはファッションのことに過剰に口出ししてると思うけど」
部長は私の言葉に過去を思い出すように目を泳がせた。
「あぁ、あいつが、髪染めるって思い付きで言った時か」
「うん。わたし、黒髪の方が好き」
彼のことを私が染めることができるんじゃないかと、薄っすらと思っていた時期に、菅野君は今回と同じように突然、髪を染めようかなと呟いていた。恐らく、いきなり中学と違い校則のない環境に放り込まれたので、何かしてみたかったのだろう。そう言った彼に私は、やめた方がいいと言った。本当は彼には別に茶髪が似合わないとは思わなかったのだが、私はもともと黒髪が好きだったので、それだけの理由でそう言った。
「あいつも流されやすいよな」
「ふふ。口出しのし甲斐があるよ」
そう、彼は流されやすい。それは私が口出しするファッションに関してだけではない。私が好きな画家の名前を上げれば、彼は図書館でその画家の画集を借りて見てくれる。彼が嫌いだという私の好きな教科の勉強を見てあげれば、一生懸命勉強してくれる。私が好きな作家のマイナーな本を貸せば、眠い目を擦りながら頑張って読んでくれる。
そうやって私の好みを押しつけていたのに、菅野君は気付いてか気付かずにか、自然にそれを吸収していった。
まるで、私のことを知りたいと言ってくれるかのように。
まるで、私に恋をしているかのように。
そして、私はそれがとても気持ち良かった。
それでも決して、そう決して、私は菅野君が好きだったわけじゃない。
ただ単に、自分の言うことを聞く、彼が面白くてかわいかっただけなのだ。
一週間前までは。
『同じクラスの女の子と付き合い始めたんです!!』
そう、でれっでれの笑顔で私たちに報告してきた彼に対して、私はただ、馬鹿でかわいいなぁと思った。だって、部長に言った時点で根掘り葉掘り質問されまくり、色々恥ずかしいことまで訊かれてからかわれるのは目に見えてるのだから。それなのに嬉しくって仕方がないという満面の笑顔で、それを語る彼はかわいかった。
けど、そんな感想はそこまでだ。
その日の夕方、吹奏楽部の彼女と待ち合わせて下校していた。彼女は小柄なかわいいタイプの子だった。これは後に部長に報告して菅野君がからかわれる材料になったのだが、私の関心はそこにはなかった。
菅野君は見たことがない顔をしていた。聞いたことのない声をしていた。
ほんの気持ち緊張させつつも、私や部長が放課後の美術室で聞く甘えた声とは異なる、硬質のそれでいて少し背伸びをしているような大人びた声。キラキラと憧れをこめた、自分の方が背が高いにも関わらず見上げるような眼差しとは異なる、愛おしいものを見る柔らかな眼差し。私たちの前でみせたでれっでれのだらしない笑顔とは異なる、緊張を孕んだはにかみ笑い。
それを見た、聞いた私の感想は『かわいい』や『面白い』ではなかった。
ずるい。
あの子はずるい。
私が向けてもらったことのない、大人びた声を、愛しいものを見る眼差しを、はにかみ笑いを、間近で見られる、与えてもらえるあの子はずるい。私だって見たい。私だって聞きたい。
私だって欲しい。
むしろ他の子にはあげたくない。
「……なぁ、藤江」
「何?」
回想に浸っていた私を呼び戻したのは、その大柄な身体には合わないような、困ったような部長の声だった。部長は見かけによらず細かく敏感だ。それは部長の絵が語っている。
「いやーな予感がしてるんだけどさ……お前の言う、菅野に向けた好きって、まさか恋愛感情じゃないよな?」
それに対して私はにっこり笑うだけで答えに代えた。部長はあちゃーとでもいうように、天井を仰いだ。
この私の中で荒れ狂う独占欲は恋というカワイイ名前のものにしては歪んでいるのは自覚している。けれども、私の語彙では他の物とは思えないのだ。
今回のことは宣戦布告。私は私の欲しいものに印をつけた。今のところ菅野君は彼女のものだけど、彼の耳に穿たれたささやかな傷痕は私のものだ。本当は氷を使った方が僅かに痛みを軽減できるのも、両方試してみた私は知ってる。けれども敢えて使わせなかったのは、彼の心に、精神に、記憶に、より深く深く刻むため。その傷痕が私のものだということを身体でなく記憶に刻むため。
そしてその記憶は私のものとも繋がるのだ。ピアッサーの引き金を引いた時の感覚を、彼の懸命に押し殺した悲鳴も、一緒に指を重ねて引いた二回目の時の彼の微かに震える指先も、皮膚を伝う真っ赤な血も、全て全て私はずっと鮮明に覚えているだろう。
「なぁ、藤江。頼むから、菅野を浮気とかに誘うなよ。あいつ天然記念物並みに純粋なんだからな。お前の倫理観っていまいちあてになんねえんだよ」
私は心底心配した様子で忠告する部長に対してもう一度、ただ口の端をあげて答えに代えた。
了
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