風呂場の祝祭
ギヨラリョーコ
第1話 石井の話
昨晩、したたかに酔っ払ったお前が「石井さん、俺ひとの笑顔が怖いんですよ」と言ったことを、俺はきちんと覚えている。
カーテンの隙間から昼日中の光が差し込んできて目を覚ます。脚を抱えて無理矢理ソファに収まって眠っていたから、起き上がるとぱきぱきと体が鳴った。
堀内はとっくに帰ったらしかった。半端に飲み残したチューハイの缶の下に千円札が3枚敷いてある。酒代の割り勘にしては少し多いが、俺の部屋で飲んだ場所代のつもりだろうか。ありがたく頂戴することにした。律儀な堀内らしいといえばらしい。
スマホを手に取って通知を確認すると、『用事があるから帰る』『槙野によろしく』と堀内からのメッセージが入っていた。槙野の姿はどこにもない。
ただ、玄関には槙野のベージュのコンバースがきちんと揃えて置いてあった。キッチンを覗き、ベッドを勧めただろうかと寝室を覗き、吐いてやしないかとトイレを覗いて、風呂場のドアは最後に開いた。
浴槽から、男の右腕が垂れていた。
半端にまくられた袖から体温を失った真っ白な手首が硬い曲線を描いて、だらりと力なく開いた指先に繋がっている。浴槽の縁に長袖Tシャツの上半身がもたれかかり、目を固く閉じた頭が辛うじて落ちかからずに引っかかっている。左手と、ジーンズを履いたままの下半身は、浴槽の中で冷めきった湯に浸かっていた。
じっとりと冷たい湿気に息苦しさを覚え、浴槽の上についた換気用の小窓を開く。隣家からだろうか、たどたどしいピアノの音が小さく聞こえてきた。窓から降り注ぐ真昼の日光が、血の気の引いた槙野の目鼻に青い影を落として、それがわりあい整った今どきの優男の風貌から人間味を奪っている。
「槙野、くん」
何と呼んだらいいのか迷い、結局呼び捨てをためらってしまう。昨日、出会ったばかりの男だ。
堀内とは高校の同級生だった。2年生の時の同じクラスになって以来の付き合いで、あの頃からそれなりに仲がいい部類に入ったと思う。本の趣味が合った――同じ本を読んだはずなのにまるで違った感想を持ってくるのが面白くて、本や漫画の貸し借りに始まり、休日にもつるんで新作の映画を見に行ったりもした。
何の話をさせても理屈っぽいのに、妙に世間知らずで純真な物言いをするのが面白かったし、堀内は反対に、俺が感覚で適当にものを言うのを楽しんでいたように思う。眼鏡の奥で目を細めて俺を見る、馬鹿にしているのか楽しんでいるのか分からない顏を時々した。堀内の眼鏡はいつも綺麗だった。レンズに指紋がひとつもついていなくて、俺が触ろうとするといつも怒った。『それやったら眼鏡の人間はみんな怒るよ』と言われたけれど、堀内以外には試す気にもならなかったらから真相は闇の中だ。
『石井、明日休みだろ。久しぶりに飲まないか』、と堀内から電話が来たのは昨夜の8時頃で、俺は仕事から帰ってもう最寄り駅で降りたところだった。1年ぶりに顔を見たい友人と、ここから繁華街に出る億劫さを天秤にかけて、『うちに来いよ』と誘ったら、控えめに『後輩もいるんだ』と返された。
『やっぱり日を改めてにしよう』と誘ってきたくせに及び腰になる堀内を、なぜか意地になって説き伏せてしまった。メッセージに住所を送り付けて、コンビニで酒とつまみを買って帰った。
夜9時半、心底済まなそうな顔をして玄関に現れた堀内の後ろに、愛想のいい笑顔を浮かべた、明るい色の髪の男が立っていた。高校を卒業してからも堀内とはそれなりに連絡を取っていたが、槙野、と紹介された男の話を、俺は一度も聞いたことが無かった。
「槙野くん、起きろって」
しゃがみこんで顔を覗き込む。揺さぶろうと伸ばした手から逃げるように肩が揺れて、思わず手を止めてしまう。どうしてか、触れてはいけないような気がした。
「槙野くんってば、風邪ひくぞー」
自分一人の声が風呂場に響く。呻くような声と身じろぎが返ってきて、寝ぐずる子供のようだと思った。ベッドかソファなら二度寝させてやってもいいが、こんな水風呂で寝かせて風邪を引かれても困る。もうとっくに引いているかもしれないが。
