第4話 がしゃどくろ

夕暮れどきの薄ぼんやりとした光が、糺の森の木々の間から降り注ぐ。もう午後6時をとうにすぎた時間なのに、汗が身体に張り付くように暑い。普段は静かな参道には屋台がひしめき、たくさんの人が歩いている。


今日は御手洗祭の日なのだ。


御手洗祭とは、京都下鴨神社で毎年行われる祭で、足つけ神事とも呼ばれる。ろうそくを手に持って小川(大人の膝上くらいまでの深さがある)に入り、汚れを払い無病息災を祈る。川を歩いて渡り、社にろうそくを置いたらゴールだ。


「はい、あげる」

と、日江井栞は立ち並ぶ屋台で買ったキュウリを少女に渡した。少女、といっても20歳を過ぎているのだが、青色のシャツワンピースを清楚に着こなしたその様は少女の清廉さを感じさせる。

「なんでキュウリなんですか?」

ワンピースの美少女こと広野奏は戸惑った風でキュウリを受け取った。

「私京都来て初めて見たこのキュウリに驚いたのよ。屋台といえばたこ焼きとかわたがしとかそう言うものしかないと思ってたんだけど、なんとキュウリが売ってるのよ。なぜ祭というハレの場にケのものとしか思えないキュウリ……。しかも食べてみたらものすごくしょっぱいの。その時の衝撃を思い出して見かけるといっつも買っちゃうのよね」

栞はそう言ってキュウリをぽりぽり食べ始めた。

「そんな珍しいですかね。うちの地元ありましたよ、キュウリ」

奏も栞をならって一口キュウリをかじった。

「そうなの?奏ちゃん地元どこ?」

「愛知です」

「割と近いのね。ねえ、私興味あるんだけど、奏ちゃん高校生の時ってどんなだったの?」

奏はキュウリをかじりながら答えた。

「どんなって別に普通ですよ。ずっと公立だし、父親は会社員で母親は専業主婦です」

栞にはその答えは満足の行くものではなかったらしい。まゆをひそめながら、

「そのビジュアルで普通の高校生をやれたと思えないんだけど」

と言った。

「栞さんも美人ですよ」と奏。

「あなたに言われると嫌味にしか聞こえないわよ。東京大学とMARCHを両方高学歴ってカテゴリに入れて戦わせているクイズ番組を見ている時くらいイラっとする」

眉をよりひそめて栞は言った。

「その例え、東大にコンプレックスがあるのか、自分より偏差値低い大学を見下してるのかどっちなんですか……」

奏はそう言うと、しばらく考えて、

「そうですね、なんか美人でモテモテみたいなエピソードを求められているかなって思ってるんですけど、あんまり面白い話はないですよ。道や廊下で突然手紙を渡されたことが何回かあるくらいかな。連絡先が書いてるやつ」

「それ何回もあるんだ…」

「他に、突然土下座して僕と喋ってくださいって言われたことが2回」

「2回?しかも喋るだけ?付き合うとかじゃなくて?」

「でもまあ、そういうのって新しい学校や予備校に通い始めるとか、環境が変わると一瞬増えるんですけど、しばらくすると落ち着くんですよ。きっと勢いで動いちゃう人ってそこまで多くなくって、一回りするんだと思うんですけど。あと、言いよって来た人の中から、公称彼氏みたいなの作っておくとそれ以上知り合いは寄ってこなくなって便利ですよ。虫除けですね。その公称彼氏がハイスペックであればあるほど効果は高いです」

「ゴキジェットの強さの話してるんじゃないんだから。一応彼氏なんだから愛とかないの愛とか」

「ないですよ。私恋愛感情とかよくわかんないんですよね。そりゃ親しくなると楽だな、とか楽しいなと思うことが増えるのはわかるんですけど、友達Aと友達Bと彼氏Cの差分とかわかんないですもん。もしかしたら相手が悪いのかな、とか性別が女ならいけるかなって思って入れ替えたりもしたんですけど、相手の問題じゃなさそうでした」

