桜の木の下には

幼い時より、私は美しいものに対して人一倍の執着を持っておりました。

幼年の頃はビイドロの玉を、それも一番透き通ったものが欲しくて欲しくてお父様にねだりました。

小学校の頃はそれをはめ込んだ西洋人形を、ショウウインドウの外側からじぃっと、一時間は見ておりました。

それは憧憬であり、執着でありました。


美しいものを見れば欲しくて欲しくて仕方なくなるのです。

喉から手が出る程に欲しくて欲しくて仕方なくなるのです。

そして、それが手に入らないとなれば私は決まって癇癪を起すのでした。

天が落ち、地が割れるとばかりに泣き叫べば手に入るのだと知っていたので、私は平気でそうしました。

やがてそれがみっともない年頃になれば、殿方の耳元で甘く囁けば不思議とそれが手に入るのだと知ったもので、私はその便利で簡単な選択を選んだのです。


そうして手に入れたものを部屋に飾って三日は飽きずに眺め、そして壊してしまうのです。

ガラス玉であればトンカチで叩き割り、人形であればハサミを突き立てて引き裂きます。理由は分かりませんがそうすると、心の奥の方ががスゥーッとして酷く気分が良くなるのでした。

それは美しいものが手に入らない時の衝動と似ているようで、よくよく考えれば違うように思いますが。とにかくその我ながら困った衝動は私が高等学校を卒業して、そうして人並みに家庭を持ってもまだ治ることが無かったのです。



夫が出来て、子供が出来ました。


その頃には私の美しいものへの衝動が収まるということはなく、むしろ年を重ねるごとに高まっているように思えました。

しかしながら、それと共に理性と言いますか、これが知られればただではすむまいという冷静な理性も働くようになりまして、私はそれをどうにかこうにかやり込めてしまうことが出来るようになっていたのです。

私は普通の女性となって夫に尽くし、子供に尽くしました、ですが裏では薄暗い情念がまだふつふつと煮えたぎっておりまして。例えば綺麗な宝石であったり、例えば美しい絵画であったり、そう言った見事な美しさを持つものをどうにかして手に入れられないか、と思ってしまうのです。


どうにかこうにかやりくりして、けれどもそれは消すことが出来ません。

押し込めれば押し込めるほど、蓋をすればするほどにそれは暴れまわるのです。

炎のようだったそれは灰となり、ヘドロとなって、やがては意志を持って暴れ始めました。

次第に私は手に物がつかなくなり、まるで夢遊病の患者のようになり始めました。

夫や子供は心配しましたが、まさかこれは自分の中に怪獣がいるのだというわけにもいきませんから、ああこれは少し疲れたのかもしれないと誤魔化しました。

そうすればよくできた夫のことなので、では君は少し旅行に行ってくると良い、そうするべきだというのです。

果たしてそれで事態が好転するとは思えませんでしたが、断る理由もないもので私は旅というものをすることになったのです。



ふぅらり、ふぅらりと電車に乗せられて、桜が綺麗だという地方へと足を運んだのは何の因果もないことですが。肌寒い季節もあって桜が綺麗だろうと夫が言うのでそこに行ったのでしょうか、今となっては覚えていないことです。

長閑な場所でございました、ちっぽけな旅館がありまして、その部屋の窓からは桜の木々が見えるのです。蕾はもうすっかり花開いて、はらはらと散り始める頃合いでした。


その中に一本、一等大きな木がございました。

周りにある桜の木の二倍、三倍は大きく、そして立派な桜の木で御座います。

それが桜の木々の真ん中に突き立っているものですから、あれはなにかと旅館の亭主に聞きますと。「ああ、あれはこの地を修めていた領主が一番最初に植えた木ですよ」と返ってきました。

