羅生門 -もう一つの人生ー
宮下くれは
羅生門 -もう一つの人生ー
駆けてゆく男を見ながら、老女は呻いた。
そのとき、何日も人と話さなかったことを思いだした。やっと交わした男との会話も、虚しく言い訳となり、蹴倒されたわが身は驚くほど軽い。
苦しくのどから絞り出したその叫びは、悲痛で、寂しげであった。
老女は再び、死体のなかへと横たわった。
男に着物をはぎ取られたその体は、骨が透けて見えるのではないかと思われるほど、薄く、乾いていた。
もう、自分が生きているのか、死んでいるのかさえわからない。ついさっき自分が髪を引き抜いた女を横目に見て、自分も彼らと同じ死人なのではないかと思えてきた。
干からびた肌から、ここへ上がってくるときに降られた雨が滴る。
ああ、寒い。
思いながら、老女はゆっくりと目を閉じた。
商家に生まれ、裕福でもなかったがさほど貧しくもなかった。優しい母と仕事に熱心な父に育てられ、それなりに幸せな幼少期であった。
十を迎えるころ、弟が生まれた。祖父母や両親は、念願の跡取りであるとたいそう喜んだ。彼女は弟が好きだった。しかし、彼女への両親の扱いは、それまでとは変わっていった。
しばらくして、彼女は気づいた。この家に、自分の居場所はないのだと。
十三を控えた、ある秋の日。父は彼女に、里を出て奉公へ出ることを命じた。おまえは家事も育児もしっかりやれる、できた子だ。都の名家に新しく若奥さんがいらっしゃるらしい。これから赤ん坊も生まれるだろうから、しっかりお勤めするのだよ。そう言った父の眼は、とても厳しかった。
奉公先は、大きな屋敷だった。同じ商家でも、これほどの違いがあるのかと、子供心に驚いた。
先に奉公へ出た幼馴染の子供らのことを聞いていたので、仕事がどれだけ辛いことか、覚悟はしていた。しかし、その予想は幸運にも外れた。その家の主人も奥方も、とてもやさしい人だった。彼らには若旦那である一人息子がいて、今度奥方をめとるのが彼だった。彼も人のいい性格であったが、少しのんびりしたところがあり、そして遊び人だった。新しく嫁いできた奥方は、彼女もまた名家の出で美しく気立てがよかった。歳も近い彼女が、一番、女をかわいがってくれた。
若奥方の懐妊までには、さほどの時間はかからなかった。奉公に出て二年、女は、彼女の身の回りのことは難なくこなせるようになっていた。
生まれた子供は、母に似た可愛らしい女の子だった。女は、弟が生まれたときよりも、強い感動を覚えた。なんと美しい子かと思った。そして、なぜか寂しく、悲しく感じた。
子供が大きくなるのは速い。嬢はあっという間におてんば娘へと育った。父親に似た明るい性格に母親似の美しい面のその子は、誰からも愛され、そして女のことを好いていた。女も、商家の娘なのだから立派なお嬢さんにおなりください、と厳しく教育をしながら、しかし彼女を愛してやまなかった。
そのころからだろうか、都に、暗雲が立ち込め始めたのは。商売をやめざるをえなくなった商家が目立ってきていた。それは、大旦那が隠居して、若旦那が店を預かるようになっていたときだった。
「若奥様、お薬はお飲みになりましたか」
屋敷の奥の部屋には、長いこと、若奥方のせき込む苦しい声が響いていた。
「ええ。でも、ただの風邪よ」
「若奥様はお体が弱くていらっしゃるのです。侮ってはいけません」
そのとき。
「お母さま。見てください」
手習いを言いつけていたはずの嬢が、部屋に走りこんできた。
「お嬢さま。お母さまは具合が優れないのです。そのように大声を出されては――」
若奥方が手で制止して、頷く。
「なんですか」
嬢が差し出したものを覗き込むと、ぴょん、と何かが飛び出した。
「あっ」
嬢が急いで追いかける。
「お嬢さま。蛙をお家に持ち込むなんて、なんと汚い」
「よいのです。私が外に出られないから、持ってきてくれたのでしょう」
しょぼくれながら、嬢は小さく頷いた。
