第2話 堀内の話
安心するものほど遠くにあっていい。
何の話の時に言った言葉だろうか。映画だろう、きっと。旅に出る映画だ。旅に出て、やがて帰る映画だ。そんな映画は山ほどあるが、どれだっていい。僕たちは厳密には映画や本の話がしたかったのではなく、お互いの話がしたかったのだ。少なくとも高校時代の僕はそうだった。何らかの作品の感想という形を通してしか上手に話せない僕は、石井をずっと付き合わせ続けていた。
だからあの時も、感想に交えてその言葉を吐き出したのだ。安心するものほど遠くにあっていい。
「どういうこと? 『故郷は遠きにありて思ふもの』?」
「ちょっと違うかな」
石井はへえ、と、興味を失ったような返事をし、それ以上追及はしなかった。そのちょうどいい無関心さを僕は気に入っていた。
言ってしまえば、人の機微に鈍い石井に僕は心を許していた。心を許しながら疑っていた。自分の話を通して、2年間石井の鈍感さを値踏みし続けていた。
用事があるなんて嘘だ。石井から電話があった時、僕は漫然とベッドで寝転がっていた。
特段やることも無く、昨日飲み過ぎたせいか腹も減っていない。二度寝を決め込んでやろうかと思ったけれど、もう一度眠ろうにも深い眠りは訪れない。訳もなく何をするのも億劫で、ぼんやりと壁を見つめていた。
放り出していたスマホが震える。手に取って、現在時刻に気を取られる。12:45。
「はいもしもし……石井? 何かあった?」
『いや、槙野がさあ、帰れないーって』
石井の言葉に、内心で「ああやっぱり」と思う。槙野が帰れないと言い出すことにではなく、僕に電話がかかってきたことに。
『俺起きたらあいつ風呂場で水浸しになってて』
僕の沈黙に気付いていないのか、石井はぺらぺらと事の経緯を喋りつづける。
『帰り方もよくわかんねえって言うし、んでどうすんのって聞いたら「堀内さんに電話してください」って。俺が電話したら出るっつってさあ。マジで出てくれたから良かったけど、用事あんのにごめんな』
「……いや、大丈夫。もう終わったから。分かった、着替え持って迎えに行く」
『え、まじで』
「そのつもりで電話したんじゃなかったの」
『ああうん、そっか、そうだな、うん』
なにやらぼうっとした調子の返事に、思わず眉間に皺が寄ってしまう。
「石井、今起きたの?」
『いや、あー、ん、うん』
まるで自分の言葉でしゃべっていないかのような歯切れの悪さ。後ろに、誰かが立って耳打ちしているかのような。
いや、かのような、ではない。実際そうなのだ。槙野が、電話を掛けろと言ったのだから。
「まあいいよ、待ってて、1時間ぐらいで着くから」
服が濡れているのなら乾かせばいい。乾かないなら石井が貸せばいい。山奥深くじゃあるまいし、道が分からないのならスマホでも何でも使って調べればいい。僕が槙野を迎えに行く必要なんかひとつもない。
それでも槙野は僕を呼んだし、僕はその求めに応えようとしている。
後ろ手に閉めた自宅のドアが大きな音を立てた。
槙野と知り合ったのは大学のサークルでだった。学部も学年も違ったが、何かと一緒にいたような気がする。槙野以上に近しい関係になった人間がいなかった、ともいうのかもしれない。
サークルの飲み会での折にすとんと当然のように横に居座って、「堀内さんの近くが居心地良いんですよねえ」と言った、人懐こそうな笑みが、記憶にある限り一番古い槙野の顔だ。
「堀内さんって本当に律儀ですよねえ」
僕が就職してからも、槙野はたびたび僕に会いたがった。連絡が来れば僕は断ることなくその誘いに乗った。「ご馳走になりたいわけじゃないんですよ」と、学生の身分のくせに毎回それこそ律儀に割り勘にしようとするのは、もはや恒例となっている。昨日もそうだった。
昨日も、ああそうだ、昨日もやつは電話を掛けろと言ったのだ。僕のスマホの電話帳を指でなぞるようにして、「この人があの石井さんですか」と笑った。
石井の話は今まで何度か槙野にもしていた。高校時代の特に親しかった友人で、映画も本も趣味が合うのに感想がちっとも合わないのが奇妙なほどだったけれど、石井はきっとそれを面白がっていた、そんな話を。槙野はいつもどこか上機嫌にその話を聞いていた。