「槙野」
冗談半分、寝ぼけた頭に少しでも効けばいいと思う気持ちが半分で、堀内がしていたように呼び捨てる。
「槙野、起きて」
堀内を真似た言葉遣いに、ゆるゆると瞼が持ち上がる。お、と思った俺の顔を捉えたその瞬間、わずかに眉根を寄せて、その目が再び閉じられた。
無視された。意識的に。思いきり目が合ったのに。
カッとなったというより、やり返してやりたいという悪戯心がわく。シャワーコックを捻って、お湯になるまで待ってやったのは間違いなく俺の優しさだ。
ざあざあ鳴る音へとぼんやり向けられた顔に、思いきりシャワーの湯を浴びせてやった。
びくりと震えた槙野は、何か言いたげに一度きり口を開いてすぐに閉じ、目をぎゅっと瞑って浴びせられるがままになっている。乾いたままだったTシャツと髪がぐっしょりと濡れて色を変えていく。
青白かった頬がわずかに赤く色づいたのを認めたところでシャワーヘッドを浴槽に突っ込んだ。
「目、覚めたか?」
ぷは、と槙野が大きく息を吐く。血の気が通って赤らんだ瞼がゆっくりと開いた。ぼうっと焦点の合わない目がゆっくりと俺を見上げる。
「さむ、い」
浴槽に預けたままの体を震わせて呟く槙野の虚ろな目が、徐々にはっきりとしていく。
「あ、石井さんだ……」
「そりゃ俺の家だからなあ」
覚醒したらしいが呑気な態度の槙野に、思わず呆れた声が出る。
「お前、すごい酔い方するのな」
「あはは、すみません。なんか寒くって」
シャワーから流れ出るお湯にすり寄るように浴槽の中で左手が泳ぐ。どうかしてましたねえ、と呟く槙野はまるで他人事みたいな態度だった。
「記憶あるんだ?」
「わりと」
「じゃあ昨日してた話とか覚えてる?」
話? と首を傾げるので笑って首を傾げ返す。
「ひとの笑顔が怖いって話、してただろ」
初対面の槙野を交えた昨晩の飲み会は、俺と堀内ばかりが盛り上がっていた。最近封切りになったホラー映画についてああだこうだと喋っていた俺たちを、槙野は黙ってチューハイを傾けながらにこにこ眺めていた。会話に参加せずに酒ばかり飲んでいたからあんなに酔ったのだろう。
堀内がトイレか何かに立った時、ローテーブルにべたりと頬を付けた槙野が、うすぼんやりとした微笑みを浮かべて言った。
「俺、おれねえ、ひとが笑ってるの、こわいんですよ」
突然の言葉を、俺は「人に嘲笑されるのが怖い」という告白だと勝手に解釈した。親しくなければ出来ない話があるように、近しくない、これっきりの人間にしか出来ない話もある。これもそういうたぐいの話で、てっきりこの後には自分の存在ごと忘れられてしまいたいような体験談が続くのだろうと思ったが、槙野はそれきり何も言わなかった。
「俺は怒られるほうが怖いなあ」
場をつなぐための俺の適当な返事に、気も無さそうに頷き返して、槙野はどこか遠くを見ていた。今にして思えばトイレだかキッチンだか、堀内が消えた方向だったのかもしれないが、それは俺の想像に過ぎない。
「そんなの、ぜんぜん、いいじゃないですか」
その先の言葉を俺は覚えていない。多分堀内が戻ってきて、俺はまた堀内との会話に夢中になったのだろう。
「あれって結局どういう意味?」
俺の問いに、槙野の目が逸れる。沈黙に、こぽこぽと湯が溜まっていく音と、遠いピアノの音色が重なった。
「人に向かって笑うってことは、楽しいとか、安心してるとか、要するに気を許してるってことでしょ」
「ああ、まあ、そうかもな」
「そうですよ」
槙野は相変わらず気だるげに体を浴槽に凭れさせて、目だけはじっと手元を見ていた。流れる水を掴もうとするように、ゆらゆらと左手は揺れている。
「何て言ったらいいんだろう、俺はね、警戒されたいんですよ。気を張られて、神経全部を使って、俺の一挙一動のことを考えてほしいぐらいなんです。そうじゃない人は、俺に笑ってくる人は、俺のことなんか考えてないでしょう。ひとは笑ってるとき、自分の気持ちよさのことしか考えてないもんです」
