彼女は、未来を選んだ 2

 小さな公園のベンチで、亨子は星空を見上げていた。時折、白い吐息が舞い上がって視界を曇らせる。


 冬は空気が透き通り、その分、星が綺麗だ。彼らの名前は知らないが、その輝きは充分に心を癒やしてくれる。


「好き、か」


 亨子の呟きと共に、息が白くなって浮き上がる。


 朝は彼の顔を見るのが当たり前になっているし、昼は弁当が楽しみで、夜になって彼の待つ部屋へ帰ると安堵した。


 おはようも、おやすみも、いってきますも、ただいまも、いただきますも、ごちそうさまも、彼と向かい合って言った。


 晩夏に出会い、秋を過ごし、いつの間にか冬になってしまった。想いを交わすだけの時間が流れてしまったのだ。


 亨子は星を見上げながら、ベンチに放られた本を触る。結末が気になって、つい最終巻を買ってしまったのだ。


 本の二人は結ばれなかった。苦しむ互いを見て、それでも愛して、最後は幸福を願い別離の道を選んだ。


 オズレノが亨子のことを好きなら。いいや、好きでなくとも、情が移る前に離れるべきなのだ。


 人間と吸血鬼は幸せになれない。


「亨子さん」


 星空の前に、ふんわりパーマの銀髪が現れた。上から覗き込んで、彼は優しく微笑む。


 亨子の心臓が、ことり、音を立てた。


「帰らないんですか?」


 純真な瞳で問いかけるのに、どう答えていいか分からず、亨子は腰を丸めて前へと顔を向けることで逃れる。視界の景色が、星空から平凡な公園へ変わる。


「もう少し、風に当たろうと思って」


 言いながら、放っていた本をブルゾンのポケットへ突っ込んだ。穏やかな表情をする彼には、なんとなく、本の結末を知られたくなかった。


「じゃあ、ボクも」


 オズレノは明るく笑って、亨子の隣へ腰を下ろす。彼の楽しげな視線が向けられる。


 自然と見つめ合ってしまって。胸の奥が、むずむずとした。


「いいよ、寒いだろ」


「ダメです。帰るなら、亨子さんも一緒です」


 オズレノの手が、亨子の手へ被さった。その途端、彼の眉間にシワが寄る。


「こんなに冷たくなって。風邪、ひいちゃいますよ」


 温かな手が覆って、丁寧に包み込んで。オズレノは憂慮ゆうりょの瞳を隠さず、投げかけてくる。


 指が絡め取られて、更に握り込まれる。彼の瞳に切なさが混じり、それが痛切に伝わってくる。


 胸の奥が、苦しくって仕方ない。


 彼と暮らす日々に、いつしか落ち着いていた。生まれてから、ずっと、共に過ごしていたような安心感があった。心地良かった。


 笑顔を見るのが嬉しかった。声を聞くのが楽しかった。落ち込むのを見ていると悲しくて、怒っていると心苦しかった。


 そばにいるのが幸せだった。


「オズ、私の血を飲めよ」


 静かに言う亨子を、オズレノは見開いた目で捉える。


「いいんですか? あの日から、一度も許してくれなかったのに」


「おまえが『不味い』とか言うからだろ。でも、あれから魚やら野菜やら食べてきてんだ、そろそろ、いいだろ」


 亨子はブルゾンの前を開け、作業着を緩め、首元を見せる。オズレノが唾を飲み込むのが分かった。


 彼の片腕が伸びて亨子を抱き寄せる。露わになった首へ指が添い、白い吐息がかかる。あまりの熱さに戸惑いながらも、胸中が締めつけられる。


 オズレノの唇が肌へ当たった。優しく口づけるように触れられ、不可思議な引力で脱力しかけて、彼の服を懸命に掴むことで耐える。


 針が刺すような痛み。それは、あのときと同じものだったが、今は彼の唇がすぐに離れることなく触れている。


 抱き締める腕の力が強くなる。まるで、亨子を心底から求めているようで、切ない心持ちになる。


 彼に全てをやれたら、よかったのだろうか。そう、思考の片隅で考えてしまった。


 オズレノが、ゆっくりと顔を上げる。吸血行為によるものだろう、紅くなった瞳が亨子を見つめていた。星空を背景にしたそれは、心を奪われる美貌だった。


「美味しかったです、とても」


 オズレノは妖艶に笑む。


 ああ、やはり彼は吸血鬼なのだ。人の血を飲んで、こんなに美しく笑えるのだから。


「これで、おまえは立派な吸血鬼だ。家族のとこ、早く帰ってやんな」


 亨子は言うなり立ち上がって、オズレノに背を向ける。急いで服を直す。


「亨子さん!」


「私の血は、やっただろ。充分、協力したよ。これ以上は、もう……できることは、ねぇよ」


 突き放して言って、彼へ振り返ることなく足を踏み出す。


 このまま傍にいたら、帰してやれなくなる。人間と吸血鬼が共にいて、幸せになれるはずがない。引き返せる今のうちに離れた方がいい。


 亨子は、家路を早足で進んだ。誰が待つでもない場所へ、独りきりで向かっていた。

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