第2話 百鬼夜行

宵山はいつも雨だという気がする。


いやたぶんほんのこの数年だけのことなんだろうけど、夕方に夕立のような強い雨が降って、今年はもう中止かなって思ったら、夜になると嘘みたいに晴れる。そんなイメージが栞にはあった。


今年も例にもれずそんな天気で、午後7時を回った今の時間は星が見えそうなほどに澄み渡った晴れだった。いつもそれを祭を神様が見守っているからそんな風に雨を晴れに変えているのだと、そうだったらいいなと栞は毎年思っている。

宵山は祇園祭の前夜祭というべき祭りで、山鉾巡業して街を回る前に、その山鉾を拝観できる。夜には屋台が立ち並び、多くの人にとってはこっちを練り歩くのが定番だろう。浴衣を来た浮かれた人々が大量に、四条通りを烏丸に向かって歩いて行った。


栞は四条河原町カフェの3階から彼らを眺める。栞もまた今日は浴衣姿であった。紫牡丹の大振りな柄にアップスタイルにセットされた髪の毛は、道ゆく人々の中の誰よりも美しく夜に映える。しかしながら、今日の彼女が行くのは烏丸ではなくその反対、祇園である。

山鉾巡行までのおよそ一週間、祇園のクラブやラウンジでは浴衣で接客するのが通例だ。そのため、彼女もいつもより早く大学を抜けて、着付けをすませてあった。


祭りというのは不思議なものだと思う。そこに漂う雰囲気、音楽や匂いが作り出すものは人と人でないものの境を不明瞭にする。栞はそれを心地よいと思うし、その中に身を投じてトランス状態になることを尊いとも思う。


しかしながら、今の彼女にとっての最重要事項は基礎薬科学論のレポートを書き上げることである。栞は窓からPCに視線を移し、キーボードを打った。


宵山の夜は過ぎ、いつもの仕事を終えて店を出ると、そこには浮かれた雰囲気はもはや微塵もなく、いつもの祇園が広がっていた。

違いはアフターに行く若い女がドレスではなく、浴衣であるっていう程度のことだ。

栞は、せっかく宵山なのだから、と思って今日はまっすぐ帰らず八坂神社に寄り道をすることにした。

八坂神社は祇園祭だからか深夜にも関わらず、祭の提灯が煌々とついている。夜に生える提灯を栞は美しいと思う。こういう光もまた、祭で人をトランス状態に投じる装置なのだろう。

境内に入り、舞殿の近くに来ると、そこに人が座り込んでいるのが見えた。

ああ、ついてないと栞は思った。タチの悪い酔っ払いだろう、関わり合いにならないでさっさと帰ろうと思った。しかし、栞はその酔っ払いの服装に見覚えがあった。白いTシャツに、薄い色のデニムのスキニー。そして、なんだか見たことある顔をしている気がした。

栞は少し近づいて見て納得した。彼はA地下に何回か来ていた常連だ。工学部の学部生で九条と言った。


週に数回栞が必ず立ち寄る店A地下A地下の顔なじみの一人だった。A地下はK大学の講義棟の地下に店を構えるバーである。昼間は講義に使われている建物をおそらく不当に占拠しているのだ。雰囲気はアングラというか怪しいもので、変なアートやら装飾品が所狭しと置かれ、着流し姿のマスターがやる気のない接客とまずい酒を出す。

そこに出入りするのは、主にK大学のくすぶった学生である。その中では、九条は若く、明るく、前向きな人間だと栞は思っていた。

九条からは、会社を作ったのだと言って名刺を渡された記憶がある。フリーの英会話講師と学習者のマッチングサイトを作っていた。それは九条が作った中では一番まともなサービスで、他には写真をアップロードすると豚鼻にしてくれる写真加工アプリとか、なんだか珍妙なサービスを作っているのをマスターが面白がっていた記憶がある。事業の質はともかく、その行動力について栞は九条を好ましく思っていた。