奏はしゃべりながらキュウリを食べ終わって、串を捨てるゴミ箱を探す様子を見せた。

「なるほどね。奏ちゃんに横恋慕する相手は大変だわ」

栞は早希を思い出しながらキュウリを食べきり、奏の串をつまみあげてゴミ箱に捨てた。


「それより、栞さん毎年御手洗祭来てるんですか?」

「そう、好きなの。冷たくて気持ちいいし、それになんとなくきれいな自分になれるような気がするのよ。ほら、一応厄を払う祭だから」

「私は初めてです。知ってます?法学部の試験期間って遅いから、ちょうどこの時期試験勉強最盛期で出歩くなんてもってのほかって感じなんで」

「あら、それは申し訳ないことしたわね。じゃあなんで今回は付いてきてくれたの?」

「2時間くらい休憩するのもありかな、と。明日は休みですし」

二人は300円ずつ払ってろうそくを受け取り、足を川に浸した。

大人の膝たけくらいの深さの川は夏にも関わらず冷たい。二人ともスカートを巻き上げて川に入っていく。

ほんの数十メートルしかない川の中には大人から子供までたくさんの人がひしめいていた。

「なんだか人がたくさんいて芋洗状態ですね」

と奏は言った。

「まあね、有名な祭だし。でもやっぱり夕暮れに来てよかった。黄昏時っていうか、隣の人の顔がよく見えないからどこか別の世界に迷い込んだ感じがしなくもないのよ。この中に妖怪とか混じっていてもわかんないでしょ」

栞は言った。

奏は栞の言葉を受けて周りを見渡す、もしかしたら、あの女性は口裂け女かもしれず、あの幼子はのっぺらぼうかもしれないと想像する。そんな世界ならよっぽど愉快なのにと思う。あるいはそんなことを考えるようになったのはA地下のマスターの悪影響か。

二人は社にろうそくを置き、なんとなく、手を合わせた。


帰り道、参道を戻りながら奏は、

「あの、栞さん今日A地下行きますか?」と聞いた。

「今日は行くつもりないけどどうかした?」

栞はバイトがない日は研究室からまっすぐ家に帰るのでA地下には寄らないのだ。

「マスターに聞いてもらいたい話があって。栞さんがいるならいいなって思ったんですけど」

「別に行ってもいいけど。今日は研究室に居るから、22時とかでどう?」

「ありがとうございます。じゃあ、22時に」

奏は自転車に飛び乗って、今出川通を東に走っていった。





22時、栞は南部キャンパスの研究室からA地下に向かった。


A地下、地下バーとも呼ばれるアングラなその店のドアを開けると、カウンターの中でいつもの通り、着流しの男が古そうな本を読んでいた。

「マスター、みたらし団子買ってきてあげたよ」

栞はカウンターに座ると、下鴨神社近くの和菓子屋で買ったみたらし団子をテーブルに置いた。

「緑茶入れて緑茶」

と栞は言った。

「栞ちゃん、ここは君の実家じゃないんだよ」

とマスターはにやにやしながら言った。マスターは20代後半の怪しげな男で、毎日このバーのカウンターに座っている。髪の毛はくせ毛がからまったくしゃくしゃの頭で、怪しげな流浪人にしか見えないが、博士課程の学生ともっぱらの噂だ。

マスターは色鮮やかな茶筒から緑茶を急須に入れるとお湯を注いだ。紅茶がTバックであるのに比べると緑茶はずいぶん良い扱いだと栞は思った。

「こんな早い時間に来るなんてめずらしいね」

マスターは御手洗団子を皿にとりわけながら言った。

「今日はバイトじゃなかったんだけど、奏ちゃんがマスターに用があるって言うから来てみたの、あ、ほら奏ちゃんだ」

奏がガタつく扉を開いて中に入ってきた。

「マスターが緑茶入れてくれたから飲みなよ。はい、お団子」

「ありがとうございます。みたらし団子って御手洗祭から名前をとったんですよね、せっかく御手洗祭に行ったんだから私も買えばよかったかな」

奏は湯のみを受け取ると緑茶を一口飲んだ。

「栞ちゃん、ここ一応バーなんだけど」

と不満を言うマスターを明るい奏の声が遮った。

「マスター、この緑茶すごく美味しいです」

マスターは勝ち誇ったような顔で、

「緑茶は伏見の茶屋で買ってるんだよ。うまいだろう」

と言った。

「紅茶もこれくらい凝ってくれればいいのに……」

と栞は言った。普段の栞は仕事帰りにA地下で紅茶を飲むのを習慣としている。しかし、ここの紅茶は不味いのだ。

「手広くやると売りがぶれるだろう」

とマスターは言った。

「ところで奏ちゃん、僕に用って何かな?」

「今日の昼に、クラスメイトとご飯食べてて聞いた話なんですけど」

奏では湯のみをカウンターに置き直し、語りはじめた。


法学部は現在試験期間真っ最中で誰もが、深夜まで勉強をしているらしい。法学部は単位を取るのが難しい。その上、試験で良い点数を取れないということは、法科大学院進学が遠くなることも意味する。そのため、法学部の試験勉強は自然と長時間になるのだ。

「私は、図書館脇の24時間自習室にいることが多いんですけど、そのクラスメイト……ややこしいので鈴木くんとしましょうか、彼はいつもJ地下で勉強しているんです」

「J地下って何?」

と栞は訊いた。

「栞ちゃんは薬学部だから中央構内には立ち入ることがないんだね。この大学に地下があるのはここだけじゃないんだよ。経済学部にはE地下っていうのがあって学生運動家の溜まり場だという噂だし、教育学部にはQ地下があってここは漫画が読み放題らしい。本当かどうか知らないけどね。

