curtain call ある照明助手の苦労
ウィンガー・クランスは正面玄関前で頭を下げつつ、その頭を掻きむしりたい衝動にかられていた。原因は彼の師匠である。
『ウィン、おまえ行ってこい』
ディム市民演芸館が老朽化のため改修工事を行うことになり、それぞれの部門から人を集めて会議がくり返されていた。予算にも限りがある中、誰もが自分の意見を通そうと躍起になって、なかなか計画が煮詰まっていかない。
そんな折、王妃から資金援助の話が降りてきたのだった。文化奨励に熱心な方なので、そのことにおどろきはない。そしてじきじきに劇場を視察されることも自然ななり行きだった。
困ったのは、照明の責任者であるウィンガーの師匠が、その出迎えを拒否したことであった。
『何でですか! おれひとりじゃ失礼ですって!』
梁の上を渡る師匠を、ウィンガーはすがるように追った。しかし師匠は照明の角度を調整することに意識がむいており、返答すら素っ気ない。
『問題ない』
『大問題です! 責任者が顔見せないなんて、支援の話が飛んだらどうしてくれるんですか!』
『王妃殿下ともあろうお方が、そんなケツの穴のちいせぇこと言わねぇよ』
いまの発言だけでウィンガーの首も七割六分くらい胴体から離れたに違いないと、血の気が引いた。
この師匠、照明に対する情熱と感性は抜きん出たものがあるのだが、いまいち社会常識に欠ける。技術者と言ってもただ技術を磨いていればいい時代ではなく、人脈を作り、根回しをして、自分の意志が通る環境をつくっていかなければならないと言うのに。
これまでどんな貴人が、それこそ国王陛下が観劇に訪れても、顔を出さない人ではあった。しかし観劇であれば役者と演出家が出迎えれば事足りる。今回はそれとは異なる事案であった。
ウィンガーがどれほど悩んでいても時間は過ぎるし、師匠の態度は変わらない。太陽光を反射してきらめく立派なオートモービルから、ライラックいろのドレスが降り立ったのを見て、ウィンガーは首をさし出す気持ちで迎えたのだった。
劇場所有者であるナリーに案内され、王妃は館内に足を踏み入れた。そこでなぜか大きく息を吸い込む。
「いかがなさいましたか? 何かお気にさわったことでも……」
ナリーが焦って問うが、王妃はなんでもないの、とほほえむだけだった。王妃はそうして常にほほえんでいる人であったが、会場の扉を開けたときだけ、その笑顔が抜け落ちた。会場には何もなく、いまはだだっ広い空間があるばかり。ただ、ぽつり、ぽつり、とところどころに照明の明かりが降りていた。
それはさきほど師匠が吊るしていたものだった。カーテンが開け放たれた窓から明るい自然光がさしているにも関わらず、師匠は舞台照明を吊るときと変わらぬ真剣さで、不要な明かりをつくっていた。照射範囲や光の色合いの異なる燈体が数燈だけ不規則に灯っているそれは、一見すると無意味な明かりに思えるが、見る人が見れば絶妙なバランス感覚でつくられたことがわかる。あたたかく待ち受けるひだまりのようにも、道行きを照らす月明かりのようにも見える、やさしい光の芸術だった。燈体から出る明かりはいつもと同じであるはずなのに、なぜこうも心を打つのだろう。
王妃のことも忘れ、ウィンガーはほうっと見とれた。こんな手間のかかることをするなんて、なんだかんだ言って師匠も支援を受けたいのだ。
「おい、照明が点けっぱなしだぞ。はやく消せ」
王妃の表情を見て焦ったナリーはウィンガーの耳元でささやいた。
「これは……」
「どうぞこのままで」
ウィンガーの反論をさえぎって王妃がナリーを制した。一礼して退がったナリーさえ見ずに、王妃はしばらく真剣なまなざしを明かりにむけていた。しかしそれ以上何も言うことはなかった。
「ようこそおいでくださいました」
次々くり出されるあいさつに、王妃はうつくしい微笑みを崩さず、ひとりひとりに応えていった。
「本日はよろしくお願いしますね」
粗末な一張羅で出迎えた音響監督にも、ていねいな姿勢で声をかける。しかし自分の番が回って来たとき、そのやわらかな声が冷たく変わってしまうのではないかと、ウィンガーの心臓はキリキリと痛んだ。
「照明のウィンガー・クランスと申します。このたびはご支援いただきまして、心より御礼申し上げます」
師匠の不在を埋めるべく、ウィンガーはできる限りていねいなあいさつを心がけた。床に打ちつけたくなる頭をどうにか持ち上げていると、その上にコロコロとした笑い声が落ちてきた。
「あなたも大変ね」
つい顔をあげると、王妃は明かりの行方を追うように頭上を見上げていた。高貴な婦人にしてはめずらしく口元を隠さずに笑っている。その視線の先、梁の上で人影が動いたようにも見えたが、明かりがまぶしくてウィンガーからは確認できなかった。
「私は照明のことは何もわかりません。ですから、詳しいことはこの者に伝えて」
王妃のうしろから技術者らしき男が出てきて、電気技師のケネス・コッパードですと名乗った。
「ケネス。照明に関しては、すべてここの責任者の望み通りに。資金に不足があるならいつでも私に言って」
ケネスは王妃に頭を下げ、それからウィンガーにむかって、よろしく。素晴らしい照明ですね、と手を差し出した。その手を取りつつ頭を下げ、
「すみません! 私は照明の責任者ではないんです。その……師匠はこういう場が苦手な人で、私は代理で来ました。本当に申し訳ありません!」
と正直に謝罪した。
ケネスはおどろいたようだったが、王妃はむしろたのしそうにうなずいた。そして声の音量を上げ、どこへともなく言った。
「ではあなたの師匠に伝えて。コッパード電気製作所で現場の経験者を欲しがっているの。私はここの責任者を推薦しておきました。出向いて、燈体の開発に協力するように」
館内をひと通り回った王妃は会場をあとにした。ごく短い滞在だった。
去り際、王妃は照明の明かりにそっと手をさし出す。まるで手ざわりを確かめるようにそのぬくもりを手のひらに受け、しずかに見つめている。何を思っているのか、その表情は影になっていてよくわからない。ただ、クリーミーブロンドの髪が光にとろけるようにかがいていた。
外に出た王妃は、立ち止まって空を見上げた。そして名残を惜しむように一度だけ劇場を振り返り、オートモービルへと乗り込む。
砂埃を巻き上げながらそのオートモービルが走り去ると、ウィンガーはようやく呼吸を思い出し深く息を吸う。砂埃ごと吸い込んでしまい咳と涙は出たけれど、首がつながっていただけましだ。
ふと、王妃が『ライト』ではなく『燈体』という、あまり一般的ではない単語を口にしていたような気がした。
「聞き間違いかな」
たとえ聞き間違いでなかったとしても、演劇好きの王妃のことだから、どこかで聞きかじったのだろうと、ウィンガーはそのことを忘れた。そんなことより、師匠のゴマすりが効いて、十分な支援を受けられそうだと伝えなければ。
重圧から解放されて、足取り軽く館内にもどっていく。
星の都スヴェルナにはこの日もにごった青空が広がっていた。あの日とよく似た、おだやかな秋の午後であった。
fin.
夢追い姫と明かり屋 木下瞳子 @kinoshita-to
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