瘴癘の、夢

うぉーけん

瘴癘の、夢

 ごとり、と音が聞こえ、わたしは入り口を見た。


 電源が落ち自動では動かなくなった扉が、ゆっくりと押し開けられる。吹き込んだ風が、本たちをばさばさとなびかせる。窓という窓が打ちつけられ、闇が潜む室内に昼の光が差し込み、長い長い人影が伸びてくる。

 わたしの住処である閉鎖図書館に来る客は、二種類しかない。

 

 読んでいた本をぱたんと閉じる。わたしは表紙に重ねられたわたしの指先に、一度視線を落とす。

 そうしてもう一度視線をあげ、目を細めた。


 入り口には少女が立っていた。俯いた顔はほうぼうに跳ねた長い黒髪に隠れ、表情は伺えない。

 身に着けているのは、ところどころ灰緑色の染みが浮いたワンピース。雨ざらしにされたそれは、元が何色だったかすらわからない。二本の細い腕は、くすんだ色をしていた。どこかに脱ぎ落してきたのか、トングサンダルは左足しか履いていなかった。


 少女がゆっくりと面を上げる。覆っていた黒髪がはらりと落ち、かつては愛らしかったであろう顔が露わになった。


 どことも知れぬ遠くを見ている右の眼球。水晶体と網膜の間を満たす硝子体液は濁り切り、数多の虫たちが泳ぎ蠢いている。左の眼窩はすでに腐り落ちたのか、黒々とした虚空があるだけだった。形の良い鼻梁は得体のしれない汁を垂れ流している。頬はこけ、かわいらしい唇は乱れ裂けて白く変じていた。


 悪夢の中のみに現出する、冒涜的な動きで少女が一歩一歩近寄ってくる。踏み出すたびもろくなった体表組織が落屑し、鼻を衝く汚液がてんてんと跡を残す。喉の深奥よりあふれ出した腐汁が、ごぼごぼと音を立てて唇から零れ落ちる。


 遅々とした動きは、赤ん坊の歩みより遅い。


 少女ゾンビスティシィ


 前年号時代にとある退廃的なアーティストが書いた小説から、少女たちはそう呼ばれている。


 永遠に少女である、時が止まってしまった彼女たち。無垢と汚辱という矛盾を内包した存在。

 もう珍しくはない。


 一〇年ほど前に、SNSで知り合ったふたりの少女が、心中する様子を生配信した。手と手を繋ぎ合い、どことも知れぬ廃墟でオーバードーズを選んだ。

 眠るように、とはいかず、大量摂取した薬物がもたらす生理的拒絶反応のなか、ふたりの少女は汚物にまみれグロテスクに死んでいった。


 社会への復讐とも、自己顕示欲と承認欲求との発露ともされた凄惨で美しい自殺配信は、そこから全国的に少女たちの連続自殺を引き起こした。

 だが、少女たちは帰ってきた。若い死を嘆き悲しむ友人や恋人、家族、そして延々延長され続ける自殺配信を前に集っていた視聴者の端末に。


 医学的に死んでいる少女たちへの反応は、さまざまだった。恐怖と拒絶。あるいは、去ったはずの愛娘への無限の愛情。


 議論が沸き上がった。生前の動作を繰り返すだけの、もの言わぬ少女たち。社会はどうすべきか。埋葬許可証を与え、死者として葬るべきか。

 それとも、果たして死んだはずの少女たちは、人間としての権利を有しているのか。


 永遠に終わらぬかと思われた議論は、あっけなく終焉を迎えた。

 ある少女が、愛した少女に生きながら食われた。群れて集い押し寄せる少女たちの、初めての犠牲者となったのだ。


 そこから、ゾンビ禍が始まった。


 でももう、はだいぶ終わっている。


 破産した自治体の、維持が不可能になり閉鎖された図書館。わたしが勝手にわたしの住処と定めたそこにやってくる二種類の客は、少女たちと。

 あるいは、少女たちを狩るものだ。


 ゾンビ禍を封ずるのは誰か。治安維持を目的とする警察か。あるいは、災害出動という名目で自衛隊が行うべきか。

 けっきょく、かつて少女だったものを討つという悪趣味な貧乏くじを引かされたのは、公衆衛生を司る人々だった。


 だから、わたしに会いに来るのは。

 少女たちか、防護服に身を包んだ掃除人のどちらか。


 今日も前回もその前も、もう記憶が薄れた過去にも、来てくれたのは少女だった。


 生きている人間が持つはずの恒常性が停止している少女たちは、腐っていくだけだ。自らが持つ酵素とバクテリアにより始まる自己分解。這い寄る虫たちと細菌類の楽園である少女たちは、汚染物質の塊だった。

