京都市左京区K大学怪異奇譚

大崎忍

第1話 あくがる

京都市左京区にあるK大学のほぼ中央、吉田南キャンパス第四講義棟にその店はあった。それを知るものからはA地下とか、地下バーなんて呼ばれ方をする。

なぜならばその店は物理的に講義棟の地下にあったからだ。


昔は、地下を学生団体が活動拠点にしていたり、一時期は逆に真面目な勉学サークルの自習室となっていた時期もあったそうだが、誰がどう占拠したものか、今は薄暗いバーとなっている。客は学生や、近所の怪しいおじさんや、その他諸々。バーにふさわしくない日本人形や美大生が作ったとかいう謎のオブジェ、どこかのサークルの立て看板なんてものが店をおどろおどろしく見せる。


日江井栞は講義棟の階段を迷いなく下りてカウンターに座った。

彼女は少なくとも大学にはふさわしくない服装をしていた。

胸元の大きく空いたミニスカートのワンピースに、髪の毛は夜会巻き。耳には大振りのイヤリングが光っている。20代前半であろうが、濃い化粧は彼女を老けて見せた。

「マスター、紅茶」

栞は迷いなく注文をする。

「あいよ。たまには酒を注文してもいいんだよ」

と言いながらマスターはやかんをコンロにかけた。マスターは20代後半の男だろうか。伸びた髪に和服を流して着ている。ある意味で、K大学らしいが、学生かどうかは微妙な年頃だ。

「いやよ。お金ももらえないのに酒なんか飲みたくない」

「じゃあ毎日毎日どうしてこうやってここに来るのかね?こっちは紅茶1杯でも貴重な売上だが」

「自分が学生であることを思い出すため」

「A地下で学生らしさが確認できるんなら世話ないや」

マスターはコンビニで買える安いTバックを隠しもせずに紅茶を淹れて栞に渡す。

彼女はそれを一口飲んで、カバンから紙束を取り出して読み始めた。栞は薬学研究科の修士課程に所属している。昼間は真面目な学生であり、夜は週に数回祇園のクラブで働くことで生活費を稼いでいる。

マスターは栞を黙って見つめながら、自分は自分でカウンターに置いていた本を読み始めた。

「何読んでるの?」

栞がマスターに聞いた。

「源氏物語」

「相変わらず好きね」

「人生のあらゆるエッセンスが詰まっているんだよ。よかったら僕が今からクラブの営業に使える和歌の書き方についてレクチャーしてあげようか?」

「うーん、遠慮しとく。古典の知識も漢文の素養もだいたいの客にはなさそうだし」

「そうか、それは残念だ。じゃあ、江戸時代の遊女の書簡のやりとりを参考にするのは?たしか論文にまとまっていたと思うけれど」

マスターはそう言ってスマートフォンを検索しようとする。

「cinii見なくて大丈夫だから。マスターが切り落とした指の模造品とか作ってくれるなら冗談として客に見せなくもないけど」

「それはいいね。やってみるよ」

栞は、マスターなら本当にやりそうだなと思った。彼の専門は日本の中世の風俗で、こう見えて博士課程の学生らしい、と噂で聞いた。ほんとかどうかは知らないけど。マスターは、凝り性だから時代として専門じゃないにしても材料を調べて本物らしく作ってくれた上に、本物の書簡の写しまでくれそうだ。


その時、栞の後ろのテーブル席から声がした。

「もしかして、さくらのしおりさんですか?」

栞が後ろを振り返ると学部生と思われる女の子の二人組がいた。さくらというのは栞が勤めている祇園のクラブの名前だ。ということはその女の子はさくらで働いていたんだろうか。ただ、見覚えはなかった。

「栞ちゃん有名人なんだ」

とマスターが茶化すように言った。

「週3しか入ってないバイトがそんな有名になってたまるもんですか」

と栞が反論すると声をかけた子が、

「私派遣でさくらに行ったことがあって、そこで栞さん何卓もかぶっていろんなテーブルいったり来たりしてたから人気なんだなって。それで覚えてました」

と言った。するとマスターがまたにやにやとした。

「へえ、しおりちゃん人気なんだ」

「たまたまよ」

と栞は言った。祇園は学生が多いせいか派遣のホステスも多い。混んだ日は正キャストは忙しく動き回らないといけないから、そのせいで売れてるように見えたんだろう。

「私、早希と言います。あの、もしよかったらお二人に聞いてほしい話があるんですけど」

早希は二人の顔色を伺うようにして言った。

「ほお、何かお悩み事?」

「私じゃなくて、こっちの、奏が悩んでるんです」

彼女は後ろを振り返った。テーブルの奥のソファに座っていた早希の友達は、栞が驚くほどの美人だった。これならどこのクラブも時給を積み上げて雇いたがるだろう。いや、K大生ならそんなことしないでアナウンサーでも目指したほうがいいかもしれない。今のままでもテレビに出られるんじゃないか。そう思わせるような、正統派の美人だった。

