第3話 槙野の話
昨晩はなかなかに酔っぱらっていた。それは認めよう。
酔った体にすらむしょうにあの部屋は寒くて、風呂の湯はまだ温かくて、服すら脱ぐのも煩わしかった。だから風呂場に脚を突っ込んだのだ。
自分のくしゃみで目が覚める。素肌に直に触れるシーツがしっとりと冷たいから、ろくに体を拭く暇もくれなかった事の性急さを思い出して笑ってしまう。
疑念さえあればよくて、具体的な行為までは必要としていなかったから、本当に指が触れた時には少し驚いた。触れられたから触れ返して、手を引かれるがままに立ち上がった。あとはまあ、成り行き任せだ。
眉根を寄せながら俺の肌から濡れたシャツを剥がしていた石井さんに、「抵抗ないんですか」と問うと、神妙な顔つきで「やめとく?」だなんて言われたのがなんだか滑稽で、そこから先はもう面倒くさいことを言う気も失せて大人しく快感だけを追っていた。
しおらしいとでも想ったのか、石井さんが愉快そうな顔をしたのが癪だったけれども。
単純ぶっている人間ほど不気味なものだ。骨の無い生き物みたいに得体が知れない。
ちらりと壁際の時計を見ると11時過ぎだった。寝室には窓が無いが、まあ夜ということはない、だろう。
そういえば脱がされた服がどこに行ったのか分からない。そもそも石井さんもいない。
思考がだんだん濁っていって、眠気に負けていく。落ちかかった瞼を無理やり開く気もしなくて、薄い毛布にくるまりなおす。また寝てしまってもいいか。多分許されるだろう。
電話は、してくれただろうか。
「槙野、起きて」
ああなんかデジャヴ、と思って目を開くと、堀内さんがベッドサイドに立っていた。
「……ほんとに電話してくれたんだあ」
「自分で『電話しろ』って言ったんでしょ」
「そう、ですけど」
石井さんのことは疑っていたというわけではないけれど、信用しているというほどでもなかったので、なんだかほっとした。
もぞもぞと体を起こすと、堀内さんが裸のままの俺の体を見てほんのわずかに眉根を寄せて紙袋を押し付けてくる。
「これ、着替え」
「すみません、わざわざ」
「本当だよ……」
受け取って、改めて堀内さんを眺める。昨日と同じ服装で、シャツには少し皺が寄っていた。
この格好のまま寝てしまっていたのかと可愛らしく思う。
「僕の何が気に入らないの」
脈絡が無いようで、当然の問いだった。
探るような冷たい視線に思わず頬が緩んだ。こういうところで、やっぱり堀内さんでなければと思う。
「気に入らないんじゃないんですよ、めちゃくちゃ気に入ってるんです」
別に堀内さんを孤立させたいわけでも、あるいは周囲にいる人が気に入らないわけでもない。
俺は堀内さんにひっついて、警戒心にべったり甘えて安心していたいだけなのだ。
堀内さんが石井さんの鈍感さに甘えて安心するのとちょうど同じように。
「服着てよ早く」
「ごめんなさい」
抱えたままだった紙袋をひっくり返すと、コンビニで買ったらしい新品の下着と、綺麗にたたまれたシャツとスラックスが出てくる。
「この服、堀内さんのですか?」
「そうだよ、わざわざ買ってくるわけないでしょ」
「じゃあちゃんと洗って返さないと」
堀内さんの顔は部屋の出口に向いている。そういえば石井さんは何をしているのだろう。
「石井となんかあったの?」
こっちを見たって取って食いやしないのに。下着の包装を破ってもそもそ身に着ける。
「そういうこと訊くの、初めてですね」
「別に言いたくないならいいよ」
「いや? 石井さんと寝ただけですけど」
まさかこの格好を見て添い寝しただけとも思うまい。
沈黙を呑み込むように堀内さんの喉元が動く。何か言いたいことがあったのかもしれないけれど、言わなかったのなら同じことだ。
「……本当にそれだけ?」
「あは、同級生と後輩がセックスしてても『それだけ』ですか」
じろっと視線がこちらを捉える。彼は何か余計な痕でもつけただろうか。シャツのボタンをわざとらしく一番上まで留めて微笑むと、浅くため息を吐かれた。
「槙野が何考えてるのか全然わからないんだけど」
「もっと頑張って考えてください」
堀内さんには、堀内さんだけでいいから、俺のことを警戒してほしい。的外れでもいいからもっと考えてほしい。
まったくもってわがままな話だけれど、俺は一秒たりともあなたに油断されたくない。
「俺のこと嫌いになりました?」
堀内さんは鬱陶しそうに僕を眺め回してから「僕の服だと似合わないね」と言った。
「石井に借りれば良かったんじゃない」
「そもそも俺は服持ってきてとまでは言ってないですけどね」
僕の指摘に、閉じられたままの口元が憎らしげに歪んだ。
この人は人の言葉を先回りしすぎる。探って、深読みして、勝手に疲弊して、その疲弊する自分を自己嫌悪して人と距離を取りたがる。
「さっきの質問、答えてくれてないです」
「……さあね」
不機嫌を隠そうともしなくなった堀内さんは、「帰るよ」と俺の腕を掴んでベッドから引っ張り上げる。
「次いつご飯行きます?」
「槙野も暇じゃないでしょ」
「暇じゃないけど堀内さん用の時間は空けられます」
俺が何か余計なことをしでかすのが怖いのか、堀内さんは俺の腕を掴んだまま玄関まで引っ張っていく。
バスルームからシャワーの微かな音がする。今朝の、熱を持って指を捕まえてきた手の感触を思い出す。
堀内さんの手は冷たい。
「堀内さんとは想像してるようなことは無いですからね!」
突然大声を出した俺の腕を掴む力が強くなる。シャワーの音が止まることはなかった。
「帰りますね、お邪魔しました!」
そのままほとんど引きずられるように靴を突っかけて玄関を出る。
「ああいう単純なタイプがお気に入りなんですか」
「うるさい」
「怒ってます?」
エレベーターに引き摺り込まれる。八つ当たりのように堀内さんが俺を捕まえていない方の手で1と閉のボタンを引っ叩いた。
「怒ってるよ」
衝撃で赤らんだ指が胸ポケットに向かって空を切る。タバコを探しているのだろう。そこには何も入っていない。
「槙野じゃなくて自分にね。会わせるべきじゃなかった」
苛立たしげに手を下ろし、僕の腕を解放する。場違いに軽やかな音を立ててエレベーターのドアが開いた。
「またご飯行きましょう。連絡します」
隔てるもののない昼間の光が眩しくて、おどけた顔で振り返る。きつい目で睨まれただけだったけれど、その目がただただ嬉しかった。
風呂場の祝祭 ギヨラリョーコ @sengoku00dr
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