 親たちの無限の愛すら、腐敗は退けていったのだ。


 少女たちの最後を見届ける者は、ほぼいない。それこそ、燃やして灰塵に帰す掃除人か、わたしぐらいだろう。


 だが、はたして少女たちは不幸であったのだろうか。なにものでもなかった彼女たちは、少女性と死という抗いがたい玄趣をもって現代の神話となった。


 たぐいまれな腐臭と汚濁が残ったのだ。


 わたしは本を机に置くと、椅子から立ち上がった。


 眼前に迫っていた少女の手を取り、もろくなった彼女が崩れ落ちないように、甘やかな砂糖菓子を扱うように、やさしく椅子へ座らせる。


 死臭まみれの少女は、懐いた猫のように大人しかった。


 わたしの視線の先で、かつてはつややかであでやかであったであろう髪が乱れている。わたしは少ない自分の持ち物のなかから、歯の欠けた櫛を取り出す。

 そっと少女の黒髪を撫でつける。


 触れれば欠けてしまう、ガラス細工を扱うように接したのに。

 緩んでいた皮膚が剥がれ、毛根ごと引き千切れる。長い傷んだ黒髪が、櫛の歯に渦を巻く。


 ああ。この娘はもうだめだ。


 もうすぐ腐って崩れ落ちる。肌のあちこちで蛆や死出虫が這いまわり、柔らかくなった肉を食んでいる。色褪せたワンピースのなかには餓鬼を思わせ膨らんだ腹部があった。溶けた内臓がガスを発生させ、いまにも破れそうだ。

 少女という純白の存在が、黒い汚泥という腐敗の海にたゆたっている。


 わたしは、少女の指に触れた。


 灰緑色に変じた指先には、角質化された部分があった。代謝が停止し、もう伸びなくなっている。

 擦れ傷がいっぱいな、だけれど繊細で可憐な、桜色の爪。


 たとえ少女が腐って溶け崩れても、爪だけはずっとずっと残り続けるのだろうか。


 わたしはため息をつくと、櫛を机に置く。鞄を開けた。手探りで目的のものを見つけ出す。

 ネイルグッズを取り出した。

 プロの技術はない。図書館でなんとなく読んだ雑誌を参考に、ゆっくりと集めた道具だ。でも、伸びるのが止まってしまった、わたしではあるけれどわたしのものではない爪を使い、いくども練習した。

 実践をもって研鑽も積んだ。

 技術はそう悪くないという自負はある。


 わたしは片膝をつく。お姫様の手をとるように、わたしは少女の可憐な指先を持ち上げる。爪やすりエメリーボードを使い、歪んだ爪をひとつひとつ、丁寧に磨き上げていく。オイルでふきあげ、幾度も幾度も色を塗り上げていく。


 少女はじっと動かずにいてくれた。


 トップコートを厚く塗り、十指をきれいに仕上げると、日が暮れていた。もうだいぶ時間が経っていた。

 ここから乾くまでさらにかかるが、待っていて、と言えば少女は待ち続けるだろう。その身が崩れてもなお。


 少女たちは、もうなにも持っていない。


 生まれたときですら持っていた、生命の灯火すら失くしてしまった。なにも持たず溶けて崩れ去るのは、どんな感覚なのだろうか。


 たぶんきっと、虚しいものに違いない。


 終わりに向けて、美しいもののひとつでも、あってはわるくないだろう。たとえわたしの自己満足だとしても。


 本当は、もっともっと美しく着飾ってあげたいのだけれど。もう時間がないのは、明白だった。


 やりたいことを終えて、わたしはわたしの指を見る。少女の爪を彩ったわたしの指を見る。わたしではあるけれど、わたしのものではない指を見る。


 赤ん坊は母が恐ろしくて胎内で踊る。赤ん坊は産み落とされ、大気に焼かれる皮膚の痛みに慄く。


 もし『わたし』というものが、始まりの恐怖のなかで生まれるのならば。

 わたしは、終わりが始まったときに生まれたのだ。


 少女は、座ったまま俯いている。盲いた瞳で、美しく飾った爪に視線を落としている。


 わたしは、うっすりと立ち、立てかけてあった両口ハンマーを手に取った。


 細腕で持つにはあまりにも重いそれを、ふらつきながらも持ち上げる。振りかぶる。そのまま座る少女の頭蓋に打ち付けた。


 ひどく脆い炸裂音が響き、頭部が木っ端のように弾け飛ぶ。柔らかい皮膚も薄い頭骨も汚泥そのものだった脳もすべてがもみくちゃにぐずぐずに混じり、周囲を激しく汚しまき散らされた。

 これで終わりだった。わたしはハンマーを投げ捨てた。


 図書館は丸ごと闇に包まれていた。わたしはランタンに火を灯す。呻きながら吹き込んだ風により炎が揺れ、わたしと少女だったものの影がゆらゆらと踊り狂った。

 まるで生き物のように。


 わたしはわたしの指をじっと見る。


 継ぎ接ぎされたそれは、たしかに少女たちのものだった。

 わたしは、だから、閉ざされた図書館でずっと待っている。最初に生まれた者の責任を果たすため、ずっとずっと待っている。

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