第3話 鬼一口

K大学の地下にはバーがある。

かつては過激派の拠点であったとも噂されるその店内はいつも薄暗く、出所不明なオブジェが飾られておどろおどろしい雰囲気を醸し出す。

さらに今日は、マスターの志向で百物語をするという。マスターは、皿に蝋燭(仏壇に備えるようなやつである)を静かに3本立てた。カウンターに座る3名の男女がそれを見つめている。他の照明を全部切って、真っ暗な中で蝋燭だけがカウンターを照らしている。


カウンターに座る客の一人、一番端に座っている、チェックシャツを着た二十代半ばの男性が語り始めた。


「これは、3年前にあったことなんです。


僕は当時学部の4年生で家で論文の執筆をしていました。もう外はそろそろ朝になろうという時間で、あたりはとても静かでした。僕はPCとデスクライトの明かりだけを頼りにして、ずっと論文を書いていたんです。


その時、僕以外誰もいないはずの部屋から、ガタガタ、という音がして、急にPCの明かりが落ちたんです。一体何だろうと思って、電気をつけてあたりを見ても誰もいない。机に戻ってPCの電源を入れ直そうとしても、一向に光が戻らない。

僕は、恐ろしくなって、朝になるまで布団を被ってがたがたと震えていました。


そして、朝9時をまわったところで、昨晩バックアップをとっていた、USBを持って学校に向かったんです。中央図書館のPCにそのUSBを差し込んだところ、僕は気が付いたんです。


なかったんです。データが。バックアップなんてとれてなかったんですよ。そこにあったのは約1ヶ月前に保存した実験データだけでした。


その日はもう、卒論の提出日締め切り当日でした。僕はあと数時間で書き直すことなどできるころもなく、なすすべなく図書館に立ち尽くして1日を過ごしました。


僕はその年、卒業論文を提出できず、留年しました」


一人目の男性が語り終えると、マスターはふっと1本目の蝋燭を消した。


次にその隣に座っているメガネをかけて黒いタンクトップにタイトなスカートを履いた、二十代後半の女性が語り始めた。


「これは私の知り合いの話なんだけど。彼女は、とても優秀な人でね、D1で学会の発表に行くことになったらしいの。


初めてのことだからと言って、なんども発表の準備をして、なんとか持ち時間を終えたそうよ。そのとき、ふと初老の男性が手をあげるのが見えたそうなの。彼女はその男性をどこかで見たことあるなって思ったそうなのよ。


緊張しながら、彼の言葉を促すと、その人こう言ったの。


「素人質問で恐縮ですが」って。それだけでビビるじゃない。ぜったい本気の質問くるんだって。


彼女は拙いことばでなんとか彼の質問に答えたあと、家に帰って本棚から一冊の本を取り出したそうなの。


女の直感が働いたんでしょうね。なんだか胸騒ぎがする。そう思って、著者紹介の欄を見たんですって。そしたらそこに、いたらしいの。さっき質問してきた初老の男性が。


素人質問と言って質問した男性、彼女がメインで引用していた論文の著者だったのよ」


マスターは2本目の蝋燭を吹き消した。それと同時に、カウンター後方のテーブル席から声があがった。


「ストップ」


声の主はA地下の常連日江井栞である。彼女はいつものように仕事帰りにA地下により、おせじにも美味いとは言えない紅茶を飲んでいるところだったのである。


「佐原さん、佐原さんがPC壊れた上にバックアップ失敗して卒論提出できなくて留年したのもう3年も前のことなんですからいい加減吹っ切れましょうよ。その話するの何回目ですか?


あと、みくるさんのそれも、修論を学会に持って行ったときの実体験ですよね?怖い話っていうか学会あるあるじゃないですか……」


栞はあきれかえっているという風に、佐原とみくるに食ってかかる。佐原は照れたような雰囲気で、ハイボールを一口飲み、みくるはいたずらっぽく笑う。


栞はマスターの方に向き直った。

「マスター、今日百物語やるんじゃなかったんですか?これ確かに怖い話ですけど、怪談じゃないと思うんですよ」


カウンターの中のマスターは、椅子から立ち上がって栞に向き直った。マスターは着流しを着た、20代後半の男である。あやしい風体であり、いつ来てもこの店を開けているあたり暇人なのかとも栞は思っているが、正体は民俗学だか歴史学だかを研究する博士課程の学生だと聞く。真偽のほどは定かではないが。


「いや別にいいいんじゃない?百物語は本来、本気の妖怪や怪異譚だけじゃなくて、不思議話とかでもOKだし。だいたい今日はここの蝋燭3本しかないことからして簡易版だしね。


それに実際、どんな幽霊より卒論提出できない話の方が怖いよ。僕はもう学部は卒業した身だけどヒュってなるよヒュって」

「その気持ちはわかります」

と栞は言った。


「何にせよ、始めたものは最後まで終わらせよう。そうでないと、よくないものが来るからね。最後は君だよ、久世くん」

マスターは、唯一火がついた蝋燭の前に座る男性に語りを促した。久世と呼ばれた男性は、まだ学部生だろう、佐原やみくるよりずっと若く、そして、芸能人かと思うほどに、顔が整っていた。白い無地のTシャツに黒いスキニーズボンというシンプルな服装でありながら、それが非常におしゃれに見えるのは本人のスタイルと顔の良さによるものであろう。


「2年前の夏のことでした」

と久世は語り始めた。

「当時付き合ってないけど、付き合いかけ、みたいな。いい感じになっていた女の子がいたんです。


ある夜、僕は彼女と一緒にイタリア料理屋で飯食った後に二人で家に帰ったんです。

それで、帰ってみたら俺ワイン飲みすぎたらしくて、めちゃくちゃ気持ち悪くなって、トイレにこもって一人で吐いてたんですよ。


しばらくは一緒に帰った女の子も「大丈夫?水持って行こうか?」なんて言いながら、様子見に着てくれたんですけど、気づいたら静かになって、一通り吐いて部屋に戻ってみたら彼女の姿がないんですよ。