「いいよ。聞いてあげても」

マスターは源氏物語の本を閉じた。


奏の悩みは、至極単純なものだった。

「最近誰かに見られているような気がするんです」

彼女は長い睫毛で切なげに影を作りながらそう言った。

一人暮らしの家に帰る途中も、学食で友達とご飯を食べている時も、ふと誰かの視線を感じることがあるらしい。

「ファンとか?家にまでつけてくるならストーカーかな」

と栞は言った。

「そうかな、と思ったんですけど家の中にいる時もなんとなく視線を感じて……」

「ほお、それは大変だ」

マスターは真面目に聞いているんだかいないんだかといった反応をする。

「それで、家の中ひっくり返してみたり盗聴センサー買ってきたりして調べたんですけど、何もなくて。昼間もカーテン閉めっぱなしにしてるから気のせいかなって思うんですけど。ふとした瞬間に何かに見られているような気がしてならないんです」

「警察に言って見たほうがいいんじゃない?」

と栞は言った。

「警察案件じゃないだろう。事件がなければ動いてはくれないさ。それに、これはもしかしたら物の怪の類かもしれない」

マスターは言った。

「冗談やめてよばかばかしい」

「いやいや、夜道で目に見えないものの存在を感じる、なんていうのは昔からあったことさ。そして人はそれを物の怪と呼んだ。鬼と呼ぶこともあるね。鬼の場合もあるし、神様の場合もある、場合によってはお化けと解釈する場合もあるね。

とにかく、正体のわからない何かに脅かされる時、それを物の怪と解釈するのがだいたいの場合は一般的なんだよ。そしてそういう時、我々の対処方としてどうすればいいと思う?奏ちゃん」

にやにやするマスターに奏は戸惑ったように答えた。

「お祓いとか?」

「確かにそういうことは脈々と受け継がれるようにやってきた。経を唱えるとかね。昔は病気にも対処法がなかったから、祓うという行為がなされる対象はいまよりずっと広かったけれど。でも、奏ちゃん。祓うにしても、対象に合った方法でないといけないと僕は思うんだよ」

「マスター、もったいぶってるけど何が言いたいのよ」

栞がうながす。

「つまり、まずは正体を明らかにしようって言いたいのさ」

「マスターが調査してくれるの?」

呆れたように栞が言った。

「いいや。もっと簡単に行こう。昨日僕が読んだ本にね、いい方法があったんだよ。栞ちゃん香水持ってない?」

「持ってるけど」

「じゃあちょっとそれを貸してくれないか」

栞は鞄の中からシャネルNo.5を出した。仕事にいく栞は前髪の毛をセットしながら化粧をする。その際に使うアイテムの一つだった。

マスターはカウンターの上に皿を置いて、その上にさらにティッシュを置いた。そのティッシュにシャネルをふりかける。

「ちょっと私のなんだから無駄遣いしないでよね」

マスターは栞を無視して奏での方を向いた。

「これでよし。よし、奏ちゃん、じゃあ最近感じる視線についてこのティッシュに向かって集中して考えてみて」

「は……はい」

「私のシャネル必要だった?」

「栞ちゃんは黙って」

奏は目をつぶってじっと考えている。

「よし、いいよ」

しばらくするとマスターは言って、ティッシュにライターで火をつけた。

ぼっと一瞬火が上がって、ティッシュは小さな燃えかすになった。

「危なっ。ここ火災報知器とかないの?反応したらどうするのよ」

「先人の知恵でそういうのは反応しないんだよ。でないといろんなことできないでしょ。

さて、奏ちゃん。もう大丈夫だよ。次にその物の怪に会った時、その相手からシャネルの5番の匂いがするから。すぐにわかるよ」

奏は半信半疑といった風にうなづいた。

「信じてないってよ」

と栞が言った。

「正体のわからないものに対しては得体のしれない方法が効くんだよ。まあ、数日待ってみなって」

マスターはそう言って笑った。


3日後、月曜日だというのに団体が来たと言って栞はママに呼び出された。馴染みの客だったのでその卓にしかつかないからと強く電話で言って研究室を飛び出し、家に帰って慌ただしくドレスに着替え、化粧道具を鞄に放り込んだ。

タクシーを降りてセットサロンに向かう途中、四条通りで派遣の事務所に向かうのであろう早希が向かいから歩いてきた。

「早希ちゃん」

と栞が話しかけると早希は笑って、「栞さん!」と大きな声で言った。

「私、今日これからさくらなんですよ」

早希は嬉しそうに言った。

「今日団体らしいからね。早希ちゃんもその席かな」

その時栞は、ふとあることに気が付いた。

「早希ちゃんもシャネル使ってるの?」

栞はなんの含みもなくそう聞いた。自分が今はつけていないが、馴染みの香りとおなじだった。

早希の反応は栞が思っていたものではなかった。青ざめて言葉を失っていた。


「それで、早希ちゃんを連れてきたってわけだ」

マスターは今日も退屈そうに本を読んでいた。

「早希ちゃんは、自分でつけた記憶がないのにシャネルの香水の匂いが自分からしたらしいの。もしかしてマスターの呪術のせいなんじゃないかって心配してた。私は、どっかの他人の匂いがうつったんじゃないの?って何度も言ったんだけど」

