ラブ・プレゼント

桜々中雪生

ラブ・プレゼント

 ビュウッ……

 冷たい風が髪を撫でる。暦の上では春を迎えたといっても、まだまだ寒い時期が続く。

 黎斗れいとは今、屋上に立っていた。

「寒……」

 ポケットに手を突っ込んだままぶるりと震える。頭上に広がる空は、幾分か雲行きが怪しくなっていた。

「加藤くんっ」

 名前を呼ばれ視線を向けると、千代子がこちらへ駆けてきていた。動きに合わせてショートカットの髪がちょこちょこと跳ねている。

「鹿岡さん」

「委員会が長引いちゃって……。結構待たせちゃった?」

「ううん、大丈夫だよ」

「本当? ならいいけど……。ごめんね、私が呼び出したのに」

「気にしなくていいって。本当に大丈夫だから」

「ふふ。そう言ってもらえると助かります」

 千代子がふわりと微笑む。

 夢みたいだ。と、黎斗は思った。

 夢みたいだ。自分みたいな冴えない男が、鹿岡さんと会話をしている。鹿岡千代子。言葉を交わしたことなんてなかったけれど、中学校の三年間、ずっと想い続けてきた……。

 その人が今目の前に立っている。二人きりで、話をしている。これはあらぬ期待をしてしまっても仕方がないと思う。今日という日に、想い人から呼び出されるなんて。何せ今日は、二月十四日、バレンタインデーなのだから。

「……それで、あのう」

 後ろ手に指を絡め、千代子が切り出す。心なしか顔が赤い。

 ドキン、と心臓が跳ねた。

 まさか。いや、そんなはずない。だけど、もしかしたら。もしかしたら……。

「何?」

 期待を悟られぬよう、平静を装う。

「呼び出したのはね、これを、渡したくて……」

 そう言って千代子は後ろに回していた手を黎斗に差し出した。そこには、ピンク色の可愛らしいデザインの小さな箱。

「……これ、は?」

 期待するな。期待するな。

 何度も言い聞かせるが、心臓が早鐘を打つのを止められない。

「チョコレート。バレンタインだから。ちゃんと手作りしましたあ」

 照れ隠しなのか、半ば茶化すように千代子は言うと、きゅっと真面目な顔つきになって、

「それから。本命チョコ、だから」

 息が止まるかと思った。

 黎斗は目の前の少女をまじまじと見た。伏し目がちに細かく震える睫毛も、薄く開かれた唇も、嘘を言っているようには思えない。

 ……夢、なのか? もしかしたら今この瞬間はすべて夢で、目が覚めたら、僕は一人屋上にいるんじゃないか?

