透夏
外山コウイチ
第1話
蝉の煩い夏の日、私は透き通った少女に出会った。「透き通った」とは純文学におけられざる比喩表現ではなく物理的な意味だ。彼女に触れようとしても、手が身体を突き抜ける。いわば透明人間なのだ。
それが堪らなく、私は悔しかった。一緒にかくれんぼも鬼ごっこも出来やしない。ところが、彼女は悲しむどころか喜びを露わにしていた。話を聞くと、彼女は私以外の人間に会ったことがないらしい。自分の姿も判らないのだろうか、「私ってどんな顔?」と口裂け女まがいの口調で話をふっかけてきた。
私は彼女の顔をよく覚えている。ギリシアの銅像によく似ている、秀麗で大人のような顔立ちであった。白よりも鼠色に近い肌にはどこか神々しさすら感じさせるものがある。
私は彼女に「かわいいよ」と称賛の言葉を捧げた。少年期の私に、女性を褒めることのできる語彙はこれしかなかった。
すると、彼女は身をくねらせて赤面した。白銀のように輝く肌が太陽に透けていく。その様子は、私が初めて感じた愛おしさだった。
しかし次の瞬間、勢い余り彼女は地面から足を離した。私は阿鼻叫喚し、彼女を支えようと地面に滑り込んだ。
ところが、彼女は横転することなく空中を舞っている。私の勇敢さ溢れる行動に意味はなかったのだ。それよりも注釈すべきは、彼女が重力の干渉を受けていないという事実だ。
彼女はまだ宙に浮かんでいる。私が「降りてきてくれえ」と叫ぶと、すぐに落下してきた。不満そうな顔で彼女は私を見つめる。
「・・・見た?」
私は「うん」と素直に答えた。すぐに平手打ちが私の右頬から口内へ、左頬にと貫通する。痛みこそ感じないものの、ぞうぞうとした何かが私の心に芽生えた。彼女に嫌われたくないという感情だった。取り繕うように、私は言う。
「一概に見たと言っても、僕は近視なんだ!君の下着なんて見えてないも同然だよ!」
私の返答はあまり正しくはないようで、彼女は少し拗ねてしまった。私は何が答えなのか解らないし、解らなくてもいい。取り敢えず、彼女との仲は崩さないようにしたい。拗ねをこじらせて地面に座り込んでしまった彼女に、私は陳謝した。
彼女は戸惑いを見せたが、子供ながらに笑いかけて「こちらこそ、理不尽だったかな」と言ってくれた。
その笑みは綺麗で純粋で、私は一目で射止められてしまった。心臓の高鳴りが聴こえてくる。ついさっきまで煩かった蝉の鳴き声は全く聴こえない。彼女が初恋なのだと、幼心にもよく分かるほど私は焦燥したのだ。
彼女は先の事件を忘れたかのような天真爛漫とした態度で、私を森へ誘おうとした。その森とは熊が棲むと言われる、熟年の猟師でも近づかない場所である。私は俄然拒否した。しかし、彼女は私をどうしても森へ連れて行きたいようだ。口論している間に森の入り口まで辿り着いてしまった。そこで、「熊注意!」と書かれた看板が引き裂かれているのが見えた。明らかに熊の仕業なのは誰にでも分かる。
私は断固として拒否を続けた。彼女の瞳が歪もうと、彼女の懇願が聞こえようとも、私の意思は揺らがない。今後一切、揺さぶられることもない。
「ん〜・・・。あっ、じゃあさ、私と森デートしない?」
揺らいだ。仕様がないこともある。
私は彼女と手を組み、るんるんとした気分で入り口へと足を踏み入れた。茨のように入り乱れる竹林が恐怖を煽るのも気に留めない。彼女と二人きりという事実が嬉しかった。
私が浮ついていると、彼女が言った。この森は自分の家のようなものだと。
気づけば、私は彼女に連れられるままに森を駆け巡っていた。
・
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「あ〜楽しかった!」
彼女は満面の笑みを浮かべ、ツツジの花を眺めている。ツツジの薄桃色が彼女には似合う。木々もそれに賛成するように、自身の枝と葉を揺らめかせている。
私が感傷に浸っていると、彼女は「バンガローに行くから、こっち来て!」と楽しそうにガイドを始めた。
100メートルぐらいの距離に、そのバンガローはあった。バンガローというには立派すぎるほど、しっかりとした小屋だ。ちゃんと庭も付いている。