「確かに。早希ちゃんからはあの香水の匂いがするね。逆に今日の栞ちゃんからは制汗剤の匂いしかしないけど」

「うるさいわね。今日は急いでて忘れたの」

「ふむ。僕の呪術のせいということは奏ちゃんに付きまとっていた物の怪は早希ちゃんだったってことか」

「そうと決まったわけじゃないでしょ」

と栞は言った。

「私、奏の家に付いて行ったり、盗聴器しかけたり、そういうことはしてません」

早希は自分を説得するかのようにはっきりと言った。

「無意識ってやつじゃないの?」

とマスターは言った。

「六条御息所は記憶がないのに自分の髪や衣服から芥子の匂いがすることで自分が悪霊になっていたことに気がついた。それと一緒なんじゃない?」

「生霊として奏につきまとっていたってことですか?」

「まあ、思いが強いと飛んでいくっていうのは現代的というより平安時代的な考え方だけれど、一般的ではある。魂が抜けることをあくがると言って、これはあこがれると同じ意味だ。早希ちゃんも六条御息所みたいに奏ちゃんの彼氏に横恋慕していたとか」

そこでマスターは言葉を切った。

「いや、違うな。奏ちゃんに彼氏なんかいない。彼氏がいるなら、夜中にこんな怪しい店に女の子二人で来たりする前に、彼氏に守ってもらおうとするだろう。ということは、早希ちゃんは奏ちゃんのことが好きなんだな」

早希は呆然としたようにマスターを見た。

「私が奏が好き過ぎて、生き霊になっていたってことですか?」

「別に恋をするのは悪いことじゃない。思いが募り過ぎて、生き霊になってしまうのも珍しくはあるが悪いことじゃない。でも、多分この恋は分が悪いね。奏ちゃんにその気はなさそうだし、しばらく奏ちゃんから離れておちついて見るのがいいんじゃないかな」

早希は何も言わなかった。信じていいものか、今の自分が受け入れていいものか悩んでいるようだった。

「ちょっと帰って考えてみます」

と早希は言った。消沈している早希を見て、栞は「送って行こうか」と声をかけたが、

「大丈夫です。一人で帰れます」

と言って階段を走って出て行った。

足音を聞きながら、

「がちで呪術が聞いたとか思ってないよね?」

と栞はマスターに聞いた。

「当たり前じゃないか。シャネルの香水は奏ちゃんが早希ちゃんに振りかけたんだよ」

とマスターは言った。

「僕が思いつきで始めたティッシュの儀式中にでも考えついたんだろう。たぶん早希ちゃんは自分を見てる視線が誰のものかってことはもともと気づいてたんだよ。そりゃ、家の中で視線を感じるって思うくらいナーバスになった時もあったみたいだけど、ここに来る前は絶対わかってたね。ストーカーに追われてるかもしれないって時に夜中に女子二人で暗い講義棟の中に入りたいと思うかい?

わざわざ物の怪とか幽霊とかの歴史を趣味で調べている僕のところにやってきてたのは、何かしらの呪術的儀式をさせるためだった。わざわざ家の中で盗聴器もカメラもないのに視線を感じるとかそういう点を強調したのはそういうわけだ。それで僕はそれにのっかってあげたわけ」

「まるで全部わかってましたって感じの言い方ね」

栞は紅茶を飲みながら、冷たく言い放った。

「わかってたさ。よくある話だもの、ねえ奏ちゃん?」

栞が後ろを振り返るとドアの前に奏が立っていた。

「夜更かしだね。奏ちゃんは」

とマスターは言った。

「夕方に香水の話を早希がLINEで送って来たからそろそろかなって思って自習室で待ってたんです」

奏は静かに言った。

「僕や栞ちゃんを使うなんて、奏ちゃんは困った子だね」

「超常現象とかにも詳しくて相談に乗ってくれるひとがA地下に居るらしいから言ってみようって早希が言うからついてきただけだったんですよ。あまりに熱心だから断りづらくて。私あんまり友達がいないから早希がいてくれて嬉しかったんだけど、最近、あ、早希も私のこと友達だと思ってないんだって思ったら……。私と早希は法学部の3年でゼミも一緒なんです。これからロースクールを受験して、あと何年も顔を付き合わせていかないといけない。他に仲のいい友達もいないから、なるべく穏便に終わらせてたくて」

栞は、感傷的な表情をした奏は絵になると思った。長い髪も白い肌も整った顔もあって、何がそんなに不満なのかと思った。

「別に友達なんていなくても死なないでしょ」

と栞は言った。

「その顔とずる賢さがあれば生きていけるよ。ま、とりあえず座れば。ここ大したものないし紅茶もまずいけど1杯くらいはおごるよ」

「まずいとは心外だな」

「いや本当でしょ。あと私わかってるから。マスターは別に奏ちゃんを助けてあげようとか、早希ちゃんの思いを断ち切ってあげようとか思ってたわけじゃないんだよ。単にちょっと面白そうだと思っただけでしょ?」

「ばれたか」

マスターはふふっと笑って、また本を開いて読み始めた。



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