仔狸の恩返し

彩瀬あいり

仔狸の恩返し

 山には、人間に化ける動物が住んでいるといわれています。

 その昔、山菜を取りに入った若者が、こまっていた娘を助けて家に連れ帰ったところ、それは人間に化けたたぬきだったのです。

 物置小屋に積んであった食べ物を、すべて持っていかれてしまったものですから、ときおり山狩りがおこなわれるようになってしまいました。

 鉄砲を抱えた猟師が罠をしかけ、捕まってしまう狸もたくさんいます。

 山深くにこっそりと住まう狸の里では、仔狸たちに言い聞かせるのです。


 いいかい、おまえたち。

 人間は、我々狸たちを捕まえて、あげくのはてに食べてしまう、おそろしいヤツらなのだ。


 けれど、化かすこともまた、彼らのさがです。

 いかにうまく化け、溶けこむか。

 それが、矜持きょうじというものでしょう。


 化かし合いという名の攻防は、いまもずっと長くつづいているのです。



    *



 晴れた日のことでした。

 いっぴきの仔狸が、里を出て、山のなかを歩いておりました。

 あまり遠くへ行ったことのなかった仔狸は、ふんふんと鼻をならし、嗅いだことのない香りを楽しみながら、先へ先へと進んでいきました。

 小石を踏み、やわらかな地面にあしあとを残しながら、どんどん進みます。

 そうして草原を歩いていたときのことです。

 いきなり足をとられて、歩けなくなってしまいました。

 どうしたことでしょう。

 もがけばもがくほど縄がからまって、動けなくなってしまうのです。


 ちいさな仔狸が罠にかかって、パタパタともがいていたところ、草むらをかきわけて、だれかがやってくることがわかりました。

 里の長老さまによると、人間は我々を「狸汁」にして食べてしまうといいます。


 ――どうしよう、ぼくはきっと食べられてしまうんだ。



 煮てさ 焼いてさ 喰ってさ


 父さん狸と村へ近づいたとき耳にした、人間の子どもたちの楽し気な声を思い出して、仔狸は泣きたくなりました。

 じっさいに、キュウキュウと声をあげて泣いてしまいました。

 そうして、ひょっこりと顔を出したのは、人間のおばあさんです。

 目をまるくしておどろいたおばあさんは、皺の入った顔をゆるませると、仔狸のほうへ手を伸ばします。


 ああ、これでおしまいだ。

 ぎゅうっと目をつむっておりますと、ぎゅっと足を締めていた縄がゆるんで、動けるようになりました。

 すっかり痛めてしまった足を引き寄せて、仔狸は縮こまります。

 カタカタと震える仔狸をみやり、おばあさんは、いっそう顔をゆるませて笑いました。


 ――おや。これまた、ずいぶんとちいさな狸がかかったものだね。ほうれ、誰ぞ来ぬうちにさっさとおゆき。


 仔狸がおそるおそる顔をあげると、おばあさんがにっこり笑って手を振っているではありませんか。

 理由はわかりませんが、この人間は狸を捕まえる気はないようです。

 仔狸はあわてて立ち上がると、足を引きずりながら、一目散に走りました。

 草のすきまから見え隠れする仔狸のしっぽを、おばあさんは見送ります。そうして、周囲の土を足で踏みつけて、仔狸が残した無数のあしあとを消してあげたのでした。



    *



 里にもどった仔狸は、母さん狸に叱られます。

 今日ばかりは仔狸も、しおしおになって、ごめんなさいをくりかえしました。

 ヒリヒリと痛む足を舐めながら、仔狸はかんがえます。

 あの人間は、どうしてじぶんを捕まえて食べなかったのでしょうか。

 いくらかんがえても、わかりません。

 わからないのであれば、しらべてみればよい。

 好奇心旺盛な仔狸は、そんなふうにかんがえました。

 その好奇心のせいで、罠にかかってしまったのですが、そんなことはすっかり忘れて、人間の住む場所へでかけてみることにしたのです。

 とはいえ、さすがの仔狸だって用心します。

 覚えたての力をつかって、人間の子どもに化けたのです。

 こうしておけば、狸だと知られることもなく、人間のところへ行くことができるでしょう。


 ――あの人間のおうちは、どこだろう?


 途中の道で引き抜いたススキを振りながら歩いていると、おなじくらいのおおきさの子どもたちが通りすぎていきます。

 あの子どもたちとおなじに見えているでしょうか。

 地面に落ちる影をかくにんして、仔狸はうんとうなずきます。

 だいじょうぶ、ぴょこんと耳が飛び出ていたりはしません。だいじょうぶです。

 しばらく歩いておりますと、生垣いけがきの向こうから、声がきこえることに気がつきました。その声は、このまえきいたやさしい声によく似ています。

 こっそり生垣のすきまからのぞいてみますと、そこにはあの人間がいました。

 庭には立派な木があり、ハラハラとたくさんの葉を散らせています。

 あつめて、ふかふかの布団にすれば、とてもあたたかくて気持ちがよいことでしょう。飛び込んで遊ぶのも楽しそうです。


 ――おや、そこにいるのは誰だい?