J地下はあらゆる地下の中ではかなりまともなほうだと聞くよ。法学部の地下にあって、基本的には真面目な法学部生が勉強してるだけだから」

「そうです。鈴木くんも例にもれずで、地下にこもって日付が変わる直前まで勉強してたらしいんです。やっと終わらせて地上に出てみたら変な音がしたらしいんです」

「変な音って何だい?」

「『かしゃかしゃ』って。時代劇で鎧姿で歩いてるときみたいな音って言ってました。なんだろうなって思って自転車置き場に歩いて行くと、その音がだんだん大きくなっていったらしいんです。深夜で人もいないし、もしかして何かやばいものが近づいてきてるんじゃないかって、そう思って振り返ったら、大きな人影が建物に写っていたらしいんです。6mくらいあったって言ってました。しかも人間にしてはたどたどしい動きをしながら、だんだんこっちに近づいてきていたらしいんです。それで、鈴木くんは本当に怖くなってしまったらしく、自転車に飛び乗って百万遍から逃げたらしいです

それが昨晩のことで、今日のお昼に私はその話を聞きました。『絶対に人間じゃなかった。危ない何かの可能性が高い。危ないから遅くなってから大学に残っちゃだめだ』って鈴木くんに言われました。彼はもともと神経質なところがあるし、皆信じてなくて、私も正直話半分に聞いてました。

でも、マスターならこういう不思議話に詳しいんじゃないかと思って、もしかしたら正体がわかるかもって、話しにきたんです」

奏は話を終えると緑茶をすすって、みたらし団子を食べた。

マスターはいつもの通りにやにやした顔で、こう言った。

「がしゃどくろだね」

「がしゃどくろ?」

と栞は聞いた。

「がしゃどくろ。栞ちゃん知らないかい?鬼太郎にも出てくるしそれなりに有名だと思うんだけど。戦死したり野垂れ死んだりして、埋葬されないで放って置かれた死者が集まって、巨大な骸骨になる妖怪のことだよ。ガチガチと音を立てて徘徊し、人を食べる」

奏はグーグル検索でがしゃどくろを調べて画像をマスターに見せた。

「この浮世絵のやつですか?」

奏が見せた浮世絵は、巨大な骸骨が描かれた歌川国芳「相馬の古内裏」である。

「その絵はね、かっこいいし、似てるんだけど違うんだ。巨大な骸骨って言う意味では一緒なんだけどね。その絵の骸骨は滝夜叉姫っていう人が呼び出した妖怪を描いたものなんだが、その絵が描かれた江戸時代にも、滝夜叉姫がいた平安時代にも、がしゃどくろなんて妖怪はいないんだよ。がしゃどくろが生まれたのは昭和時代だからね」

マスターは奏のスマホを一瞥してそう言った。

「昭和に生まれたってどういうこと?」

と栞は訊いた。

「1970年代に書かれた妖怪辞典に紹介されたことで生み出された妖怪だと言われている。すごく歴史が浅いんだよ。鬼太郎や妖怪ウォッチで紹介されてるから歴史のわりにはメジャーだけどね」

「妖怪辞典に載ったことで生まれたって、そんなのフィクションだって初めから言ってるようなものじゃない」

と栞は言った。

「そうとも言い切れないさ。妖怪っていうのは、現象に名前を付けてるだけなんだから。例えば、『塗壁』という妖怪がいるだろう?夜道に人の行く手を阻む壁の妖怪だ。これは裏を返せば、夜道を歩いていると突然壁にぶつかった、という現象を『塗壁』と呼んでいるとも言える。塗壁が存在するのは人が塗壁と呼ぶからで、塗壁という名がなくても現象自体はそこにあったし、呼ばなくなってもそこにある。

『がしゃどくろ』は、でかいガチャガチャ音を鳴らす骸骨のことだ。今名前が付いている妖怪の中で、鈴木くんの話はこれに一番近い。もちろん、がしゃどくろだろうっていうのはおれの仮説だがね。

