第5話 長壁姫

夜になっても蒸すような暑さは収まるところを知らず、日江井栞はファンデーションが溶けて流れていると感じながら、夜の大学構内を歩いていた。

こんな夜には生ビールが似合うところだが、あいにく行きつけのバーA地下にはビールサーバーなんて高級なものはなく、もっぱら缶ビール、いやそれですらない第3のビールが主流だ。


栞がいつものように店に入ると、第3のビールを飲む茶髪メガネの男と、コーラを飲む痩せた男の二人組を見つけた。

「マスター、コーラ」

「珍しいね。栞ちゃんが紅茶じゃないなんて」

マスターはこんなに暑い夜でも涼しい顔で着流しを着ている。

「南門からここまで歩いただけで汗だくなの。冷たいものがいい」

「そうかい。栞ちゃん、今日は砥川くんがね、高校生を連れてきてくれたんだよ」

とマスターは言った。

砥川というのが第3のビールを飲む男の名前ようだ。高校生の肩を抱いて「カケルくんっス」と言った。

「いや、こんな危ないところ連れてきちゃだめでしょ?」

「危ないとは心外だな。栞ちゃんここ半年通ってて危ない目になんて一度もあってないでしょう?」

「酒も飲ませてないし、一人で徳島から出てきたっていうんで、今日はうちに泊めようかと思ってるんスよ」

カケルはオープンキャンパスのためにK大にやって来た。そこで、学生相談コーナーで質問に答えていた砥川に気に入られて市内観光に引き回された後、今このバーにいるらしい。

「余計なものを見て、志望度が下がらないといいけど」

「それが聞いてください。なんと彼は来年もここにいるってことを予言されたんっスよ」

「なるほど。それでうちに連れてきたわけだ」

マスターはいつもの笑い顔をよりニヤニヤさせて身を乗り出した。


カケルは工学部の説明会に参加した後生協の「学生相談コーナー」に行くまでの1時間、構内をぶらぶら歩いていたという。

「木の陰で女の人が地面に座ってて、しかもなんかやたら白くて血色が悪いから、大丈夫かなって思って見てたら目があって。水くれって言われたから、飲みかけだけどペットボトルをあげたんです。炎天下だし熱中症になってたらやばいと思って」

「場所聞いたら工学部8号館の裏あたりでした」

女は水を飲むと、一息つくようにしばらくぼんやりとした後、カケルの方をじっと見た。

「その人、にっこりして『来年もまた会えるね』って言ったんです」


栞は飲みかけたコーラを口に運ばずにカウンターに再度置いた。

木の陰の女、「来年もまた会えるね」という思わせぶりなセリフは栞にも覚えがあった。


「怪しい宗教団体かもしれないと思って、砥川さんに話したらマスターに話した方がいいって言われて」

「だって宗教でもサークルの勧誘でもないじゃないですか。連絡先も聞いてないし、集まりに勧誘してもないし。ナンパにしてもおかしい。となるとやっぱり、マスターの守備範囲内だと思ったわけなんスよ」

砥川は明らかに面白がっている様子だった。不思議現象であろうが人であろうが面白ければどちらでも良いのだろう。そしてマスターは、妖であればいいと思っている。

「長壁だね」

とマスターは言った。

「おさかべ?」

とカケルが聞き返した。

「そう。狐だよ。予言を授ける狐さ。予言をする女ならほぼ間違いない。城の天守閣で殿様にアドバイスをしていたとかいう話がある。コウモリを連れた老婆という話もあるが、何か連れてなかった?」

カケルは首を振った。

「なるほど。いずれにせよ、カケルくん、よかったじゃないか。春からK大生だよ」

「すげー。今日はお祝いで飲み明かしましましょう」


浮かれる面々を前に栞は「ごめん、疲れちゃった。帰るわ」

と代金を置いて席を立った。


少し風が出て、行きよりも涼しくなった構内を門に向かって歩いていく。


未来を予言する女に栞が会ったのも、カケルと同じ高校生の時だ。なけなしのバイト代でわざわざ長距離バスに乗って、K大まで来たのはオープンキャンパスで情報が欲しいというより、諦めるきっかけが欲しかったのだと栞は思う。

地元では進学校と呼べるレベルでも、合格者数は年に数人しかおらず、合格したところで入学金が払えるかわからない。無理だと諦める理由を探すために栞は京都まで来た。


学部の説明会が終わって、奨学金の相談に乗ってくれるという相談窓口に向かう道すがら、白い女は木の陰に立っていた。カケルと違って工学部裏ではなく、正門入ってすぐ脇の植木にもたれていたその女は、栞をじっと見てにっこりと笑った。

白い服を着て、肌も夏とは思えないほどに白く、髪と目は灰色をしていた。栞は意味がわからないと思いながら、その女を見つめ返した。

「大丈夫。あなたは来年ここにいる。意に沿わないこともしなきゃいけないけれど、でもいいじゃない、夢が叶うなら」

女はそれだけ言った。言ったら満足したのか、消えるようにいなくなって、栞はただ一人炎天下の構内に取り残された。


栞は、その女を自分の頭が見せた幻覚だと思った。本当はやりたいと思っていることを諦めようとしている自分に、脳が見せたメッセージだと思った。


栞が真面目に金について調べ始めたのはそこからだ。栞の世帯の年収なら授業料半額免除は堅いということがわかった。問題は入学金だが、計算上は栞の貯金で足りた。勉強で落ちたら仕方がないと思って、それから栞は学校で人と口を聞くのをやめた。目の前の勉強以外で栞に必要なものはなかった。


アップにした髪に刺さったピンを栞は抜いて、スプレーで固まったところを手ぐしでほぐした。このバイトが意に沿わないことなのかもしれない。水商売なんて死んでもやらないと思いながら育ったのに結局これだ。

「でもいいじゃない、夢が叶うなら」

栞は小さく呟いた。


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京都市左京区K大学怪異奇譚 大崎忍 @jane_jones

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