「ありがとう。でも、お勉強を抜け出してはいけませんよ」
「はい、お母さま」
嬢は咎められたことを忘れたように、けろっとして答えた。
「帰ったえ」
知らぬ間に部屋を覗き込んでいたのは、若旦那だった。彼は白い包みを手にしていた。
「おまえに土産じゃ」
彼が広げた包みには、何着もの羽織が入っていた。奉公の身である女にも、それがいかに良い品であるかははっきりわかった。
「旦那さま」
若奥方は、目を伏せ、わずかに眉をひそめた。
「ええ、ええ。おまえのためなら、なんぼでも金を出そう」
「そうはおっしゃっても、わたくしの身は一つにございます。こんなに頂いても、着られませぬ」
若旦那は、楽しそうにからからと笑う。
「おもしろいことを言うなあ」
会釈して見せた若奥方の表情は、女には、とても辛そうに見えた。
若旦那は、店を継ぐ前から金遣いが荒かった。両親である大旦那や奥方は、一人息子である若旦那に甘い。しかし、この店の経営が傾き始めていることは、下の使用人たちでさえ気づいている。
「おまえは、幸せに、なるのですよ」
若奥方は、やっと捕まえた蛙を満足そうに眺める嬢を抱き寄せて、絞り出すように言う。不思議そうに母を見上げる嬢に、女は胸が締め付けられた。
それから何年もたたない頃。女は店の長に呼び出された。
なぜ呼び出されたかは、聞かずとも容易にわかった。店の使用人たちが、近ごろどんどん減っている。
案の定、暇を言い渡されたとき、女には食い下がる気もなかった。ここまで雇い続けてくれたこの家に、感謝こそすれ、恨みなどない。
しかし。
「出てくるえ。夕過ぎまでには戻る」
女が失職した、ちょうどその日の昼に着流し姿で出てゆく若旦那には、眉をしかめた。
若奥方へ挨拶すると、彼女はひどく悲しんだ。どうしてあなたが、と悔しそうに言ったが、どうすることも叶わないことは明白だった。
嬢に言えば駄々をこねて嫌がることもわかり切っていた女は、彼女には言わず出ていくことを決めた。若奥方も、それがよいと承諾した。
女は、皆が起きる前、早朝に屋敷を発った。
これから、どうしようか。
突然に、職ばかりでなく住む場所も失ってしまった。
屋敷からは、長年勤めたゆえ感謝の気持ちだ、という若奥方や使用人をまとめていた同僚の計らいで、いくらか手当をいただいた。しかし、数日の宿代と食費ですぐになくなってしまうだろう。
女には、すでに弟が継いだと聞いている里の自家に戻るという選択は、なかった。新しい働き口を探すためにも、京内のほうが利があるだろう。とはいえ、この時世である。すぐに職が見つかるはずもなかった。
都には、伝統を誇る長年の老舗が多く軒を連ねる。それにもかかわらず、今時は戸口を閉めた店が目立つ。
あてもなく町を歩きながら、女は人の流れを眺めていた。大きな荷を担いだ者やなにやら難しい話をする男らが、早足に通り過ぎてゆく。
なにをそんなに急ぐのだろう。
目の前の大きな屋敷の前で、取引に失敗したと見える行商人が、悔しそうな表情で会釈している。少し離れたところには、二人の検非違使が駆けてゆくのが見えた。
日差しが強く照りつける町には、黒いよどみが広がっていた。
空を見上げ、太陽の光に目を覆う。女は、今は何時であろうか、と考えた。
そろそろ、嬢が自分のいないことに気づいたころであろうか。一人で身支度できるだろうか。手習いを投げ出さないだろうか。
考えて、しかし、女はため息をつき、考えるのをやめた。
そのとき、客を呼び込む店の脇に、女の目が止まった。
物乞いだ。今までも、使いに出たときに見たことはある。しかし、今まで気にも留めなかったその姿は、薄汚れて擦り切れてしまいそうな着物と、久しく手入れしていないと思われる髪に、みすぼらしさを感じた。ちょうど客を送り出したその店の主人が、その汚れを振り払おうと、彼をにらみつけ、去るように手振りした。
なぜ、今、あの姿が気になったのだろう。