「夢じゃないよ」

 千代子が黎斗の心の内を読んだかのように言った。

「だから、ね、受け取って」

 箱をずいと差し出す。

「ありがとう」

 黎斗はぽーっとした頭で箱を受け取った。そんな黎斗を、千代子はちらちらと見上げる。

「ねぇ、返事は?」

 不安げに問う。

「え? あ、ああ」

 その視線で我に返る。“僕も”。そう言う代わりに、黎斗は

「これ、今食べてもいいかな?」

 と言った。

 途端に千代子の顔がぱっと輝く。

「もちろん!」

 許可を得て、黎斗が箱を開くと、甘いチョコレートの香りが鼻孔をくすぐった。中に入っていたのは、不揃いな大きさのトリュフチョコレート。

 意外と不器用なんだ。

 そう思うと、自分のために四苦八苦しながら作ってくれている千代子の姿が浮かんできて、黎斗は無性に嬉しくなった。

「……あ」

 千代子の思わず漏れたといった声に顔を上げると、雪がちらほらと舞っていた。

「空が、私たちを祝福してくれてる」

 嬉しそうに呟く。美しい横顔だった。

 その横顔をチョコレートの味と一緒に覚えておこうと、黎斗はトリュフチョコレートを一粒、口へと放った。

「……美味しい」

 優しい味がした。作ってくれた千代子と同じ、裏表のない、ふわりと優しい味。

「本当? よかった、私妹と違って、料理ってあまり得意じゃないから……」

「妹がいるの? 僕も、三つ下に弟がいるんだ」

「そうなの? 私の妹も三つ下なの。加藤くんの弟くん、一度でいいから会ってみたかったなぁ……」

 どうして過去形なの? と問おうとしたが、千代子にじっと見つめられ、口をつぐんだ。千代子は瞬き一つせず、黎斗を見つめている。もしかしてココアパウダーが付いているのかな、と口元に手を伸ばすと、唐突にそれはやって来た。

「うっ」

 心臓が大きく脈打つ。その感覚に、黎斗は思わずうずくまった。何だこれは。痛い、苦しい。息ができない。

「あはっ。よかった、効いたんだ」

 ぱん、と手を叩き、千代子が笑った。胸を押さえ見上げると、底なしに澄んだ瞳とぶつかった。

「な……に、を……」

「ごめんね、苦しい?」

 心配そうに覗き込む。

「でも、もう少しだけ我慢してね。そうしたら私たち、ずっと一緒にいられるから」

 何が起きているのか、黎斗はまったく把握できていなかった。そうしている間も心臓はドクドクと激しく打ち続け、意識はだんだんと遠のいていく。

 苦しい。寒い。指先から感覚が失われていく。もしかして、僕は……それなら――。

 もう少し安らかな死に方をしたかったな。

 それだけ思うと、黎斗は意識を手放した。

 今際の際で最後に「黎斗くん、大好き」という声を聞いた。

 ――僕もだよ、千代子。



「黎斗くん、もう死んだ?」

 苦痛に歪められた顔で動かない黎斗に尋ねる。返事はない。試しに口元に手を遣るが、呼吸もしていない。

 黎斗は本当に死んでいた。

「すごい、本当に効くんだ」

 独りきりの屋上で、感嘆したように呟く。

「大好きだよって、ちゃんと聞こえたかな? これでもう、黎斗くんは私だけの黎斗くんだよ。ずっと、ずっと、ずっとずっとずうっと」

 徐々に冷たくなっていく黎斗の頭を抱き上げ、頬を寄せる。

 それは異様な光景だった。可憐な少女が物言わぬ死体を抱きしめ、微笑んでいる。はらはらとふたりにり注ぐ雪がりては融け、髪を、身体を、少しずつ濡らしていく。それは、ぞっとするように恐ろしくも美しい光景だった。

「待っててね」

 黎斗の頬を指でなぞる。

「もうすぐだから」

 そのままその指を黎斗の口元に置く。

「今から、私も行くから」

 黎斗の口の端に付着したココアパウダーを指で拭う。

「ずっと、一緒だからね」

 自身の口へと指を持っていき、ぺろりと舐めた。含まれた毒を残さぬように、丹念に舐め取っていく。黎斗が落とした箱から転がり出たトリュフチョコレートも、コンクリートの床から直接口に含む。死体の傍らで、健康的な筋肉を美しい肌で包んだ少女が制服姿で這いつくばるようにしてチョコレートを貪る様は、どこか神話のようだった。少し砂混じりのそれをごくりと飲み下すと、顔を上げ、黎斗に向かってにこりと笑いかけた。

「本当だ、美味しいね。もしかしたら、私の料理の腕も捨てたものじゃなかったのかも」

 這い寄るように黎斗にぴたりと寄り添い、

「もっといろいろ練習しておけばよかったな」

 ほんの少しだけ残念そうに呟いた。

 そして「あ」と小さく漏らすと、胸元に手を遣り、その手を軽く握りしめた。

「……苦しくなってきた。もうすぐ、会いに行くね。二人で、二人きりで、幸せになろう。幸せに……」

 仰向けに横たえた黎斗の胸の上にゆっくりと身を倒す。

「黎斗くん、大好き。ああ、これで、やっと……」

 千代子は静かに目を閉じた。

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