ダビデを模した噴水、その周りには煉瓦造りの花壇がきめ細やかに敷き詰められている。彼女が言うに、噴水が水やりの役割も担っているらしい。私は感心して、思わず「はへー」と気の抜けた声を出した。彼女は私の声にくすくす笑ってから、寂しそうに私を見つめた。
「そろそろ帰ろっか。もう時間も遅いし」
私は彼女の提案に賛成した。バンガローの内部も見たかったが、暗くなると道が道でなくなる。
彼女と一緒に、帰路を辿ってゆく。道中に今日あった出来事を話し合った。
エゾマツに登る狐の親子、木苺摘み、
私たちは歩き疲れ、会話は終末に差し掛かり、もう入り口も近い。
だが、彼女は「最後に見せたい場所がある」と言って、竹林の奥深くに入り込んでいった。もうすぐで入り口なのだから、特に時間は気に留めない事にした。
彼女と私は鋭利な刃物と化した竹に触れないように、おそるおそる進んでいった。途中、彼女は自分が透明であることに気づき、竹を貫通しながら私を置いてきぼりにした。私は迷惑だなあと考えつつも、大いなる期待を持って彼女の背を追いかけた。
数分後、目前に妖しい光が射した。彼女は私を待ち呆けているようだ、急がねば。縦横無尽に巡らされていた竹をかき分け、私は遂に到達した。
ーーー最初に見えたのは、新世界だった。
目の前に少しばかりの靄が立ち込める。私が今見ているのは現実なのだろうか、疑念に駆られる。
彼女が私に「どう?面白いでしょ」と語りかけた。筆舌しがたい状況を、彼女はさらさらと説明してゆくのが不思議でならない。
「ここは妖精たちの遊び場。あそこに見えるのが生命の噴水。バンガローの噴水とは似ても似つかないでしょ?」
生命の噴水とやらの周囲で、
私は噴水から目を退けて、彼女を見つめた。彼女の頬が赤らむ。もう太陽は出ていない。
私は「君も妖精なのか?」と質疑した。どうやら違うようで、彼女は返答に窮している。
数秒の沈黙を経て、彼女は言った。
「私は妖精じゃないの」
返答はそれだけだった。私もそれ以上、彼女の正体を求めようとはしない。知ってしまうと、何かが崩れて、彼女も崩れてしまうような気がした。
私たちが沈黙を続けていると、背後から騒々しい足音が近づいてきた。私は驚き、身体を前方へ飛び寄せた。
泉の前にいた妖精たちはいつの間にか姿を消している。何かが起こるのだろうか?突如として現れる恐怖と、彼女を守らないといけないという愛護心が混ざり合う。
私はひとまず先に、彼女を守ろうと考えた。彼女の手を引き寄せようと、手を伸ばす。しかし、私の手のひらが彼女の手のひらを突き抜け、ただ空虚に舞うだけだった。
竹林から、茶色に覆われた獣が飛び出してきた。あんなに尖っていた竹は、私が苦難して通り抜けた壁が、容赦なくへり倒されている。
私は身の危険を感じざるを得なかった。だが、危惧よりも愛が勝ったのだろうか?私は彼女の元へ駆け寄り、彼女を隠すように仁王立ちをした。考えてみれば、随分と阿呆なことをした。彼女は透明だから熊に襲われても平気なのだ!
阿呆を天下すように、熊は私へと爪を振り下ろしてきた。かのように見えたが、私の頭を柔らかな肉球で撫で、さらには頬を舐めてきた。
一体何事なんだ?私はついに訳がわからなくなってしまった。ぽかんとした私を、彼女はくすくす笑っている。
「この子、私のお友達だから」
私の混迷は、彼女の一言によって解消された。わからなさすぎて吹っ切れたのではなく、彼女の正体を理解した気がしたのだ。今まで散らばっていた何かが、私の脳内に紡がれる。
考えをまとめていた私に、彼女は手を差し伸べ、笑いかけた。純粋無垢な笑み、その中にはおぼろげながらも寂しさがある。そして、彼女は私の手を取って・・・。
「私のこと、忘れないで・・・。ちょっと我儘だけど、また逢える日があるなら私にーーー」
・
・
・
そこから先のことは、あまり覚えがない。記憶を取り戻したのは、森の通り沿いにある民家だった。私が起床すると、お婆さんが興奮した様子で近寄ってきた。私が「どうしたんですか?」と言い終わるも待たず、お婆さんは矢継ぎ早に事の顛末を語り始めた。
「どうしたもこうしたもない!あんた、熊におぶられてここまで来たんよ!わたしゃあもうびっくりして・・・」
「僕が熊に・・・?」
「そうね!童話みたいなんよお・・・。わたしが玄関掃除しとるとね、熊が近づいてきて・・・」