栞は、目の前で寝ている九条の肩を叩いて、揺り起こした。

「ねえ、ちょっと大丈夫?」

すると彼ははっとしたように飛び起きて、栞を見た。

視点の焦点は合ったみたいだが、状況が把握できていないらしい。

「ねえ、あいつらは?あいつらはどこ行った?」

栞は何言ってるんだろう、カツアゲにでも会ったのかなと思いながら、持っていた水を飲ませた。

九条は栞の飲みかけの水を飲み干すと、しばし放心していたが、ふらつきながらも自力で東大路まで歩けるようになった。

そのまま、栞は九条をタクシーに放り込むとA地下まで連れてきた。九条はこの場所がA地下であることは理解してもまだ、状況がつかめていないと行ったような風だった。


マスターは現れた九条と栞の顔を見ると

「あら?栞ちゃん、九条くんと祇園祭デートでも行ってたの?」

と言った。

「そんなわけないでしょう。この子が八坂神社で倒れてたから拾ってきたの。ちょっと休ませてあげてよ」

「いやちょっと、ここ病院じゃないからね」

「大丈夫よ、意識もはっきりしてるし。嘔吐もしてないし。水飲ませて休ませといたら自分で帰るわよ。確か家も丸太町で近いし。ねえ?」

「しょうがないな。飲み過ぎちゃったんだね?とりあえず水でも飲みなよ」

マスターは適当なコップに水道水をなみなみと注いだ。

九条はその水を一気飲みすると、しばらく停止して、何かを考えたあと、おもむろにマスターにこう告げた。

「僕、百鬼夜行に遭ったんです」と。

「は?」

と栞は冷たく言い放ち、マスターは紅茶を淹れる手を止めて、良いおもちゃを見つけたという風な顔で九条を見つめた。

「ほほお。百鬼夜行というのはね、皆が知っている通り鬼や妖怪が大挙して歩く様を言う。中世には百鬼夜行が行われる日というのが決まっていて、貴族なんかは外出を控えたらしい。

いろんな説話集にも出てきて、割と定番の話だったんだろうね。

今昔物語集だとこんなストーリーだ。

ある貴族が、夜中に女のところに出かけようと外に出る。鬼が出るからって家族は反対するんだけど、よっぽど好きモノだったんだろうね。彼はわざわざこっそり出かけるんだ。

二条大路をしばらく歩いたところで、前方に火がいくつか揺らめいているのが見えた。それはどうやら松明のようで、だんだんこちらに近づいて来る。

もしかして危ないんじゃないかと思って近くの寺の門に隠れていると、

だんだん、たくさんの足音と獣のような息遣いが近づいてきた。その集団が通り過ぎた後そっと門から顔を出して様子をうかがうと、なんとそれはこわーい鬼の集団だったってわけだ。あとでわかったことには、その貴族が持ってた仏様グッズのおかげで助かったとかそういうこじつけがついてるんだけど。

鬼が出るから外に出るのは控えようねって教訓と、仏様のありがたさを伝えるエピソードが百鬼夜行なわけだ」

九条はとても信じてもらえないだろうというおどおどした気持ちを隠しきれないように、でもきっぱりと言った。

「あの、きっと嘘だと思ってると思うんですけど、僕本当に妖怪を見たんです。本当に、妖怪とか、鬼とか、絵巻に出てくるみたいなやつらが大挙して四条通りを歩いているのが見えたんです」

「酔っ払って見た夢だったんじゃないの?」

と栞は言う。

「夢でもいいじゃないの」

とマスターは言った。

「もしかしたら本当に百鬼夜行があったのかもしれない。だとしたら面白いよ。中世の貴族のビビりは、実際の何かに基づいていたってわけじゃないかってことさ。まあ、別にここはただの気楽なバーなんだから、何があったか言ってごらんよ」



九条が今日の夜、飲み始めたのは午後9時ごろだったと言う。

「今日起業サークルの先輩に誘われて、木屋町のシェリーに行ったんです」

「シェリー?」

とマスターは訊いた。

「小さいクラブでしょ?踊る方の。クラブイベントとか、たまにパーティーとか、ライブとかやってるところ」

と栞は言った。

「詳しいね、栞ちゃん」

「マスター京都何年いるのよ。有名でしょ」

「そこに今日、有名な個人投資家の人が来るって言うから先輩と一緒に行ったんです」

「九条くん起業したって言ってたもんね?」

「そうです。先日見せた通りサービス作ってて」

「起業サークルに入ってたとは知らなかったな」

「この間第四講義棟の掲示板で見つけて入ったんです。起業家の人を読んで公演してもらったり、アイディアを交換したりする会だって聞きました」

「ほほお。それで実際に投資家の紹介までやってるんだ」

「そうなんです。実際に行ってみたら、すごいきらびやかなパーティーで、起業家の方とか投資家の方が何人かいらっしゃったんですけど、シャンパンはばんばん開くし、綺麗な女の人はたくさんいるし本当にびっくりしちゃって。その中で何人かの投資家の方が、君もがんばったらこうやって成功できるよ、今度相談に乗るからって言ってくれて。僕すごく嬉しくて……」

栞にとっては馴染み深い世界だと思った。シャンパンなんて不味くて飲みたくないと思うけれど、それが珍しいと感じる人もいるのだと栞は思い出した。

「そのあと外に出て、祇園四条駅に向かって歩いて行ったんです。今日は祇園祭だったから木屋町も人がいっぱいで。そこをすり抜けて歩こうとしたんですが、なんだか祭に参加している人たちの中に、狐とか鬼みたいな顔をしている人たちが混じっている気がして。最初は、屋台で売ってるお面かなって思ったんです。でも、明らかに耳が本物だったり、皮膚の質感が違うんです。

それで変だなって思って、ちょっと立ち止まって目をこらすと、首が長かったり、目が多かったりなかったりする人もいて。あれ、おかしいな?飲み過ぎたかなって思って、コンビニで水を買って飲んだんですけど、見え方はかわらない。むしろだんだん人じゃない人の方が多くなってしまって……。