顔をそらした女は、うつむいたその目に、自分が持つわずかな荷物を認め、苦笑した。
しかし、自分がああなるわけにはいかない。誇りを失ってはいけない。
その思いで、女は一瞬震えた唇を噛んで、彼の前を通り過ぎた。
翌朝、安宿の一室で目を覚ますと、外が騒がしかった。宿の主人に聞くと、ある夫婦が向かいの古屋敷に越してくると言う。そのために、その屋敷の改修が始まったらしい。
「こない時世に都登りなんて、あほらし。よりによって、摂津のもん呼んで」
主人の話に、女は、一つの考えを思いついた。
「私を、ここの飯炊きに雇うていただけませんか」
宿を出ると、女は、改修の指揮を執っているらしい職人に声をかけた。
「あんた、誰や」
「どんだけ安うてもかましません。見ると、ここには職人方が幾人もいらっしゃいますけど、女衆は一人もいません。飯炊きが必要なのと違いますか」
「おう、そりゃそうじゃけどな。ほな、そないしてもらおか」
幸運にも、職にありつけた。もちろん、腹をすかせた職人たち全員分の昼餉を用意するのは、並大抵の大変さではなく、その合間には職人たちの着物の繕いもしなくてはならなかった。しかし、失職して数日、仕事をしている、というだけで、女は元気が湧いてきた。
しかしそれも、長くは続かなかった。普請が、中途打ち切りとなったのだ。
「ここに越してくる主人がここまででいいって言うんや。わしが思うに、あまり裕福なとこの旦那や無いらしいんじゃな。まあ、これでも住めるから、わしらは口出しせえへんがね」
女は失望した。しばらくは職に困らないと思っていたのに、当てが外れた。
しかし、思いがけず、職はすぐに見つかった。というのも、職人の一人に、仕事ができる女を探している男を紹介されたのだ。今の女にとって、職に付ければ何でもよかった。
よく知りもしない男についてゆくと、着いたのは、寂れた一軒の、遊女屋だった。女はこのとき、紹介してくれた職人が男と会ったのは遊びに行ったときだとつぶやいていたのを、初めて思い出し、眉をしかめた。
見るからに古いその楼は、人家とは呼べない小屋のようなもので、小さな風でさえ耐えられるかわからないほど、みすぼらしかった。
男の呼びかけで出てきた女主人は、にらみつけるような鋭い目で女を見ると、男に何か渡し、ついてこい、というように女に目配せした。にやりとその何かを握った手を掲げ去っていく男を、女は、嫌らしい、と細めた目で見送った。
女主人について、廊下を進む。きつい香の香りが鼻を突き、女は思わず口元を覆った。
「悪いが、遊女たちと一緒の部屋だ」
「ええ、構いません。それで、私の仕事というのは」
「なんだい、なにも聞いてないのかい。まあ、いい。おまえは大屋敷に奉公していたこともあるらしいじゃないか。だが、前の仕事場では、給金はどれだけ少なくてもいいと言ったと聞いている。いい威勢だ。ここの仕事にも耐えられるだろう」
薄汚れた襖をあけて、擦り切れた畳の部屋に通されたとき、女主人は古臭いが派手な紋様の着物を取り上げた。
「まあ、特に大変なことは言わない。ただ、遊女らの身の回りの世話をしてもらいたい。大抵のことは自分らでやるから、大かた、着物の洗濯や繕いだね。掃除も頼みたい」
女は黙って頷く。こんなところに連れてこられて、なにをさせられるかと思えば、そんなことか。女はひとまず、胸をなでおろした。
「私は片方の目が悪くてね。気を利かせていろいろと手伝ってもらえると嬉しい」
女主人が人差し指を立てて見せたその右目は、白く濁っていた。
「ええ、なんでも致します」
女が再び頷くと、主人は、嘲るように鼻を鳴らす。
「なんでも、かい。そんなこと、ここでは言わないほうがいいね」
意味深なその言葉に、女は眉をひそめた。
遊女屋が並ぶこの街の夜は明るい。といっても、端のほうまでは、その灯りはわずかにしか届かない。
