遺言~嫄子の章

みや

遺言~嫄子の章

養父上ちちうえ。私はもう――長くないと思います」

 中宮ちゅうぐう嫄子げんしは苦しい息の元、言った。

 実際起き上がることさえできず、御帳台みちょうだいの中で横たわっている姿は、もうすぐ息絶えてもおかしくないように見えた。

「――中宮、そんなことを軽々しく話すでない」

 嫄子の養父である頼通よりみちは目に涙すら浮かべて言った。

(この人は、ずっと私を可愛がってくれた。きっと、実の娘以上に……)

 数年前実の娘が産まれる前からも、それからも、ずっと。

(最後に、それを利用する私を許してください――)

 嫄子は、そっと心の中で養父に手を合わせた。


   ☆


 嫄子は、父・敦康親王あつやすしんのうと三歳の時に死に別れた。

 実母が病弱であったため、実母の同母姉である隆姫たかひめ、そしてその婿である頼通の二人に育てられた。

 頼通は、摂政関白を務める、朝堂第一の人である。

 何不自由ない生活をしながら、彼女はいつも、父のことを考えていた。

 敦康親王が、天皇の第一皇子――しかも皇后こうごう所生の第一皇子――でありながら、後見の弱さで東宮にも天皇にもなることができず、若くして亡くなった、という事実を知ったのは、嫄子が幼い時だった。

 そして、その環境に追いやったのが、頼通の父・藤原道長ふじわらのみちながであることも。

 それから、嫄子は、ずっとずっと、道長や摂関家を憎んできた。

 その摂関家に養われている自分にも、憤りを感じながら。


   ☆


「あなたは細い肩に、なにもかも背負おうとしているね」

 時の天皇に入内し、女皇子を産み内裏に戻った時、泣いて詫びた彼女に、夫である天皇は言った。

「その涙は、関白のために?」

 天皇――主上しゅじょうは痛ましげに言う。

 人払いをして、二人きりの弘徽殿こきでんの一室で。

「私は――亡き父のために、皇子を産みたかったのです」

 涙をこぼしながら言う嫄子に、驚いたように主上は目を見開く。

「――兄上のため?」

 主上にとって、敦康親王は異母兄にあたる。

「私が、皇子を産むことで――亡き父の血筋が、母系どいえども天皇になる――可能性がある、と思って……」

 それだけで主上は、彼女の言いたいことがわかったのだろう。

 主上は嫄子に近付き、彼女の髪をそっと撫でる。

「……あなたは、養父・関白のためではなく、実の父のために男皇子を産もうと思ったのか」

 そう主上はため息をつくように言う。そして、続けた。

「あなたのその思いを、兄上は、とても喜んでいると思うよ。……兄上は優しいお方だったから」

「え?」

 嫄子は涙に濡れた目を上げる。彼女を見つめる彼の優しい目と目がが合った。

「中宮、あなたが望むなら、兄上の話を……私の覚えている限りするから……だから、少しは肩の力を抜いたらいい」

 それから、主上は、嫄子に、異母兄・敦康親王のことを語った。

 ――とても優しく、風雅な人物であったこと。

 ――相婿の頼通とは特に仲が良かったこと。

 ――義理の母にもあたる主上の母である彰子しょうしを慕っていたこと。

 嫄子にとって、知っている話もあるが、知らない話もあった。

「兄上は、実の娘が自分のために子を産むことを喜んではいるだろうけど、それで苦しむことは望んではいないだろう」

 と、主上は言い切った。

 嫄子の涙はいつの間にか乾いていた。


   ☆


(思えば不思議で――)

 嫄子は思う。

 子を一人なした仲でありながら、嫄子はそのときまで主上を『主上』としか見ていなかったのだ。

 肩の力を抜くように言ってくれ、実父の話を熱心にしてくれた彼を、初めて『夫』として見ることができたのかもしれない。

 『夫』は、関白の養女である彼女に気を使いつつ、愛してくれているのがわかった。

 でも、その一方で思うのだ。

(――主上は、皇后さまをも、愛しているのだ)

 と。

 嫄子の前に入内し、今は彼女の権勢に押され、里邸に下がっている皇后・禎子ていし内親王を。

 それは、嫄子――ひいては頼通――に隠れるように、皇后に文を頻繁に送っていることからもわかる。


(私が死んだら、内大臣・教通のりみちどのの娘である生子せいしどのが入内されるだろう)

 嫄子は弱弱しく微笑んだ。皮肉気な笑みを。

(私が死んだら空位になる、中宮の座に、彼女か、ほかの女性をつけようとするに違いない)

 中宮は皇后と同意で、天皇の第一位のきさきの位である。

(でも、主上。――ほかの女性を愛しても、私の第一位のきさきの位は……私だけのものにしてください)

 彼女はそう思う。

 子を産んで――産んだ子はまた皇女であった失意からか、体の調子がすぐれない嫄子は、御帳台に横になりながら、そのことばかりを考えていた。

 そして、たどり着いた答えは――。


「養父上。お願いです――」

 嫄子は苦しい息の元、頼通に語り掛ける。

「内大臣の娘御や、他の誰も、中宮位につけないでください」

 と。


 嫄子は苦しい息の元、一気に言った。

「――中宮位についた女性が皇子を産めば、父上の権勢に傷がつくやもしれませぬ。私はそれが心配で――」

 そういった途端咳き込んだ嫄子を、頼通は慌てたように制した。

「中宮、いや嫄子。そんなに私のことを心配してくれて……」

 頼通はますます目に涙を浮かべた。

「お願いいたします」

 弱弱しいがどこか熱のこもった嫄子の言葉に、頼通は力強く頷いた。

「もちろんだ。誓おう。嫄子、そなた以外、主上の中宮にはさせぬ」

 その言葉に嫄子は微笑む。

(――ごめんなさい養父上)

 自分の言ったことは事実だけれど、それが目的ではない嫄子は、頼通に心の中で詫びた。


   ☆


 嫄子は、子を産んだ九日後、崩御した。

 主上には、その後、二人の女性が入内したが、関白・頼通の妨害により、中宮となる事はなかった。

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遺言~嫄子の章 みや @moromiya06

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