 興奮して顔を出してしまったため、どうやら見つかってしまったようです。

 逃げようとする仔狸でしたが、おばあさんの声がとてもやさしかったものですから、ついつい立ち止まり、けれど大木の影に隠れて、こっそりようすをうかがいました。


 ――おや、見かけない顔だねえ。どこの子どもだい?


 仔狸は、なんと言ったものかと黙っていますと、どこから来たのかと問われます。

 お山の方角を指さしますと、おばあさんはうなずきました。


 ――そうかい、山向こうの町の子どもなのかい。だれかの家に、遊びに来ているのかい?


 よくわからないなりに、仔狸はうなずきました。

 するとおばあさんは、そうかいそうかいとうなずいて、手招きました。


 ――おイモをかしたところだったんだ。ぼうや、食べるかい?


 イモと聞いて、おなかがぎゅるるとなりました。

 おばあさんはにっこり笑うと、もういちど手招きをしました。



    *



 仔狸は結局、縁側に座ってイモを食べました。固くないイモははじめてでした。

 とてもおいしくて、仔狸は夢中でたべました。たくさん歩いて、おなかも空いていたからです。

 それから仔狸は、毎日のようにおばあさんの家に向かいます。

 バレないように、人間に化けて、おなじ人間であるおばあさんとはなしをするのです。

 それは、狸にとっておおきな手柄であり、ずっとバレないでいられたとしたら、褒められるべきことになるのです。

 父さん狸も母さん狸も仔狸を応援しましたが、仔狸がおばあさんのところへ通っている理由は、すこしちがうのでした。

 おイモがとってもおいしかったから?

 いいえ、そうではありません。

 おばあさんは、たったひとりで暮らしています。

 仔狸が姿を見せると、顔をゆるませます。

 山から下りるときに摘み取った山菜や木の実を持っていくと、とてもよろこんでくれるのです。


 ――ありがとうねえ、ぼうや。


 はじめにそう言われたとき、仔狸は思いました。

 罠にかかって、狸汁にならずにすんだのは、おばあさんのおかげ。

 だったら、そのご恩をお返ししなくちゃ、と。


 仔狸は、おばあさんに恩返しをするため、人間に化けて、おばあさんの家に向かっているのです。

 庭のおそうじだって手伝います。

 おばあさんの家近くには、おおきな木がいくつもあるものですから、たくさんの葉っぱが落ちてくるのです。おばあさんひとりでは、間に合わないぐらいです。

 年をとったおばあさんではうまくできないことでも、仔狸はへっちゃらです。葉っぱをあつめるのは得意でした。

 葉っぱをあつめて山にしていると、そのなかに潜りこみたくなります。

 ふかふかして、とても気持ちのよい寝床になるのです。里では、仲間たちとかくれんぼをしてあそびます。

 おばあさんの姿が見えないことを確認すると、仔狸はそっと葉っぱの山に頭をいれてみました。

 狸の姿と、人間の姿とでは、なんだか感触がちがいますが、見える景色はおなじです。

 赤や黄、すきまからのぞく青い空。

 太陽の光を浴びて、あたたまった葉っぱの山は、おひるねにはもってこいの場所でした。

 うつらうつら、舟をこいだ仔狸は、いつしかすっかり寝入ってしまいました。

 風がさわさわと吹いて、葉っぱがくるりくるりと地面でおどります。

 そうして葉っぱのあいだから、ふさふさのしっぽがのぞきました。

 人間の子どもから、ひょっこりとしっぽが生えています。

 ねむっているあいだに、仔狸はすっかり化けの皮がはがれてしまっておりました。ですが、それに気づかないまま眠りつづけているのです。

 油断大敵。

 そんな仔狸にそっと近づいたのは、おばあさんです。

 おばあさんは、のぞいているしっぽを見ると、にこりとわらいます。


 ――おやおや、まだまだ修行が足りていないねえ。


 おばあさんは、子どもが狸であることにちっとも驚きません。

 だっておばあさんは、とっくのむかしにそのことを知っているのです。

 うまく化けているつもりの仔狸でしたが、庭掃除をしているとき、ときどきしっぽをのぞかせていました。ホウキのかわりに、しっぽで枯れ葉をあつめているところを見たことだってあります。