この店には、一晩に数人の客が来る。大店に弾かれたようなみすぼらしい男たちが、遊びを求めてやってくるのだ。
楼の遊女たちは、見目はとても美しいとはいえないが、こんなところに暮らしながら気はいい者ばかりだった。歳のほどは女よりだいぶ若く、身の回りの世話を献身的にする女を、皆慕った。
若い女たちの世話は、思いのほか楽しかった。しかし、夜は女にとって、憂鬱な時間であった。客の醜い声に、遊女らの苦し気な吐息が響く。そんなとき、女は着物を繕うのに集中して、その音が耳に入らないよう努めた。
そして、女が一番、苦痛だったのは、不運にも妊娠した遊女の腹の子を下ろすときだった。女には、そもそも、下劣な男らの子を身ごもった遊女が不憫でならなかった。しかし、それよりも、堕胎に苦しむ彼女たちを見ていることが辛かった。
主人は、女に、遊女たちの堕胎も言いつけた。遊女屋の堕胎は、植物の毒を用いる術を使うと聞いていたが、主人には、そんなものの用意は不要だと言われた。冷水に浸けたり、腹に強い衝撃を与えたりして流すしかなかった。
堕胎するのは、大抵、若い遊女だった。何度も経験した者は、身ごもらなくなるからだ。それが余計に、女を苦しめた。年若き女が、誰の子ともわからぬが、しかし自分の子を流す辛さ、その痛みは、経験のない女にも理解できた。
「姐さん、あんた、この街には合わないよ」
水揚げから半年も経たない遊女の堕胎を終えたある日、辛さに顔を歪める女に、一人の遊女が言った。そんなことを言われずとも、自分が一番わかっている。
ある夜、なぜかその日は客が少なかった。奥の座敷が騒がしい。女も、主人に呼ばれて奥へ行くと、そこには馴染みの遊女が横たわっていた。
「梅毒さ。もうすぐ死ぬよ」
主人の言葉は冷めきっていた。思わず身をこわばらせた女は、次の言葉を待つ。
「急いで、男衆を呼んでおくれ」
主人の言ったその意味は、女にもすぐにわかった。
人相の悪い、下働きの男らは、息も絶え絶えの遊女を担いで出ていった。女も、急ぎ後を追う。
京のはずれにある寺に着くと、男らは遊女を境内に投げ込んだ。男らは、それがなんでもないことであるかのように、すぐにその場を去っていった。しかし、陰からそれを見ていた女は、さっと出て行って、遊女の気に入りである羽織を彼女にかけた。
まだ、息がある。しかし、自分ももう、戻らなくてはならない。
「安心なさい。これで、もう、解放される」
もう、失うものは失った。そう思うのに、女は、街を出ることができなかった。生きることを、諦められなかった。こんな場所でも、仕事ができるのはありがたい。そう、思うしかなかった。
しかし、そんな女にも、転機が訪れた。とはいえ、その転機は、女にとって、喜ばしいものではなかった。
主人の言いつけで、大店のある街の中心地へと遣いに出たときのことであった。
楼の道具類を買った後、女は夕刻の強い西日に向かって、帰路を急いでいた。そのとき。
明りが灯り始めた街に、見慣れた顔が照らし出されていた。彼は、大店の格子窓から遊女らを舐めるように眺め、その口元は緩んでいた。
最後に見たときより、貫禄がよくなり、着物も良い品を着ている。
「旦那さま」
呟いた女の目は、怒りと嫌悪に燃えていた。
彼が遊び人であることは、若旦那のころから知っている。しかし。嬢はもう、年頃を迎えるころだろう。体の弱い若奥方は、どうしたろう。
頭には、悪いことばかりが思い浮かび仕方なかった。
もう、こんなところにはいられない。幸せな現実を持ちながら、遊女たちが使い捨ての道具のように扱われるこの街に、夢を求めてやってくる男たち。
今まで目をそらし続けていた、華やかな街に渦巻く黒すぎる闇を、まざまざと見せつけられた気分だった。
誰にも告げずうまく楼を抜け出した女は、夜明けが近づく街を駆けた。
どこにも行く当てはない。しかし、ここを出るしかない。
