雪病

月鳥

第1話

 長い旅を終えた時、何が残るだろうか。

 薄く息を吐いて、私の前を歩み続けていた彼女のそんな口癖を思い出す。風景に紛れて、世界に溶けて、意識を少しでもそらしてしまうと見失ってしまいそうで。いつだって淡く、無地のキャンバスのように何色であったか後から述べることしかできず、本当に世界へ溶け消えた彼女の言葉。

 肉体は、残らなかった。すべてより小さき者たちの糧となり、そのものたちも消え去って、さらに小さき者たちへと。それを何度か繰り返した先に、彼女はいないのだから。

 物は、残らなかった。身に着けていたものも、懇意にしていたものたちも。一部は肉体と同じ運命をたどった。逃れたものは誰とも知れぬ者の手に渡り、姿を、匂いを変えた。意固地に耐え抜いたものも、小さき者たちの犯す手を止めることは叶わなかった。

 記憶は、残らなかった。素晴らしき日々は新しき記憶に塗りつぶされて、過去へと至ることを止められない。忘れぬよう、何度記憶を捲りかえそうも、すり減りからは逃れられず。一度でも忘れようものなら、火の手が迫る。たとい焼け残ろうとも迫る焦げ付きには敵わない。ただ朽ちるときを待つしかなく、そしてそれはすぐにやってくる。今はもう、顔も声もおぼつかないのだから。

 記録は、残らなかった。いや、正しくは記録はもとより彼女を映してはいなかった。渡航記録も、旅日記も、誰かが移動したことを示すだけで。幾百年前の歴史書のように意味をなしていない。ただ、少し後の者がそれらしい名前と理由をつけて描いたものとなっていた。誰某が何処其処へと行ったと、多くの名前で同様のことができるものに過ぎなかった。

 痕跡は、残らなかった。人生の足跡も、歩みの足跡も。出会ったはずの多くの者の記憶からは喪われ、記録に残っているものはすべて別のものを示すことばかり。何をしていたのか、なんてことは何処にも姿を見せず、書物に浮かぶ空白のように在るだけで。それすらも、観測者の誤認のようにあやふやなものでしかなかった。

 言葉だけが、残った。形を変えて、文字を繋ぎとめていた音も失って。ただ想像の中に浮かぶ言葉だけが。あるいは、紡がれ、死に絶えた文字が。そして受容され歪な解釈の上に死にながらにして生まれ続ける言葉だけが。

 どんな時に言われたものかはもうわからない。どんな表情で、どんな感情がのっていたのか。そも、本当にその通り彼女が口にした言葉だったかすらもわからない。ただ、その意味だけが私の中に残っている。

 それだけが、彼女がこの世界に残したものだった。

 それが、世界を旅し、様々な人の中を歩み、いくつかを記した者の残したものだった。

 旅の最中に確かにあったものは今はなく、彼女を示すものはいくつかの言葉だけ。旅の果てはこうなのかと、ただ笑うしかなくて。笑う価値すらも感じず、ただ大きなため息を吐いたのも久しく。そんな私が今なお旅をしている。彼女の背を追う様に。在り様とともに旅を。

 果てはなく、ただ終わりだけはいつでもある。目的はなく、意味もない。ただ旅をするがために旅をして、歩むがために歩み続ける。巡礼でなく、贖罪でもない。彼女を想うことはあれど、そう成りたいわけでも、そう在りたいわけではないから。彼女の死を想えど、それが望んでいたことだと知っていたから。

 ただ彼女がそうしていたように、私もまた旅をする。

 違うことと言えば、彼女は人と交ざることを好んでいたことで。私は人と交ざることを好まないということで。

 言葉も、記も伝えるものはなく、伝えたものもない。彼女の果てに残った唯一のものを持たない旅をする。彼女と同じように、すべてを捨て去った旅を。彼女が残してしまったものを今度は正しく捨てて。

 くつと笑いがもれる。きっと、私たちはそれを問うために旅をしているのだろう。

 長い旅の果てに本当に残るものは何か、と。

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雪病 月鳥 @tukitori

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