さすがにやばいことになったって思って。怖くなって、走って四条通まで抜けて行ったら、もうそこにいたのは妖怪だけでした。飛んでる魂みたいなのとか、鬼とか、カッパとか、ありとあらゆる妖怪がいて。でも攻撃的な感じじゃぜんぜんなかったんです。祇園祭だったから、コンコンチキチっていうあの音楽がずっと流れていて、道には提灯も付いていて。人型の妖怪はだいたい浴衣姿で、すごく楽しそうにしていました。

でも、もしかしたら僕が人間だってわかったら食べられてしまうかもしれないと思って。

さっき、マスターも説話の話を言っていたけれど、神聖な場所なら妖怪に食べられないと思ったんですよ。それで、走って八坂神社に入って座ってことが終わるのを待ちました。

そして……多分寝ちゃってたんでしょうね。気がついたら、栞さんに起こされていました」

栞は九条の言葉を咀嚼しながら紅茶をすすり、マスターは顎をさすりながら、にやにやと笑った。

「そうか。じゃあまずスタートのパーティーから考えていこう。それは何のパーティーだったのか?名刺、もらったんでしょ?その起業家だか投資家だか言う人たちに」

とマスターは言った。

「それって何か妖怪と関係してるんでしょうか?」

「関係しているかどうかを確かめるんだよ」

九条はポケットから名刺を2枚取り出してカウンターに置いた。

「栞ちゃんどう思う?」

栞は名刺を眺めて、そこに書いてある会社名をGoogle検索した。栞にとっては思った通りの結果が出た。

「ホームページがない。名刺にはコンサルティングとかITサービスって書いてるけど、それでHPがないってあんまり考えられない。存在してるのかもしれないけど、あってもペーパーカンパニーかな」

「それにまだ考えられることがあるでしょ?」

とマスターは言葉を続けた。

「ホームページがなくて、事業内容が存在してない会社は詐欺のために作った反社会勢力の会社である可能性が高い。つまり、九条くんはなんかのカモにされそうになってたってことかな」

九条は信じられないっていう顔をして、栞を見た。

「九条くんの会社の株全部持って行って、無料プログラマーとしてこき使おうとしたとか、その名義使って何か悪いことに使おうとしてたとかそういう感じじゃないかな。わかんないけど」

と栞は言った。

「さすが栞ちゃん、悪事に鼻が効くね」

「お金持ってるのに何やって稼いでるのかよくわかんない人ってだいたい危ないってだけだよ。まあ、いい勉強になったってことで、九条くんはこれからはこの人たちには関わらないでおきなさい」

ナイーブな若い子が騙されるのは仕方ないだろうと栞は思った。そうやって人は学ぶものだ。

「そんな……でも、妖怪は?あれは何だったんですか?あれも悪い人に仕組まれたっていうんですか?」

九条はショックを隠せないいう風に言った。

「これはまあ、夢のない方の仮説だけど、幻覚剤を飲んじゃったんだろうね」

とマスターは言った。

「幻覚剤を飲んだ人間の症状は様々だけど、南米のシャーマンが使っている幻覚剤アヤワスカで神秘体験をした人の話はその辺に転がってるし本も出てるよ。今回九条くんが飲んだのは、LSDか何かかな。わざと飲ませたのか、事故でそのへんにあったのを飲んじゃったのか。飲ませるメリットを感じないから後者な気がするけど。幻覚剤で人の顔が妖怪に見えたというのがまあ、ありそうな話」

でもさ、とマスターは言葉を続けた。

「こっちが夢のある方の仮説だけど、今日は宵山だろう?祭っていうのは本来人と人ならぬものが、混じり合うイベントなんだ。祇園祭の客の中に、あやかしが混じって楽しんでいたならそれは結構なことだ。妖怪も祭を楽しみに来たんだって、そう思うことにしようよ。その方が楽しいじゃない」

栞もその方がいいなと思った。人と人ならぬものが混じり合うその瞬間はたとえフィクションであっても尊い気がした。

「ところでさ、実際に百鬼夜行に行きあったっていう仮説が正しかったとしてさ、いまここに九条くんが無事でいるってことはあれだろう?何か霊験あらたかなお札か何かを持っていたんだろう?」

とマスターは言った。

「え?僕お守りとかお札とか全然持ってないですけど」

「そうかな、ちょっと財布貸しなよ」

とマスターはその財布からA地下のフライヤー出して、九条くんに見せた。

「これだよ。この店が今夜九条くんを守ったんだ」

マスターが財布から出したその動作は、どう見ても下手なマジシャンのそれで、まったくもってばかばかしいと思って、栞はため息をついた。

「九条くん、君はこういうバカに騙されない人間になりなさいね」

九条は笑っていいのかどうかわからないといった表情でうなずいた。



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