長く走り続け、息が切れて、もう走れない、と足を緩めたころ。日は高くなり、京の商家は多くが店を開け始めていた。
額の汗を拭って顔を上げると、いつの間にか、見知った場所に出ていた。
いつか、飯炊きとして雇ってくれた、職人たちが改修をした屋敷。改修は中断されたとはいえ、もともと立派な屋敷だ。女は、思わず、見上げて呆けた。すると。
「あなた」
屋敷の裏から、知らない女が顔を出した。
「あなた、普請のときに職人さん方のお世話をしてくださっていた方でしょう」
小さく頷きながら、女は首を傾げる。誰だったろうか。
「あ、ごめんなさい。知らないのも当然ね。私が一度見かけただけで、お話したこともありませんもの」
まだ年若いその女は、この屋敷に越してきた主人の奥方だと言う。見ると、こんな立派な屋敷に住みながら、彼女の着物はあまり良いものとはいえなかった。それに、その手には洗濯の泡がついている。
そのとき、屋敷の中からか、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「あら、大変。私、戻りますね」
奥方は、焦ったように戸口のほうへ向いた。
「あの、なにか、お手伝いいたしましょうか」
女は、思わず声をかけていた。奥方が、驚いたように振り返る。
「よろしいのですか」
奥方のその言葉は、意外にもすんなり放たれた。もちろん、女はすぐに頷き、屋敷へと通された。
屋敷には、使用人が一人もいなかった。家財も、数えるほどしかない。女は、不思議な空間に迷い込んだ気分だった。
「お恥ずかしい。立派な屋敷に住まいながら、生活が伴っていないのです」
奥方は肩をすくめた。
ああ、そうか。この奥方も、主人の見栄に付き合わされているのだな。女は目をそらした。しかし、それが思い違いであることは、すぐにわかった。
「この屋敷はもともと、旦那さまのお父上の持ち物だったとか。婚姻祝いにいただいたのですが、私たち夫婦はここに見合うだけの階級にはないのです」
赤ん坊をあやしながら寂しげに言う奥方に、女は苦しくなった。もしかしたら雇ってもらえるかもしれない、と企んでいたことをひどく悔やんだ。しかし。
「もしあなたさえよろしければ、こちらで働いて頂けませんか」
それは、思いがけぬ提案だった。奥方は、赤ん坊を育てながら家の仕事もしなければならない、手が欲しいと思っていたところだ、と言った。しかし、給金はあまり期待しないでほしい、と付け加える。
女は承諾した。今までのことを思えば、給金が少ないことなど、何でもない。
その日の夜、帰ってきた主人にも挨拶すると、奥方の考えなら、とすぐに承諾してくれた。人のよさそうな、朗らかな人だった。
ある日、買い出しのため町へ出たとき、河原に見慣れぬ小さな屋台を見つけた。
何かが焼けるような良い香りに誘われ、そちらを見に行くと、一人の貧相な女が、火であぶったなにかを客に渡している。旨そうにそれを食べる客の話から、鰻売りだとわかった。
この時世に、鰻を屋台で買うなんて、何て贅沢な。思ったが、案外、値は安いようで、女は不思議に思った。
女はその後、坊の用品や夕餉の食材の買い出しを済ませると、帰路に、例の小さな屋台はすでに畳まれていた。しかしよく見ると、向こう岸に鰻売りの女が見えた。
あっ。女は、思わず息をのんだ。鰻売りの女が草むらから捕まえたのは、一匹の肉厚で太い蛇だった。女は瞬時に悟った。鰻売りは、蛇を鰻と偽って売っていたのだ。
口中に酸っぱい液体が流れ込み、女は吐き気を覚えた。
なんと哀れなのだろう。生きることに困窮し、偽りの商売をしながら、客を喜ばせ、笑みを浮かべて礼を言う。売る女も、買う客も、なんと、ひどく哀れではないか。これが、今の、京の姿なのか。女は顔を歪めた。
しかし、当の女も、その闇に呑み込まれた者らの例外でないと気づくのは、そう先のことではなかった。
屋敷に帰ると、夕餉の支度をしようと入った土間に、奥の座敷から、奥方の声が聞こえた。