変だなって思って部屋を見渡したら、なんか足元が赤いんです。よく見たら靴下も真っ赤に染まっていて、フローリングの床にべったり血がついていたんです。


ちょっと出血したとかそういうレベルじゃないんです。刑事ドラマの殺人現場より多いくらい。スプラッタ映画みたいになってました。


もしかして俺の知らないうちに彼女が襲われたりしたのかと思ったけど、本人はどこにもいないし、靴もないんです。それでめちゃくちゃ彼女い電話かけたんですけど、電波の届かない場所にいますの一点貼りで全然繋がらなくて……。


翌日、共通の友達に聞き回ったんですけど、誰も彼女の行方を知らなくて、それっきりです。それ以来あの子とはあってません。」

久世はそこで息をつき、マスターは最後の蝋燭を吹き消した。


店は完全な暗闇と、静寂に包まれた。

「さすがに3物語だけじゃ、化け物は来ないか」

マスターは電気をつけながら、そう笑った。


佐原と久世が帰った後、みくるはマスターにいかを炙らせて、3合目の日本酒を飲んだ。

「マスター、あの久世くんの話何だったんだろうね?なんで部屋に血だまりがあったんだろう」

とみくるは言った。

「鬼一口だね」

とマスターは言った。

「鬼一口?」

「そう、あの有名な『伊勢物語』の芥川の段に出てくるだろう?

男が長年求婚した女を連れ出して、駆け落ちしようとする。途中夜になり、嵐が来て強い雨と雷まで鳴り出したから男は女を蔵に押し込んで、自分は蔵の前で女を守った。しかし、もともとその蔵には鬼がいて、女は一口で鬼に食われてしまった。男は、せっかく蔵の前で守っていたのに嵐の音で女の悲鳴にも気づかなかった。悲しい話だねえ」

とマスターは言った。

「それって、たしかさらわれた女の兄たちがとりもどしに来たって話じゃなかった?」

とみくるは言った。

「そうだよ。ただ、他にも夜道でいきなり鬼に一口で女が食われる話はあって、それらにそういうオチはついてないね。そもそも昔は人がバタバタと簡単に死ぬからね。急死して行き場のない気持ちを、鬼に食べられたって言って納得していたんだろうよ」

「でも、久世くんの話に戻ると、さすがに21世紀になって鬼ってわけはないでしょうよ。

「ならみくるちゃんはどう説明する?」

「部屋に来た女の子が生理でうとうとしているうちに汚しちゃったから気まずくなって逃げ帰ったとか」

「さすがに経血じゃさっきの話に血液量が足りないんじゃないかな。久世くんが話盛ってたならありえるけど」

「じゃあ、女の子が急遽メンヘラを発動して、手首を切ったせいで血だまりができた。切りすぎて病院に行ったから彼女は部屋からは消えて、しばらく療養のため閉鎖病棟に監禁されたから、大学でも誰も行方を知らなかった」

「それなら話は整合するけど……付き合いかけでいい雰囲気だったんでしょ?直前まで様子もおかしくないし、いきなり手首切ったりするかな」


その時、後ろのテーブル席で栞が何かに気が付いたように、紅茶のカップをテーブルに置き、顔をあげた。

「さっきの人って、経済学部4年の久世智洋ですよね?ジャスパーのともぴー」

「ジャスパーのともぴー?」

とみくるが聞いた。

「ジャスパーっていうのはチャラチャラしたテニサーですよ。ともぴーは、顔がいいし、大手商社に内定したからっていうのでちょっとした有名人で。言っても1学年しか違わないから、顔と名前くらいは知ってたんですよ。


それでいま思い出したんですけど、何年か前にジャスパーの友達が、

「とうとうあのともぴーがセフレにしてた女に懲らしめられたらしい」

って言ってたんです。もしかしてあの血だけ残して消えた話それかもしれない」

「懲らしめられたってどういうこと?」

とみくるは振り返って栞に聞いた。

「うーん、その友達が言うには、ともぴーはサークル内で5股か、それ以上かけてたらしく、しかもそれをそれぞれの女に秘密にしてたらしいんですよ。それがあるときばれたらしく、その5人の女が結託して、何か復讐できないかって計画したみたいです。

でも友達は一体どうやって復讐したのかまでは当事者じゃないから知らなかったんですけど、それがさっきの鬼一口だったんじゃないかなって思っています」

みくるは、ちょっと納得したように頷いた。栞は言葉を続けた。

「こっから先は想像ですけど、その5人のうちの一人か、誰か別の人を仲間に引き込んだかわからないけど、女がともぴーの家に入る時に血糊を持って行って、適当なタイミングでそれを床にぶちまけるっていう嫌がらせをすることにしたんだと思うんです。その直後に、その女含めて5股されていた全員はともぴーとは縁を切ってサークルもやめたから、彼から見たら消息不明になったってことじゃないかって思っています」

「それ、そんなにうまくいくかな。消息不明たって、大学通っていればそのうち会うでしょ」

とみくるは言った。

「だからともぴーもうすうすわかってたんじゃないかなって思います?これはいなくなった女の仕組んだことだって。そうじゃなきゃ血まみれの部屋から人が消えたら、普通警察呼ぶでしょう?」

「確かにそうかも」

みくるはそう言って、あぶりイカをつまんだ。

それを見ながらマスターは自分の酒をついで、飲み始めた。

「二人とも、夏の夜の百物語の戯れに意味を求めて犯人探しをしようなんて、無粋だねえ」

とマスターは笑った。


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