そこから、お婆さんの長話が延々と続いた。私はそれを聞く義務と責任を有し、お婆さんも大分と話し上手なものだから、いつの間にか私が帰る時間は深夜帯へと変遷してしまった。
無論、父母にはこっぴどく説教された。しかしながら私はその真っ只中に彼女のことを追憶していた。彼女の名前、別れ際に残された言葉、全ての意味を意義を解せなければいけない。心の思案と不安と純情は、私を駆り立てているようだ。翌日、私はあの森へ行かなければならない・・・。だが願い叶わず、私ら親子は新天地に旅立つ予定なのだ。個人の願いで父母を動かすことなど、幼い私には考えられなかった。
東京への飛行機にて、私は寝ている父母を起こさぬよう、そうっとメモ用紙に森の名前を記した。私がいつか大人になったら、あの不思議で幻想的な、美しき森へ訪れよう。そして彼女に逢うのだ。彼女を知らなければならない。私はペンを仕舞い、深い眠りに身をゆだねようとした。その手前、窓から大きな積乱雲が覗いた。私を煽るように訝しげな黒さだ。心は寂しさを奏で、目は雨に濡れ、その傷心を眠りで癒さなければならない。私は、固く拳を握りしめて彼女を想った。そのまま昏睡に落ちてゆく。
ーーーそれから、夏は20回も過ぎてしまった。私はもう成人し、一丁前の大人になろうとしている。だが、あの夏の日を私は忘れることができない。夏が一つ、また一つと過ぎていく度、彼女が私を待ち呆けているような気がするのだ。
かつての故郷へ来た瞬間、私は鼓動の高鳴りを抑えられずに駆けだした。いつも自転車で滑り降りていた坂道を駆け、畦道の泥が飛び散るのも気にしないで走り抜け、私が救護されたお婆さんの家を曲がった。興奮して、涙が出る。どうも調子がおかしいのだろうか、嬉しく寂しくやはり嬉しいのだ。民家の曲がり角に差し掛かる。私はカーブの手すりに、手を引き寄せた。
するとそこには、あの懐かしき森がーーー。
しばらく座り込んでいた私は、そこから立ち去ろうと決心した。コンクリートに覆われた林なんぞに興味はない。ところが私の足は震えて動かない。涙がアスファルトに落ちても、かつて存在した森は慰めてはくれない。私が途方に暮れているさ中、背後から人の気配を感じた。影は一瞬の間に私を追い越し、消失した。仰天した私の真上には、人が浮かんでいる。重力の干渉を全く受けていない、受けることのできない人間。昔懐かしい声が耳に入り、大の大人を号泣させてしまった。
「久しぶりだね。覚えてくれてたかな?」
「覚えてる・・・覚えているとも!」
私は彼女を抱きしめた。両手が空に舞い上がるだけだが、彼女は私を哀れまなかった。彼女の手が私の頭にかぶさる。感じたのは、寂しさではなく暖かな愛を。悲しみに身を火照らせる暇はなく、私は彼女に名前を聞いた。
「ずっと、ずっと、君を知りたかったんだ。名前、名前を教えてくれ!君はーーー」
私は言葉を発すのを止めにした。彼女の表情が喜びから困惑に変化していくのが分かった。私は今まで、本当に聞きたかったことなのに、どうして言えないのだろうか。彼女の悲しみを背負いたくない、彼女を悲しませたくない、すべては私の愛にあった。彼女は・・・彼女は・・・私の全てなのかもしれない。
しかし、私は我慢ができなかった。
「君の名前を教えてくれ」
彼女は答えなかった。私はそれが許せないのでなく、純粋な疑問から声を大きくしてしまっている。喧騒がしんとした住宅街に伝わりゆいていた。そこで、私は自己紹介を忘れていたことに気が付いた。私が名乗らなければ事は始まらない。続けざまに私は話す。
「そうだ!僕の名前も教えよう!僕は "
私が名前を言い終えると、彼女はより一層顔を暗くさせた。透明な彼女は、今にも消えてしまいそうだった。私が心配して顔色を覗こうとすると、彼女の口が開き始めていた。彼女の声は、今にも溶けてなくなってしまいそうなほどに綺麗すぎる。
「私、あなたに逢えて幸福で、嬉しくて、辛くて、笑って、寂しくて・・・。だけどもうあなたとは・・・」
彼女の紡いだ言葉は、別れの挨拶だと確信した。言った傍から、彼女は雪のように消えてゆく。私を置いて、どこに遠のいてしまうのだろう。私はそれを許せなかった。涙ぐむ私、夏にしては冷ややかな日差しが哀れな男の告白をかき立てる。