「坊や、坊や。なんとかわいいの。おまえは、元気で、美しい子におなりなさい。父さまと母さまが、おまえを守ってあげますからね」
それは、幼い頃に母に言われた言葉に、よく似ていた。そして、そう言われた数年後、自分は家を、追い出された。
なぜ、十年以上もたった今になって、こんなことを思いだすのか。女は唇を噛んで、調理に集中した。
それでもなお、女の頭は悪い方向へ考えが向いてしまった。
貧しくてもかまわなかった。普通の、暮らしがしたかった。世にいう女の幸せを、味わってみたかった。愛する人と添い、自分の子を産みたかった。
しかし、それがもう叶わないことは、何年も前から知っていた。
数日後、洗濯をするため、早朝に川へ出かけた。
川の流れは凍り付くように冷たい。あかぎれた手は、かじかんでほとんど感覚もなかったが、しかし、女にとってこの時間はほんの至福であった。
なにも考えなくていい。河原の草についた朝露の匂い、川のせせらぎ、洗濯をした後の着物の清浄。女の心の乱れは、着物の汚れと共に流されるようだった。
しかし、その日は、それを邪魔する者が現れた。手を働かせていた女の目に、川を流れてきた布の切れ端のようなものが留まった。拾うと、それは麻布の端切れだった。
女はふと、上流に目をやった。
しかし、すぐに女はそれを見たことを後悔した。少し離れた上流河岸に、十人近くの死人が積み重なり横たえられていたのだ。そこでは汚れた着物を身にまとった、貧乏神のような男が一人、冷たく硬くなった死人の体を無理やり動かし、その着物をはぎ取っていた。
虫唾が走り、女はその手に持った布を、むしるように地面に投げ捨てた。
女は、後ろ脚に蹴飛ばしてしまった洗濯籠に、洗った着物を無造作に戻すと、屋敷に向かって一目散に駆けた。
屋敷に着き、焦った手で着物を干していると、しかし女の心はすぐに落ち着きを取り戻していった。
世間知らずの小娘でもあるまい。なにを、そんなに動揺することがあるのだ。そう自分に言い聞かせて、自嘲した。
夕刻、小路奥の井戸から水を汲んで戻ると、女は、主人が何かを手に屋敷に入ってゆく姿を見つけた。土間へ入ると、奥から、主人と奥方の話し声が聞こえた。
「珍しく、いい品が手に入った。おまえに似合うと思ってな」
「まあ、なんて、きれいな羽織でしょう」
その言葉が耳に届いたとき、女の目は大きく見開かれ、顔はこわばっていた。
以前奉公していた屋敷のことを、思い出さずにはいられなかった。ろくな生活もできず困窮しているというのに、気にもかけず豪奢な暮らしを続ける旦那、わかっていながら断ることのできない弱い若奥方。
もしかしたら、この奥方は、本当に喜んでいるのかもしれない。主人は仕事で思いがけず大きな金を手にしたのかもしれない。いい品と言ってはいても、生活に見合うだけのものかもしれない。戸越しで彼らの姿が見えず、その答えを知ることはできなかった。しかし、女には、そんなことはどうでもよかった。そんなことを、考える余裕は、すでに失われていた。女の耳には、坊の泣き声が、いつもより大きく響いていた。
女はすぐに洗濯籠を手にすると、干していた着物を取り込んだ。そして、わずかな自分の荷を乱暴に取り上げると、それらを抱えて屋敷を飛び出していた。
籠を抱えた女は、今朝河原で見た汚い男を思い出していた。これを売れば、数日生活するだけの金にはなる。女は、すぐにその考えを実行した。
古着屋に持っていくと、思いのほか、良い値がついた。今までの給金の
その心には、もう、物乞いを嫌らしいと思った気持ちも、偽りの鰻売りを哀れと思った気持ちも、引剥の男を醜いと思った気持ちも、すでに忘れられていた。そして、自分が彼らと同じことをした、ということすら、女は考えもしていなかった。
今まで、失われそうになりながら、失うまいと必死に守ってきた誇りは、驚くほどもろかった。しかし、今の女には、そんなことはもう、どうでもよかった。