なんでも百年前の領主が大層美しい奥方の死後に、その代わりにと埋めた桜のようで、それもまた大層美しく語り草になっているとのことです。


私は桜の木を見上げて、漠然と欲しいと思いましたがどうすることもできません。

ただ美しい奥方と呼ばれた故人が気に掛かりましたが、これもまたどうすることもできません。

私の中で抑えていた薄暗い炎が、またふつふつと燃え上がってくるようでした。



その夜、寝付けなかったのはそのせいなのでしょうか。


寝汗を掻いた私は窓の外を眺めて、月明かりに照らされた桜吹雪を見ておりました。

綺麗でした、例えようのない程に美しい光景でした、あれをすべて壊せてしまえたらと想い、それが敵わぬ悔しさに私は布団をかぶって狂ったように泣きました。


そうするとふと、ぼんやりと部屋が明るくなったのです。

誰かが電灯をつけたのかと思いましたが、それにしては酷く淡い光です。

はたと布団を除けて部屋を見回せば、一人の女が私を見ているのでした。


美しい、余りにも美しい、女性でした。

その輪郭すらも、ぞっとしてしまうほどに美しいのです。

「ああ」と私は呆けた様に呟いて、彼女の元へとふらふら近寄りました。


女性は微笑んでいるような、悲しんでいるような顔をしています。

私はとっさに、手元にあった筆をその胸元に突き刺しました。

するりと筆がその肉体をすり抜けた時のやるせなさを、どう語ればいいのでしょう。


彼女は呆然とする私の方を向いて、自らの唇に触れました。

私もそれを見て、呆けたように自分の唇に触れますと嬉しそうに笑うのです。

堪らずにその首元に掴みかかりましたが、それすらもすり抜けて感触すらもないのです。まるで上等なカキ氷のようにするりと溶けてしまいました。

どうしてこんな残酷なことをするのだと、まるで子供に戻ったようになく私の唇に彼女はそっと触れました。

そのまま――ああ、そのまま、彼女は私と接吻したのです。影絵を重ね合わせるような、幻の接吻です。まるで嘲笑うかのような所業でした、一つ、二つと私と彼女は影を重ね合わせました。


気が付けば彼女は消えておりました、まるで最初からそこに居なかったように……果たしてそうなのでしょうか。ともかく、私はもう居てもたってもいられずに旅館を抜け出して、裸足のまま桜の木々の中を駆け抜けました。


一番大きな桜の木があって、私はその根元をそっと手で掻きました。

膝が土で汚れましたが、私には彼女がその下にいるような気がするのです。

あの途方もない程美しくて、果ても知れぬほど憎いあの人がそこに居るような気がするのです。


生と死のはざまに、灰色の薄膜の向こう側にいるあなた。

一度見ただけで網膜に焼き付いてしまったあなた。


ああ、愛おしい。


きっと彼女の血を吸った桜だから、あんなにも美しく見えるのでしょう。

見上げれば散っていく桜の花びらがはらりと私の肩に落ちて、私は思わずそれに接吻したのです。

その後で噛み千切って、咀嚼して、嚥下して、それでももう、全ては手遅れでした。

彼女は私が固く閉ざしていた蓋をいとも簡単に外してしまったのです。


ああ、なんて、憎い好き憎い好き憎い好き憎い好き憎い好き

その二つはぐちゃぐちゃになって一つになり果ててしまいました。

私は気が付けば怪物となり果ててしましました。


いや、最初から私の本性は醜い怪物だったのかもしれません。

醜いから、美しいものが憎くて、欲しくて、憧れていたのかもしれません。




だから私は今夜、あの桜を燃やします。

たっぷりと火を掛けて、そして私もその中に飛び込みます。


この手記を読んでいるどなたか、お願いがあります。

桜を植えてください、燃えてしまった残骸の跡に。

その木が芽吹いて根を張れば、私はきっとその下に居るでしょうから。


そうしたらきっと、そうしたらきっと――







桜の木の下には、私達が埋まっている。

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汚濁に塗れた白百合の花咲く 薄煤薄 @nonopopo

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