幸せのウイルス

卯月 幾哉

本文

 シャワーを浴びて寝間着に着替えると、俺はテレビのスイッチを点けた。平日の夜のニュース番組が流れている。

 スマホの通知音が鳴った。画面を見ると、友人からメッセージが来ていた。

『久しぶり。今度、B社の同期で飲むんだけど、お前も来ない?』

 わけもなく頬が緩む。最近、この手の誘いが多い。今日も大学時代のサークル仲間と会ってきたところだ。といっても、こちらは俺が主催したのだが。

『いいよ。サトウにも知らせとくよ』

 サトウは最近、B社から俺の勤め先に転職してきた同僚だ。部署が離れているから接点はほとんどないが、連絡は取りやすい。

 最近、仕事も順調だ。取り立てて成果が出たわけではないが、気力が充実していて進捗が良い。

 友人にメッセージを返して、ぼーっとニュースを観る。一ヶ月前に中国で発生したウイルスは、政府の働きによって無事に封じ込めることができたらしい。一方で、ここ一週間ぐらいで自殺のニュースを観ることが明らかに増えた。

「……いま入ったニュースです。今朝、人気アイドルのREMUさんが、都内の自宅で亡くなったことがわかりました」

 俺はそのニュースに驚いた。というのも、彼女は連日の自殺報道に対して、ワイドショーで「自殺は絶対にしない」と公言していたからだ。そう語っていたときの彼女は不自然なほどテンションが高く、一部のファンから引かれるほどだった。

 ニュースでは断定を避ける口調だったが、状況からして自殺の可能性が高そうだ。二、三日前まで「自殺しない」と言っていた人が、自殺に近い形で亡くなったのはどういうわけだろう。俺は彼女のファンというわけではなかったが、その点が気になった。

 番組が次のニュースに切り替わった頃、またスマホにメッセージが来た。先刻会っていた大学のサークル仲間からだ。彼女はミヤコという名前で、REMUのファンだったそうだ。

 ミヤコは、REMUの自殺にショックを受けている様子だった。

『ちょっと電話してもいい?』

 彼女のその問いに、俺は深く考えずに『OK』のスタンプを返した。つい一時間前まで面と向かって話していた仲ではあるが、電話という珍しいシチュエーションに少し緊張する。彼女は裏表なく接しやすい人柄だが、電話で話すのは数年ぶりだ。

 数秒して、ミヤコがメッセージアプリで電話を掛けてきた。

『ごめんね、急に。ちょっと文字で打つには、あまりにも突拍子のない話でさ。でも、イッシーに相談したくて』

 ミヤコの口調は普段と全く変わらなかったので、俺も気持ちを落ち着けることができた。

「かまわないよ。どうしたの?」

『今日、ナカダ先輩がウイルスゲームの話をしてたでしょう?』

「ああ」

 数年前に人気を博したウイルスを流行させるゲームがある。ナカダさんはそのゲームをかなりやりこんでいたらしい。その経験に基づき、今は収束しつつあるウイルス騒動に関連づけて、いかにウイルスを世界中に蔓延させるか、というコツを語ってくれた。

『先輩は「致死率が高すぎるウイルスは駄目だ。伝染す前に感染者が死んじゃうから、あまり広がらない」って言ってたよね?』

「そうだね。『一番凶悪なのは、広がるまでは無害で、突然変異して致死率が跳ね上がるタイプ』だったかな」

 話を聞いてなるほどと思ったので、よく覚えている。

 ミヤコは有名な製薬会社で研究者をしているから、その話が気になったのだろう。しかし、その後の彼女の話は、確かに突拍子のないものだった。

『そうそう。それで、どういうタイプのウイルスだったら広まりやすいか考えてたんだけど、幸せを感じさせるようなウイルスだったらどうかなって思って』

「……ん? 病気のウイルスの話だよね?」

 幸せを感じる病気とはなんだろうか。俺はてっきりうさんくさい系の話かと思ったが、彼女は大真面目だった。

『別に、あり得ない話じゃないわ。私たちが幸せを感じるのってセロトニンとかドーパミンみたいな脳内物質の作用だし』

「へえ、そうなんだ」

 文系の俺には想像もできなかったが、さすがは専門家である。

『……で、ここからは根拠のない空想になってしまうんだけど、人と交流したくなるような作用もあり得るんじゃないかなと思うの。例えば、人の「寂しい」って思う感情を助長するような脳内物質の働きで』

「ふーん」

 幸福を感じるような脳内物質があるのなら、寂しいと感じる脳内物質があってもおかしくはないように思う。ミヤコは続けて、寂しさに関係するといわれる脳内物質を教えてくれた。

「言われてみると、最近なんだか飲み会とかパーティーとか多いし、ひょっとしたらそのウイルスのせいなのかもね」

 俺は軽い口調で言ったが、彼女は真剣な様子だった。

『やっぱり……? 私も多いのよ。先月まで何もなかったのに、異常なぐらい』

「いいことじゃん?」

『よくないわ』

「……え?」

 間髪入れずに彼女が否定したので、俺は驚いた。

『研究所の後輩が自殺したわ。結婚したばかりで、前兆らしい様子は何もなかったんだけど、その前日には古い友人と会ってたみたい。人事は公開してないけど、グループ会社で他にも何人か自殺者が出てるって噂よ』

 俺は心臓が殴られたようなショックを感じていた。

「どういうことなんだ……?」

『実際どうだかわからないけど……、さっきの根拠のない空想の続きね。もし、幸せを感じさせるウイルスが他人との交流を促す作用を持っていたら、爆発的に広がると思わない?』

「確かに。ナカダさんの話に当てはまるね」

 俺はベッドに座り込み、低く沈んだ声で言った。

 そんなウイルスがあるとしたら、「広がるまでは無害」という条件を満たしている。無害どころか有益とさえ考えられるので、より広がりそうだ。

『そう。……で、そのウイルスがあるとき突然変異して、例えば一気に不幸を感じさせるようになったら、どうなるかな?』

 彼女自身、確たる根拠がある話ではないから自信の無い口調だったが、それは恐ろしいシナリオのように感じられた。

「それまで感じていた幸福感が消えて不幸になるんだとしたら、だいぶ落ち込みそうだね。……自殺してもおかしくないかも」

 最後の方は消え入るような声になってしまった。

 電話の向こうでミヤコがごくりと唾を飲み込む音を聞いた気がした。

『ええ。こんな話、誰に言っても信じてもらえないだろうけど……。私は明日からできる範囲で調べてみるつもりよ。といっても、私は医者じゃないから、まずは知り合いに連絡して……』

 ミヤコが話を続けているが、俺は上の空だった。その前まで話していた内容が頭の中でぐるぐると回っていた。

(最近、飲み会が多かったのはそういうことだったのか……? 色々、上手く行ってるように感じていたのは、ウイルスのせいだったのか……?)

『イッシー、大丈夫……?』

 俺が反応しなかったためか、ミヤコの声が俺を気遣うものに変わっていた。

 気づくと、俺はスマホを置いて立ち上がっていた。窓の外には、大都会の夜景が広がっている。それは、暗く沈んだ胸の内と比べて、やけにきらきらと眩しく見えた。

 俺はふらふらと灯りに飛びつく虫のように、ベランダの方へ歩いて行った。

『……イッシー? 石田君、返事をして!』

 スマホからミヤコの声が響いていたが、そのときの俺には聞こえていなかった。

 ただ一刻も早くこの不幸から逃れたくて、俺は窓を開き、ベランダの手すりを飛び越えて、夜空に身を踊らせた。

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幸せのウイルス 卯月 幾哉 @uduki-ikuya

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