そして、女を縛り付けてきたその感情が失われたこのとき、その解放感は得も言われぬものだった。
盗みを始めて最初のころは、死人から引剥ぎをすることには、まだ抵抗があった。だから民家から着物を盗んでは売った。しかし、繰り返すうちにその抵抗も薄れ、いつか見た男のように、女は河原の死人の着物も剥ぎとるようになった。
「いい場所だと、思ったんだがな」
老女は、死人が幾人も転がる門の上で、辺りを見回して嘲笑を浮かべた。
自分は河原で見た男のために、引剥へと転身した。それが今度は、若者を同じようなみじめな者にしてしまうとは。少し心苦しいが、まあ、どうしようもできまいし、どうしようという気もない。
ぼう、としてきた頭で、なんともないことを巡らしていると、女の体は、ぶるっと一つ、身震いした。
寒い。薄汚れてところどころ破けた腰巻一枚になった老体に、この寒さは応える。門の外に、激しく打ち付ける雨が、覗き窓から見える。いやしかし、もう死んでもかまわないと思っているのに、人の体というものは、なんと、懸命に生きようとするものだろうか。老女はまた、自嘲した。
そのとき。かすかに人の話し声が聞こえてきた。門の下あたりだろうか。
目を閉じたまま、老女は、聞くともなくその声を聞いていた。すると、その声は少しずつ大きくなってきた。こちらへ近づいてくるようだ。
「うっ。これは」
「ああ。身寄りのない者らが死ぬと、ここへ捨てられていくんだ」
女は薄く瞼を開いて首を傾ける。見ると、二人組の男は、
「またしばらくすると、どうにかしろって命が下るさ。なんと面倒くさい」
中年の検非違使が眉をしかめる。しかし、もう一方の若い男は、呆けてこちらを眺めていた。
「いや。今はそんなことにゃ構ってられない。逃げた女を探すんだ。お、思った通りだ。ここからなら見渡せる」
中年の方が、窓から顔を出し、町を見下ろす。
「あの女も、面倒くさいことをする。なんたって、鰻なんて偽って。この時世、わからぬわけがなかろうが」
「あ、あんなとこにいましたぜ」
若い方が、ほら、と遠くを指さす。
「でかした。行くぞ」
中年の方はすぐに梯子のほうへ戻っていったが、若い方は、先の男を追おうとしたその足を、なぜかそこに止めた。急いで閉じた目を薄く開けて窺うと、おそらく、こちらを見つめていた。死体でないと、気づかれたか。いや、気づかれたとてどうということはない。しかし、見つめるばかりで何も言わないところをみると、気づいていないのかもしれない。
「おい、さっさとしろ。逃げられるぞ」
梯子の下から叫ぶ男に、若い男も、へえ、と返事をし、しかしすぐには行かなかった。
さっさと去れ。興味を失った老女は、再び目を閉じる。すると。
ざらざらした、薄手の布が体にかけられた。
老女ははっとして、筋張った上半身を力一杯もたげた。しかし、そこにはもう、男はいなかった。
その羽織は、肌触りはとても良いと言えるものではなかったが、熱を帯びて温かかった。
老女は、久しく失って忘れていた感情を、思い出した。その頬に流れるものは、とても温かかった。それは、我が身に長く降り続ける雨とは、全く違うものだった。
しばらく、ぼう、とどこをともなく見つめていたが、その耳に雨音が戻ってきたとき、老女は顔を上げた。そして、その手に絡まった、横たわる女のものか自分のものか、見当もつかぬ髪を取り払う。羽織を
門を降りた老女は、雨脚が弱まり雲間に青を見せ始めた空を見上げた。
私は一度、ここで死んだのだ。もう、飢え死にしようと、流行病にかかろうと、なにも恐れない。
老女は、自分の着物を剥いだ男が去ったのとは反対のほうへ、羅生門を跡にした。
終。
羅生門 -もう一つの人生ー 宮下くれは @shirotaenyanko
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