「待ってくれ、待ってくれ、僕と一緒に暮らそう。そ・・・そうだ!僕は事業に成功して、立派な一軒家も建てることができたんだ!君の好きなツツジが咲いているんだ、君と一緒に獲った虹鱒だって泳いでいるんだ、だからどうか・・・」
私の言葉は途絶えてしまった。消えゆく彼女を前に、喉が枯れて、悲しみに打ち震えている。彼女はだんだんと透明度を増し、宙へと浮かび上がる。舞浮く木の葉のような彼女、欠片のように四肢が崩れていく・・・。私は彼女を諦めきれずに、ただ青空を見上げた。雲のない空、彼女だけが浮かんでいる。
私はひたすらに上を見て、泣き叫んだ。彼女の顔が崩れ去るところまで、記憶に残さなければならない。彼女の
フ、ズ、キの三文字だった。
彼女の名前か苗字かは分からない、今すぐにでも知りたかった。私が流していた涙は、嘘だったかのように中絶されてしまう。彼女の顔面が消えたとき、その表情は満面の笑顔だった。私を惚れさせ傷をつけた、あの表情。私はそれを一生忘れないだろう。
時が流れ、一帯は積乱雲に覆われた。私は蔓延んでゆく雲が彼女だという気がしてならなかった。積乱雲の涙が足に落ちる。冷たさは、今まで感じた中で一番だ。私は折り畳み傘を懐から取り出し、差す前にふと空を見上げた。
暗雲が立ち込め、今にも雷の降りそうな空模様が見えた。黒い傘布がそれを視界から立ち消えさせてしまう。私は雨から逃げるように、森と彼女の居た場所を去った。
東京へ行く飛行機の中、私は過去の自分を脳内に作り出していた。
少年期の私、まだあどけなくて汚れを知らない。その私は、彼女の正体を知っていた。幼い顔で、真実を私に語り掛けようとしている。私は喉から手が出るほど彼女を知りたい。記憶に留めたい。その欲望を知った幼き私が、耳打ちを・・・。
しかし、私は耳を塞いだ。それを見ていた幼い私は困っている。ずっと知りたかった真実を、無に帰すという行動原理が理解できないのだろう。彼は私の耳を引っ張り続けている。努力空しく、子供の小さな力で大人に勝てる道理はない。
すると、諦めた彼は、明後日の方向へと立ち去って行った。せめて彼を見送ろうと、大人の私は振り向いて彼の後ろ姿を見た。この世のものとも思えぬ顔面が、彼の肩甲骨に巣くっていた。私は身震いし、起き上がりかけた足を地べたに潰えさせた。彼は暗闇に消え、連鎖するように私も消えゆくような感覚に陥っていく・・・。
瞼から伝う一滴の雫が私を悪夢から解放した。脂汗が背筋に張り付いて離さない。
今の夢は一体なんなのか・・・。なにかの暗示にも見える。
私はひとまず落ち着こうと水に手を伸ばした。口につけて飲もうとすると、何故か甘い香りが鼻元に霧散した。過去に嗅いだ事のある匂い、ツツジの匂いだ。
私の襟元に色のしおれた花が差さっている。
白く色褪せているながらも、その花は純真な輝きを持っていた。私に花を摘む趣味はないのに、なぜ・・・?
私の渇きは喉からその疑問へ移った。
花を手に取った瞬間、私は彼女の美しく可愛げな顔を見繕っていた。直前まで会っていたというのに、ひどく懐かしくて涙が出そうだ。私が手拭いで目を抑えると、瞳からは
私は花を襟に戻し、窓際へ目を寄せる。天気予報では激しい雨が降っていたというのに、空は雲の欠片すらない晴天だった。先まで居た積乱雲はどこに行ってしまったのだろう。空は私を鼓舞するように明るい。まるで、彼女の笑顔を想起させるようだ。
澄み渡る空を見たからか、私の気持ちに少しだけの余裕が生まれた。
さっき見た悪夢、いつでもその意味なんて考え直せるだろう。かつての私は、彼女を知ろうとする心が強すぎるあまりに、彼女という本質自体を見失っていたのかもしれない。彼女が私の親族だろうと、赤の他人であろうと、私が彼女を想う気持ちは変わらない。
それ故に想い出は過去のままでよいのかもしれない。知りすぎて嫌いになることもある。私は庭の虹鱒とツツジの花を撤去することに決めた。想い出に縛られる人生を、彼女は好まないだろう。今の私も好まないだろうから。
私は襟元に差さっていた花を窓際に添え、置き去りにしようと決めた。
ツツジの茎を縁に触れさせる時、柱のような光が窓ガラスを越えて私に浴びせかかる。
まるで、彼女の笑顔のようだった。
透夏 外山コウイチ @Toyama_Kouichi
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