 山から狸が下りてきて、化かし合いをするだなんて、ずいぶんと久しぶりでした。

 こんなちいさな化け狸に出会えるなんて、思ってもみなかったことです。

 雪が降るようになれば、山からここまで下りてくるのもたいへんになります。こうして仔狸がやってくるのも、あとわずかでしょう。

 となれば、あともうすこし付き合ってみるのも悪くない。

 フフフとわらうと、おばあさんは家のなかにもどりました。仔狸のために、おイモを用意しておきましょう。



    *



 空から白いものが落ちてくることが増えました。山を下りることは、そろそろむずかしくなりそうです。

 雪で出られなくなってしまうまえに、おばあさんにお別れをしなくてはいけません。

 恩返しは、そろそろおしまいです。

 だけど、春になれば。

 もっとあたたかくなれば、またあそこへ行くことができるでしょう。

 今度は、春の山菜や木の芽を持ってあそびにいこうと、仔狸は思いました。



 今日が最後と決めたその日。

 母さん狸が仔狸のために、人間がつかう手袋とマフラーを用意してくれました。

 やわらかくて細長い、毛皮のようなものです。

 子どもだけではなく、おとなもおなじようなものを首に巻きつけているのを、見たことがあります。

 これはよいものだ。あったかいなあ。

 ぬくぬくの仔狸に、母さん狸は言いました。


 ――いいかい、注意おし。人間は、動物の皮を剥いで、襟巻えりまきにしてしまうんだからね。

 ――えりまきってなあに?

 ――動物の毛皮でつくったマフラーのことだよ。



 なんということでしょう。

 人間は「狸汁」にするだけではなく、剥いだ毛皮までもじぶんたちで使うというのです。

 仔狸は、ぶるぶる震えました。

 道行く人間は、だれもかれもがマフラーをつけています。赤や黒や緑と、色とりどりの編み物が首を覆うなか、なにかの毛皮を巻いている人間もたくさんいました。

 襟巻きだけではありません。服の袖や、靴。カバンにも、ふんわりとした毛皮がついています。

 あれはいったい、なんの動物でしょう。

 人間は、狸だけではなく、たくさんの動物の皮を剥いでいるのでしょうか。

 子どもの姿に化けた仔狸は、思わずしっぽを確認し、出ていないことにほっとして、おばあさんの家に向かいました。

 今日はお別れの日。

 特別なおくりものを用意してきました。

 つる草で編んだカゴに、たくさんの木の実。仔狸のとっておきを詰め込んだものです。

 カゴを渡すと、おばあさんはいつものように、顔をゆるめて笑いました。


 ――そうかい、ぼうやは町に帰るのかい。

 ――春になったら、また来るよ。

 ――おや、そうかい。それは楽しみだ。


 おばあさんは、やさしい声でいいました。

 いつもとおなじやさしい声で、仔狸の首を飾るマフラーを見るので、仔狸は、母さんがくれたもので、とてもあたたかいのだと自慢をします。


 ――おばあさんは、どんなものを持っているの?

 ――わたしには、必要ないよ。毛皮があるからね。


 おばあさんは、いつものようにわらいました。

 毛皮がある、とはどういうことでしょう。

 仔狸が考えるかたわら、おばあさんは立ちあがり、どこかへ向かいました。

 待てども待てども、戻ってきません。

 不思議に思った仔狸は、おばあさんが向かったほうへ行ってみることにしました。


 そうっと足をしのばせます。

 木を張りつけた廊下にはうっすらと埃がたまっており、なにやら動物の毛がいくつもいくつも落ちていることに気がつきました。

 仔狸はしっぽを確認しましたが、出てはいません。これは仔狸のものではないのです。

 だとすれば、いったいだれの毛でしょうか。

 よく見てみると、スタンプを押したように、動物のあしあとが点々とあることがわかります。

 仔狸は、この場所に来たことはありませんし、おばあさんの家に入るときは、いつだって人間の子どもに化けているのです。こんなふうに、あしあとを残すわけがないでしょう。

 おばあさんの声が聞こえます。

 向こうは台所です。

 ぐらぐらと沸く鍋と、おおきな包丁が見えました。



 人間は、動物の皮を剥いで、襟巻えりまきにしてしまうんだからね。



 母さん狸の言葉を思い出し、仔狸は震えあがりました。

 そのついでに、変化の術が解けてしまいました。

 扉が開いて、おばあさんが出てきました。


 ――おやおや、気づかれてしまったかねえ。いけない仔狸だこと。


 のんびりとしたおばあさんの声に、仔狸は慌てて逃げ出しました。

 なんと、おばあさんは、子どもが狸であることを知っていたのです。

 知っていて、ずっと黙っていたのです。

 どうしてかって、そんなことは決まっています。



 人間は、我々狸たちを捕まえて、あげくのはてに食べてしまう、おそろしいヤツらなのだ。




 飛ぶように走り去っていく仔狸を見やり、おばあさんは、溜息をつきました。


 ――せっかくおやつを用意したのに、逃げることはないだろう。

 ――まったく狸は、仕方のない奴らだ。

 ――なかでもあの仔狸ときたら、ほんとうに修行が足りないや。


 ハハハと、おばあさんは笑いました。

 いいえ。そこにいたのは、おばあさんではありません。

 楽しげに、身体を震わせて笑っているのは、きつねです。

 おばあさんは、狐が化けた人間だったのです。


 ――しかし、こうなれば、もうやってくることはないかねえ。やれ、残念だ。

 ――狐と狸の化かし合いも、これまでか。

 ――ああ、残念残念。


 ふさりとしっぽを揺らして、狐は溜息をつきました。





 山には、人間に化ける動物が住んでいるといわれています。

 化かし合いという名の攻防は、いまもずっと長くつづいているのです。



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