吊り橋

 コンクリートのような重い音とは違う。


「これって……ガラスじゃないですか?」

「やっぱりそう思う?」

「感触もこっちとは全然違うし」


 どうやら佐伯さんは角に立って両方の壁を比べてるらしい。


「でも、窓ではないみたいなんだ」


 上や下、左右に手を広げて確かめても、触れるのはガラスだけ。サッシの枠がどこにもない。


「窓なら……外が見えるはず、ですよね」


 そうだった。

 これが窓なら、たとえ真夜中だとしても何かしら見えるだろう。でも目の前には深い闇が続いている。


「ここから逃げられるかと思ったのにな」

「窓だったとしても高い階かもしれませんよ」


 たしかに。


「佐伯さん、落ち着いてるね。こんな状況なのに」

「そんなことありません。ただ……」


 声のする方を向いて次の言葉を待った。


「一人じゃないから……。川島さんがそこにいるのが分かるから、心強いです」


 あ……。そんな風に思ってくれていたのか。


「それにしてもこのガラス、一体なんだろう?」


 なぜガラスの壁さえも闇を見せているのか。

 手のひらで叩いてみると何となく厚みを感じる。


「水族館の水槽みたい」


 なるほど、言われてみればそんな気もする。

 それならこの向こう側はいったい……。まさか、海なんてことは。


 巨大水槽のようなガラスには扉どころか継ぎ目さえもこの手に感じることなく、四回目の角に辿り着いてしまった。

 まだ最初の壁で調べていないところがある。

 扉があると信じて手さぐりに壁を伝って行く。


(おかしい。最初に探し始めた場所をもう過ぎたはずだ)


 そして、右手が部屋の角を知らせた。


「マジかよ……」


 この部屋を一周したけれど扉を見つけることが出来なかった。

 扉のない密室なんてありえない。


「どこかに出入口があるはずなのに」

「ひょっとしたら壁の低い位置にあるのかも」

「どういうこと?」

「私、お茶を習っているんですけど、茶室にはにじり口といって床から六十センチくらいの高さしかない戸があるんです」

「それじゃ、今度は低い位置を探ってみよう」


 中腰のまま手を下に伸ばし壁をまさぐっていく。

 時折立ち止まって、痛くなった腰を伸ばす。

 足元から断続的な金属音が聞こえる中、一周回っても出口は見つからなかった。

 腰の痛みもあって、大きなため息とともに床へ大の字に寝転がる。


「ごめんなさい、戸なんかありませんでしたね」

「佐伯さんが謝ることないよ。どこかに必ずあるはずなんだから」


 彼女も近くへ座った気配がした。

 見上げている天井からはエアコンの音と共に暖かい風が顔をなでる。


(上からこの部屋へ落とされたなんてこともないだろうし)


 二人を繋げたまま落とせば、怪我をしないなんてあり得ないはず。

 それにしても視覚が使えないだけでこんなにも不便になるなんて。

 この部屋は広いリビング程度な印象だけれど、具体的な広さもあやふやだ。

 出口だって、きっと明かりがありさえすればすぐに見つけられるのだろう。


「私たち、どうなっちゃうんでしょうか」


 不安げな声が、思ったよりも顔の近くから聞こえてきた。

 ビクッとなってしまったことは彼女にも気づかれない。


「申し込みの時、最後にあった但し書きを覚えてる?」

「ええ」


 そこには、こう記されていた。

『治験中は外部との連絡が取れなくなるため、家族や知人などにはその旨をあらかじめお伝えください』

 一人暮らしをしている俺には彼女もいないし、誰にも言わないできたけれど、あれって俺たちがいなくなったことが発覚するのを遅らせるためだったのでは。


「誰かに伝えてきた?」

「仲のいい友達と親に」


 ここへ連れて来られてからどれくらいの時間が経ったのか分からない。

 あきらめずに逃げ出すことを考えなきゃ。


「そうだ、床は!? 壁にないなら床下に通路があるかもしれない」


 自分でも無理があると思ったけれど、佐伯さんの答えは意外なものだった。


「そうかもしれませんね。探してみましょう」


 部屋の短辺方向からガラスの壁へ向かって、四つん這いになりカーペットを探っていった。足に繋がれた金属棒の音も気にならない。

 探し漏れがないように、長編方向の壁を右足で確かめながら進んでいく。ガラス壁に辿り着いたら同じように折り返してくればいい。

 トランクスだけで床を這いまわる自分の姿を思い浮かべて可笑しくなった。

 隣で佐伯さんが同じ格好をしているかと思うと――顔が熱くなった。

 カーペットのおかげで膝への負担は少ないけれど、床の違和感を見つけるのは難しい。左右の手を交互に、床へゆっくりと円を描くようにして這っていく。


「あっ」


 左手が彼女の手に触れると、反射的に引っ込めた。


「ごめん」

「いえ」


 ただ手が触れただけなのに、中学生のように鼓動が早くなった自分に呆れる。

 さっきから佐伯さんをはっきりと意識し始めていた。


(これが『吊り橋効果』ってやつか)


 自分の手さえ見るのがやっとという深い闇の中で、お互いの足を繋がれて監禁されているなんて、吊り橋よりもストレスは大きい。

 しかも下着姿で隣に――いや、今はそれどころじゃない。

 最初に彼女と約束もしたじゃないか。

 深呼吸を一つして、また床を這い始めた。


 ガラス壁で折り返して少し経った時だった。


「ここに何かあります!」


 佐伯さんがひときわ大きな声を出した。

 手探りで近寄っていくと、また彼女の手に触れる。

 今度は彼女が俺の手首をつかんで、見つけた場所へと導いてくれた。


「ほら、ここに金属の枠があるでしょ?」


 辺りをまさぐるとカーペットの切れ目に硬い直線状のものがある。

 なぞっていくと肩幅くらいの正方形になっていた。


「ここが隠し通路の入り口みたいだね」


 俺も興奮して早口になってしまった。


「どうやって開けるのかな」


 周辺にまで手を伸ばしてもスイッチのようなものも取手も見つからない。


(何かがここにあるのは間違いないのに……)


 半ばやけくそで表面のカーペットをつかんで持ち上げようとしたけれど、毛足が短くてつかめない。意地になって何度も繰り返していたら、端が少しめくれた。


(ダメ元だ)


 めくれた所からカーペットを剥がしてみる。

 剥き出しになった個所を手で探ると、手を掛ける彫りこみが中央にあった。


「これで開けられるよ!」


 立ち上がって彫りこみに右手を掛け、気合を入れて蓋を持ち上げた。

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