始まり
重い蓋を動かすとその奥にあるのも深い闇だった。
どこまでが床で、どこから穴があるのか、目で区別することは出来ない。
落ちないように気をつけながら膝をついて、穴の中へ手を差し入れた。
「嘘だろ……」
タラップがあるのか、階段なのか、どれ程の深さがあるのか。
色々なことを考えていたのに一瞬で全てが無駄となった。
俺の右手は床に触れている。
手首ほどまで差し入れただけで、ざらざらしたコンクリートの床がそこにあった。
これは出入口なんかじゃなく、単に二重床の点検口だった。
あきらめきれずに届く範囲をまさぐってみても冷たいコンクリートが拡がっているだけ。
苦労して見つけた喜びの反動は大きかった。
黙ったまま座り込んだ俺を見て察したのか、佐伯さんも穴を確かめている気配がする。
やがてどちらも動かなくなった。
エアコンの音だけが聞こえている。
どれくらい経ったのだろう。
もう逃げられない、俺たちをここへ閉じ込めたやつらが戻って来るのを待つしかない、そう思ったとき、ふいに彼女に触れたくなった。
抱きしめなくてもいい、手を握っているだけでも。
ただ温もりが欲しかった。
佐伯さんへ近づくために足輪に繋がった金属棒をたどっていく。
俺が何をしているのか、この音で彼女は分かっているだろう。それでも動く気配はなかった。
あらためて触ってみると、真っ直ぐだとばかり思っていた金属棒は複雑な形をしていた。変な角度で曲がったり、先の方が輪になっていたり。
(これって……)
俺の足輪に固定された棒の先に長めのパーツが二つ、その先には彼女の足輪に固定された棒がある。
二つのパーツを何度も触って、できるだけ形を記憶しようとした。
「佐伯さん、今さらだけれどこの棒を外せるかもしれない」
金属棒を手に取り、わざと音を鳴らした。
「えっ、どうやって?」
「この棒、でかいけれど知恵の輪になってるんだよ」
位相幾何学の授業がこんな所で役に立つとは。
棒をたどって彼女の足輪に触れた。
「体に触れるけれど、いい?」
「……はい」
「それじゃ、膝を抱え込むように座ってくれるかな」
動きが止まった所で、足輪から彼女のふくらはぎに右手を移す。
そのまま膝まで手を滑らせた。
なめらかな肌触りに鼓動が早まる。
佐伯さんを背中から抱え込むように足を開いて座り、右足首の位置を合わせた。
同じ向きにしなければ、この知恵の輪は外せない。
このことに気づいたら外せるように、あえて同じ右に足環をつけたのだろう。
なぜ? という疑問はこのときには浮かばなかった。
太腿と太腿が、俺の胸と彼女の背中が触れていることで、体の芯が熱くなっていたから。
右手を伸ばし、パーツを動かすけれど思うようにいかない。
さらにグッと手を伸ばすと、俺の体は佐伯さんの背中に張り付いた。
(ヤバい)
彼女の髪の匂いが胸に流れ込んでくる。
俺の鼓動と吐息が肌に染み込んでいく。
衝動的に佐伯さんの首筋に唇を当てた。
ひゅっと短く息を吸い込んだだけで、彼女は何も言わなかった。
しっとりと汗ばんだ肌と肌が吸い付きあう。
左手を彼女の左手に重ねる。
もうこのまま離れたくない。
ブラさえ邪魔でもどかしい。
「まだ……外れていません」
ささやくような声に思わず苦笑いを浮かべた。
真面目な人なんだな。
「ここを持って、そう……そのまま……動かないで」
この体勢じゃうまく入らない。
もう少し、もう少しなんだけれど。
「あっ!」
外れた金属の棒が床に落ちて音を立てた。
大きく吐き出した彼女の息が俺の耳にかかる。
「外れたよ」
お互いに顔さえ見えない闇の中で、佐伯さんに微笑みかけた。
どんな状況かなんて、今の俺には関係なかった。
「喉が……かわいちゃった」
張り付いていた肌を離し、彼女の前に回り込む。
腕に添えた左手を上へと滑らせ、肩を越えて髪に触れた。
右手でそっと頬に触る。
人差し指をあごに添えて唇を重ねた。
軽く触れたあと、彼女の背中に手を回し舌を絡ませる。
左手でブラのホックを外した。
『治験者番号 二十九、三十一、課題達成。観察者は暗視ゴーグルを速やかに外すこと。繰り返す。治験者番号……』
突然、天井から機械的な音声が響き渡った。
とっさに佐伯さんを抱きしめ、視線を音の方へ向ける。
しばらくすると部屋がゆっくりと明るくなっていった。
ずっと闇の中で過ごしていたせいで、わずかな光でもまぶしくて目が開かない。
ようやく目が慣れてくると、あのガラス壁の向こうに白衣を着た男女が数人、手にタブレットを持ってこちらを見ていた。
『落ち着きましたか』
白衣の一人がスピーカー越しに話しかけてきた。
「一体何なんだ、お前らは!」
『そう大きな声を出さなくても、こちらには集音マイクで聞こえています』
部屋を見渡すと天井の四隅にマイクとカメラが設置されている。
そして、この時に初めて佐伯さんと会った。
やっぱり歳は俺と同じくらい、話す言葉の印象通り落ち着いた感じの女性だった。彼女の目に俺はどんな風に映っているのだろう。
『支度はよろしいですか?』
彼女がはっとして背中に手を回し、ブラのホックを留める。
奴らの視線をさえぎるように彼女の前へ立った。
「どういうことか説明してくれ」
『お二方が契約された通りです。特殊な環境下で男女がどのような行動をとるのか、心理学の観点でデータ収集を行っています。ご協力ありがとうございました』
そういうことか。
全て予定通りのことだったなんて……。
『あらかじめお話してしまっては実験にならないので、少々手荒な方法を取らせて頂きましたがご容赦ください。課題であるキスまでの時間は六時間十三分と、かなり優秀な成績でした』
淡々と話しているのが余計にいらつく。
治験者として申し込んだのは俺たちだから、文句は言えないのだろうけれど。
「あのガラス壁、どうして見えているんでしょう。さっき調べたときには向こう側なんて見えなかったのに」
『それについてはですね――』
佐伯さんが俺にささやいた声まで聞こえてるのか。
『瞬間調光ガラスの応用で、ガラスの間に挟み込んだ液晶薄膜に電圧をかけることで……いや、詳しい仕組みをご説明するよりも見て頂いた方が早いでしょう』
そう言うと白衣の男が他の奴に合図をした。
その瞬間、今まで普通のガラスだった壁が真っ黒に変わった。
『こちらからは一定の透過を保持しているので、暗視ゴーグルをつければあなた方の行動を把握することが出来るんです』
全部見られていたなんて……。
『ご安心ください。プライバシー保護は徹底しております』
「もういい。さっさと俺たちをここから出してくれ!」
『分かりました』
今度はガラス壁が上へと移動していく。
こんな仕掛けじゃ出口は見つからないはずだ。
彼女と一緒に部屋を出るとバスタオルが二枚渡された。
「これで終了となります。更衣室へご案内します」
俺たちにはこれが始まりかもしれない。
俺の左手は彼女の右手をしっかりと握っていた。
―― 了 ――
吊り橋を越えたら 流々(るる) @ballgag
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