がしゃどくろの生まれがフィクションだったとして、昨日中央キャンパスにいたのがでかい骸骨であったなら、それは『がしゃどくろ』と呼ぶべき現象だろう?」

「そうかもね」

栞はみたらし団子をかじりながら言った。どうせ何かの見間違いに違いないと思っているからだ。

「じゃあ、確かめに行こうじゃないか」

と上の空の栞にウキウキした声でマスターは言った。

「え?」

「だって、ほら、鈴木くんはがしゃどくろ(仮)を昨日見たんだろう?今日も来るかもしれないじゃないか。だとしたら実際に妖怪を見られるチャンスかもしれない」

「はあ」

「私は賛成です。実際のところ何だったのか気になりますし、時間もちょうどいいですしね」

と奏は言った。

「奏ちゃんって意外とフットワーク軽いのね」

「息抜きです。勉強に飽きてきたんで」

奏はにっこりと笑った。その顔を見て、栞はため息をついた。この子はきっと初めから中央キャンパスに確かめに行くお供が欲しかったんだろう、と栞は思った。


奏と栞は自転車を押しながら、マスターは手ぶらで、吉田南キャンパスから中央キャンパスに向かう。

鈴木くんが昨日がしゃどくろ(仮)を見たのは、法学部教務課と経済学部図書館の間にあるスペースで自転車に乗ろうとした時らしい。栞と奏も同じところに自転車を停めた。

「ここから中央食堂の方を向くと経済学部東棟が見えるんです。あの建物です」

奏は比較的新しい建物を指した。建物の手前の壁は、広い駐輪場に面していて大きく開いている。

「あの駐輪場に面した壁に、人影が映っていたそうです」

奏が示したその壁は、街灯にうすぼんやりと照らされるだけで、とても大きな影があっても気づくようなものには思えなかった。

「そもそも今、あの壁に映るような光原がないような気がする。何の影を見たんだろう」

と栞は言った。

「光原そのものが妖怪の一部だったのかもね」

「光を従えて歩いてるってこと?コンサートじゃあるまいし」

「鬼火じゃないかな。鬼火も人間の怨念が固まったものだ。がしゃどくろと一緒にいてもおかしくないよ」

マスターの提案で、3人は経済学部横の駐輪場に向かった。

「なんかおかしくないですか?深夜とはいえ自転車が1台もないなんて」

と奏は言った。そこは優に100台は止められるような駐輪場なのに、深夜とはいえ自転車が一台もなかった。

「がしゃどくろが自転車を食べたとか?」

「栞ちゃん、面白いこと言うねえ」

3人はぽっかりと空いたスペースの真ん中に進んで行った。テニスコート1面分くらいの何もない空間が広がっていた。

「原因がわからないと自転車がないだけで、気味が悪いですよ」

奏が言ったその時、3人に光が当たり、屋内に居るかのように明るく照らされた。

「すいません、ここ使ってもいいでしょうか?」

と光の方から女の声がした。そして、同時にかしゃかしゃという音が聞こえた。

「おお、これはもしかしてがしゃどくろを従える滝夜叉姫が来たかな」

とマスターがテンションをあげて嬉しそうにしているのを栞は呆れた顔で見た。

「すいません、ここで何をされてるんですか?」

と栞は聞いた。

その質問は届かなかったのか返事はなかった。3人の前にかしゃかしゃ音が近づいて、光原の前に人影が見えた。

もしかして、と思って振り返ると、自分たち3人の影に加えて目の前の人影が、巨人のように経済学部東棟の壁に映っていた。間違いない。きっと鈴木くんが見たのはこれだろう、と栞は思った。

しばらくして目が慣れると、3人の目の前にあったのは、夜の工事現場で見るような撮影機材と、栞や奏と同じくらいの背の高さの人型ロボットだった。

「ロボットを動かしているんです。コンテストに出すので」

と今度は最初に答えたのとは違う男が言った。

よく見るとそこにいたのは、ロボットが1台、人間が5人の6人組であった。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花ですね」と奏は言った。


鈴木くんが昨晩見たというのは、もちろん5人が動かしていたこのロボットであった。人型の荷物運搬ロボットのコンテストに出すために、ここで動作確認をしていたという。

「ここ深夜人もいないし、自転車もちょっと動かせばスペースが空くし、練習にちょうどいいんですよ」

とロボット製作者の1人の女は言った。彼らはロボット研究会らしく、昨日からここでロボットを動かしているらしい。


栞と奏、そしてマスターはしばらくの間、そのロボットが動くのを眺めた。とても人間らいしいとは言えないその動きは、影と音だけ聞けば十分妖怪に思えた。

「正体がわかったらあっけないものね」

と栞は言った。

マスターは拍子抜けしたみたいな顔をして、

「今回は結構期待してたのにな」

と言った。

「どうだか。その方が面白いって思ってただけでしょ」

と栞は言った。

「でもなんだか楽しかったですよ。肝試しと、お散歩の要素を兼ね備えていて」

と奏は言った。彼女は本当に満足そうな顔をしていた。

「ありがとうございました。これで鈴木くんも安心して勉強できますよ」

「また試験が終わったらその鈴木くん連れて遊びにおいでよ。今回はそれなりに面白かったからね」

とマスターは言った。








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