「ね、呼びましょうよ。俺、堀内さんのお友達に会いたいです」
「会ってどうするんだ」
「何だっていいじゃないですか。そんなに、俺には会わせたくないですか」
「そんなんじゃない」
「そうですか? でもこんなこと言うの初めてじゃないですか」
槙野の端正な笑みが近づいて、より一層深くなる。
「どんな知り合いでも、友達でも、彼女でも、会いたいって言ったら会わせてくれたのに」
懐っこく明るいあの古い記憶の微笑みとは違う、その後幾度も幾度も焼き付くように見せつけられてきた、ひどく高慢で凶暴に見える笑み。
槙野の言うとおりだ。今まで、槙野が会いたがるがままに僕は知人や友人、僕としては彼女とまでは呼べなくてもそれなりに親しかった女性などを紹介してきた。
その結果として彼らの様子がおかしくなろうが、僕と疎遠になろうが、どうとも思わずに。
だって彼らは友人と呼べるほどに鈍く安全な人間だと分かっていたから。僕を害さない、僕の薄情さを暴かないというその一点が分かりさえすれば、もう近くにいる必要などなかった。
それよりも、僕の何かをやたらに気に入って擦り寄ってくる、この得体の知れない後輩を御することの方が、僕にとっては重要だった。
近くにあるべきは、もっと警戒すべきもの。手元に置くべきは見張るべきものだ。
「実は会いたくない人?」
「いいや」
石井と最後に会ったのはいつだろう。高校を卒業してからはぐんと会う機会が減った。向こうには向こうの新しい生活があっただろうし、僕も僕で、積極的に声を変えることは無かった、たまの誘いはいつも石井からだった。
石井ほど鈍感な、安心できる人間はこの世にいないと、あの高校時代で分かったから、だからもういいのだ。
槙野の指がとんと動いて、スマホの画面が電話帳から呼び出しに切り替わる。スピーカーホンから呼び出し音が4度鳴って、懐かしい声がした。
『もしもし?』
どこで何をしてたって、もういいのなら、槙野と会おうが何しようが、やっぱり関係ないはずなのだ。
「久しぶり」
1年ぶりの会話だった。自分の喉からは、驚くほど平然とした声が出ていた。
昨日訪れたばかりの道を辿って、石井のマンションのインターホンを鳴らす。槙野に貸してやるための服を詰めた紙袋は大した重さも無いはずなのに、妙にくたびれたような気がする。
顔を出した石井は、昨日と同じ服を着ていた。
「助かるわ、あいつズボンも穿いたまんま風呂浸かっててさ。パンツまでびっちょびちょだから脱がすの大変でさあ」
「ごめん、槙野がそんな酔い方するとは思ってなくて」
子供じゃないんだから、わざわざ服を脱ぐ手伝いまでしてやらなくてもいいだろう。それともそんなこともできないくらい前後不覚に酔っていたのか。
「いやいーよ、つかお前こそ大丈夫だった? 用事あったんじゃないの」
「もう済んだんだって」
紙袋を受け取ろうとした石井を、「ついでに連れて帰るから」と制して上がり込む。おそらく槙野の期待通りに。
すれ違いざま、石井が不意に、「その顔よくしてたよなお前」と言った。
「その、って」
「その、目、ぎゅーって細くする顔。そういや最近見てなかったな」
寝室らしき扉を指しながら、「俺それわりと好き、面白い」と言って石井は軽く笑った。
「……最近も何も、会ってなかっただろ」
「そりゃそうか」
玄関のドアが閉まる。真昼だからか電気を点けず、外の光が入らない廊下は少し薄暗い。
「お前意外と優しいのなあ、わざわざ迎えに来るなんて」
「まさか」
僕が本当に優しかったら、槙野を諭し、決して石井に電話などさせなかっただろう。
僕は君と、僕と君の話がしたいと思っていた。君の鈍感さになら、いつだって安心して僕の薄情さをさらけ出すことが出来た。けれどそれに甘えてはいけないと思っていたし、だいいち僕にとってはそういう人間が存在するというだけで十分だった。安心するものほど遠くにあっていい。僕を傷つけないものは、どこかに存在するだけで十二分に優しい。
近くにあるべきは、もっと警戒すべきもの。僕の薄情さを暴きかねないものだ。
鈍感な君が、僕が獣に餌を与えるように、槙野に君を与えたことを気づかずに済むことだけを願う。
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