第四章 彼女は、吸血鬼に恋をした

彼女は、吸血鬼に恋をした 1

 朝、着替えている最中、鏡に映る自身の首が目に入った。


 噛んだ痕は残っていなかった。そういえば、と、亨子は彼の言葉を思い出す。


『傷痕を残さないのが、貴族の流儀ですから』


 自信たっぷりに笑った顔。情けないのか、弱気なのか、格好良いのか、可愛いのか。よく分からない、不思議な吸血鬼だった。


 小春日和にいるような笑顔が思い浮かぶ。柔らかな声音が記憶に染み付いている。


「やめろよな。あいつはさ、いないんだから」


 亨子は呟いて、鏡から目を逸らした。出勤のため作業着を整え、床へ放ったブルゾンを拾い上げる。


 そこで、違和感に気づいた。


「あれ、本がない」


 昨夜、ブルゾンのポケットへ突っ込んだはずの本がなくなっていた。たぶん、どこかで落としてしまったのだろう。


 あれはオズレノのことを知りたくて読み始めた本だ。亨子とオズレノも同じ結末となってしまったのは、人と吸血鬼である以上、変えようのない筋書きだったのかもしれない。


 あの本が彼と共に消えたのなら、仕方ないのだろう。本は戻ってこない。彼のように。


 亨子は肺に溜まる重い空気を吐いて、ブルゾンを着込み、他に誰もいない部屋を後にした。


 オズレノがいなくなったって、どうにもならない。ただ、日常を生きるだけだ。


 大好物の『焼き肉パン』を食べよう。魚と野菜なんて、二度と食すものか。美容用品も捨ててしまおう。彼がいないのだ、誰に咎められるという。


 そうだ、咎めてくれる彼は、いなくなってしまったのだ。


「亨子さん!」


 虎吉の焦った声で現実へ引き戻される。彼が直上を指すのに、ヘルメットをずらして視線を向ける。


 クレーン車で吊り上げていた建材が落ちてきていた。亨子へ向かって、押し潰そうとして。


 間に合わないと悟った。このまま、死ぬのだと思った。亨子の身体からだは硬直して動けなくなる。


「亨子さん!」


 今度は別の声で呼ばれた。振り向く間もなく抱えられて、浮く。


 スローモーションの視界で、幾つもの建材が落ちていった。亨子は、それを遠ざかりながら見ていた。温かい何かに包まれて。


 建材が地面と衝突し、轟音が鳴り響く。土埃が舞って辺りを埋め尽くし、視界を不明瞭にさせる。


 それでも、抱えてくれているのが誰かは、はっきりと見えていた。


「亨子さん! 怪我は!?」


 オズレノが泣きそうな表情で、亨子の上半身を抱き起こしている腕を揺らす。ヘルメットを剥ぎ取って、至る所を確認する。


「な、んで……?」


「痛いところ、ありますか! ないですか!」


 彼は焦燥で表情を歪めた。亨子は呆然としたまま、首を横へ振る。


「痛いとこは、ない」


「よかったぁ」


 オズレノは亨子を抱きすくめた。彼の体温にほっとして、現状の認識が身体中へ浸透していく。


 亨子は両手でオズレノの肩を掴んで、自身から剥がした。


「なんで! ここにいるんだよ!」


 亨子は怒鳴った。身を裂く想いで別離を選択したというのに、なぜ、この吸血鬼はそばにいるのだ。


 オズレノは目をしばたたかせた。亨子の心情をすぐに理解したらしい彼は、ねたように唇を尖らせる。


「ボク、亨子さんに嫌われたと思って、すごい落ち込んだんですよ。公園で、ひとしきり落ち込んで、でも諦められないからって立ち上がったら、本が落ちてるじゃないですか。亨子さん、これ、読んだんですね」


 オズレノがマントの内から取り出したのは、なくしたと思っていた本。あ、と、亨子は指さす。


「いいですか。これ、ほとんどデマですからね。ボクたちは相手の血を吸い尽くすまで執着しません。人を愛せないこともないし、罪を背負うこともありません。幸せにする自信だって、あります。まあ、一人だけを決めるのは本当ですけど」


 オズレノの指が、そっと、亨子の頬をでた。熱誠ねっせいもった茶色の瞳が、強く、清らかに見据みすえてくる。


「ボクが飲みたいのは、亨子さんの血だけです。あなた以外は欲しいと思いません。ボクが好きなのは、亨子さんだけだから」


 オズレノは微笑んだ。照れたように、幸せそうに。


 虎吉たちの声が響く。土埃は舞い続け、二人の姿を隠している。


 オズレノが声の方へ顔を向けた。


「ああ、亨子さんを探していますね。無事だって」


 形良い唇が、言葉を最後まで紡ぐことはなかった。


 亨子が襟元を掴み、強引に引き寄せ、その唇を塞いだのだから。


「離れたくない。ずっと傍にいたい」


 驚きで無表情になる彼へ、震える声音で伝える。


 オズレノは、ふっ、と口元を緩めた。


「ボクも、ずっと、いたいです。あなたの傍に」


 心優しい吸血鬼の唇が降りてきて、亨子のを塞いだ。深く、より深く。


 二人の結末には、きっと、ハッピーエンドの方が似合う。

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