「……そうかあ?」
「そうですよ。そういう、俺のことを何にも考えないで隣にいる他人はね、何をしでかすか分からないから怖いんです」
いかにも面倒くさげな顔をしただろう俺に槙野が頷き返し、ちゃぷん、と身じろぎする体が水音を立てる。少しずつ、少しずつ浴槽の中は水嵩を増して、槙野の胸の下まで迫っている。
「もっと気楽に考えれば? お前友達いないだろ」
「俺のこと友達だと思ってる人なら何人かいますけど」
「……堀内はどうなの? 一緒に飲んでたんだろ。仲いいんじゃないの」
「堀内さんは、大丈夫なんですよあの人、作り笑いしかしてないから」
堀内とはもう8年の付き合いになるが、そんなことを思ったことは一度も無かった。しかし槙野がそう思うのなら、少なくとも槙野に対してはそうなのだろう。いずれにせよ、槙野と堀内の関係がどういうものだろうと俺が口をはさむ義理も無い。
気にすべきことがあるとすれば、それは俺自身についてだ。
「俺は? 怖い?」
俺が問いかけると、 にっこりと、槙野は微笑んだ。
せりあがり続ける水面に揺れて映る俺自身の顔もまた、引き攣るような笑みを浮かべている。
「怖いですよ」
槙野の笑顔はお手本みたいな綺麗な作り笑いだった。口角が芸術的なほど完ぺきな角度で上がっているその癖、目の奥が値踏みするように高慢ちきに光っている。
それに背筋がどうしようもなく震えて、あ、きっとあの時もこういう笑みを浮かべていたのだろう、と思い至った。
酔うと眠くなるのは俺の悪いところで、日付を回る前にはもう二人を泊めてしまうつもりで自分は寝にかかっていた。
ベッドに行くのも面倒でソファでまどろんでいた俺の額に押し付けられた、軽く柔い感触。
唇、のような。
「ね、堀内さん、簡単でしょ」
くすくすと響く、耳慣れない笑い声。遠ざかっていく影。
「そういうんじゃないんだ、石井は」
低く地を這うような、俺の聞いたことの無い堀内の声。
「うん、知ってます」
寝ぼけた頭はその声がその日初めて会った男のものだとは気づけなかった。
「ね、堀内さん、俺のこと怖い?」
分かりもしないことが俺に関係あるとは思えなくて、俺はそのまま眠りに落ちたけれど、あの時確かに槙野が笑っていたのだ。
浴槽の中の槙野から送られる視線が絡みつく。窓は開いているのに、目眩がするほどの熱気を錯覚する。
「堀内さんに電話してくれます? 俺このまんまじゃ帰れません」
頬から顎へと伝う雫を、赤く薄い舌がべろりと舐めとった。
「自分でしろよ」
「俺がしたら出ませんよ。あなたが電話してください」
熱を取り戻してほのかに赤い唇と眦が、白い浴室の中で鮮やかに浮き上がる。
浴槽から水が溢れて、投げ出された白い手を伝って床へと流れていく。
「あなたのために来るんです、あの人は」
確信に満ちて断言する、もはや笑いの形も繕わないその目は、相変わらず高慢だ。けれどどこか怯えたように上目をつかうのが、たまらなく本能的な欲求を煽る。
この男が何に怯えるのかも何に安心するのかも、堀内と俺のことをどう思っているのかも、どうして槙野が堀内をけしかけたのかも、どうしてここで俺を見つめているのかも、何もかもどうでもいいような気がした。もしかしたら俺は他人が何が好きで嫌いかなんて一度たりとも本気で考えたことが無いのかもしれないけれど。
俺はただただ透き通ったものに跡を残すことばかりしたがった。ガラスとか、人とか、関係だとか。
水の溢れる、とくとくと低い音とともに足の裏が濡れていく。自分の喉が鳴るのが、ひどくうるさく聞こえた。
「電話、どうしても、今すぐじゃなきゃ駄目か」
手を伸ばしたら拒まれるだろうとも思ったのに、槙野はただどこか安堵したように目を細めただけだった。
触れた指の冷たさと滑らかさと、意外と簡単に絡んだ従順さがどうしようもなく心地よい。
「いいえ」
力を込めて腕を引く。ざばりと水が揺れる音で、ピアノの音が掻き消える。
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