春霞~嬉子の章

みや

春霞~嬉子の章

東宮とうぐう さまの妃になってほしい」

 父・藤原道長ふじわらのみちなが の言葉を聞いて、嬉子 きしは困ったように微笑んだ。

 内容にではない。

 現在東宮である敦良あつなが 親王の妃になることは、三年前に尚侍ないしのかみ になったとき、そして、二年前に着裳ちゃくも を迎え、従三位になったとき、段階を踏んで覚悟してきた。


 ――、いや、覚悟させられた、というべきか。


 慌てて広げた檜扇の陰で、十五歳の嬉子は微笑む。どこか皮肉気に。


「東宮さまは、あなたより二つ下。釣り合いは取れていますよ」

 母である倫子 りんしは微笑む。


 姉・威子 いしは東宮の兄である主上のもとに、九歳年上でありながら入内させられた。

 それを思えば幸せなのだろう。

 嬉子はまた困ったように微笑んだ。


 東宮が何歳年上であろうと、何歳年下であろうと、自分が入内する以外の道はありえないからだった。

 ずっと、父や母に、

「そなたは主上か、東宮さまに入内するのだ」

 と、育てられてきた自分には。


 ――たとえ、私が泣いて嫌だと言っても、入内は決行されるだろう。


 嬉子は、また困ったような笑みを浮かべる。

 そう言わない自分を自覚していたからなのか、どうなのか。


 嬉子の胸によぎる一つの思い出。

 その思い出があったからこそ、この父の話を悲しみでなく、否定的でもなく、――喜びがわく困惑さでとらえていたのだ。


   ☆


 土御門邸つちみかどてい

 時は、春だった。

 邸の紅梅白梅が入り乱れて咲き、香りが漂い、空気が華やいでいる頃だった。

 その雰囲気に、嬉子は、朝早く寝所を抜け出した。周りの女房たちは眠っている中を抜け出して。

 ひさし に出て、嬉子は伸びをし、春の香りを思いっきり吸い込んだ。

「女房たちに見つかったら怒られるわね」

 うふふ、と嬉子は一人でいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 嬉子は九歳だった。もちろん裳義前であったし、まだ、女房の慌てふためく様子を面白がる年頃だった。


 その時。

「六の君じゃないか」

 嬉子の視線の下から、声がして、嬉子は驚いて飛びのいた。

 その様子がおかしかったのか声を抑えて笑う男子は――。


「三の宮さま」

 嬉子は顔を赤らめて地面に立つ三の宮――敦良親王を睨みつけた。

 相手は親王であるが、彼の母である皇太后。彰子は嬉子の同母の姉である。

 つまり、嬉子は叔母に当たる。

 そのうえ、二歳年上の彼女は、たまに土御門邸を訪れる敦良を弟のように思っていた。


「こんなに朝早くどうされたのですか? 三の宮さま?」

 なので、気安く嬉子は声をかける。

「――空気か華やいで、起きていられいられなくて」

 敦良は遠い目をして言う。そして続ける。

「この正月、兄が天皇になった。正直、私はどうなるのだろう、といつも不安だけれど、今日だけはそれを忘れる気持ちになって」

 敦良はすうっと遠い目になった。

 その様子は、いつもの周りをにこやかに微笑ませるほど愛らしい、彼の様子とは違う、陰のあるもので――。

 嬉子は、なにも言えなかった。

 敦良親王の兄・敦成あつひら 親王がこの正月二十九日、天皇になり、同時に父・道長は摂政せっしょう になった。

 道長の摂政任官は念願のもので、この邸もその喜びに浮かれている。

 東宮となったのは、先の主上の皇子。

 敦良はそのことを言っているのであろう。


「今日は、空気が冷たくて。でも、梅の香りが漂って。いつもとなんとなく違う空気がしますものね」

 嬉子はぽつりとつぶやいた。その言葉に驚いたように敦良は嬉子を見つめる。

 敦良はいつもの、誰もが微笑むような笑みを浮かべて、

「そう、そうなんだ。いつもと違う空気がして。だから、いつもの思いから解放された気持ちになって」

 と続けた。

 そして、嬉子をずっと見つめた。

「六の君」

 敦良はつぶやく。

「ひとつだけお願いがあるんだ」

「なんですか?」

 嬉子は微笑む。

 いつもの愛らしい弟のような皇子のときでさえ、なんでもかなえたくなるというのに、今の陰りのある彼の様子を見ると、痛ましさのあまりなんでも叶えたくなる。

「私は兄と違って、皇位につくことはできないだろうし……。摂政の娘のあなたを妻にすることはできないだろうけど」

「私を妻に?」

 驚いた嬉子は絶句する。弟のように思っていた彼に、そんなことを思われていたとは思っていなかったからだ。

 そんな様子に構わず、敦良は続ける。

「あなたが、主上や東宮のきさきになっても、今日のことだけは覚えておいてほしいんだ」

「今日のこと?」

「そう、二人だけの秘密として」

 敦良は悲しげに微笑む。

 その様子に嬉子は思わずうなずいていた。

「――六の君さま!」

 遠くから、女房の声が聞こえる。嬉子が寝所から抜け出したに女房たちが気付いたのだろう。

 その声に、敦良は、悲しげな微笑みを浮かべたまま、

「約束だよ?」

 と、踵を返した。

 嬉子は、女房たちが来るわずかな時間、敦良の背中をずっと見つめていた。


   ☆


「嬉子?」

 思い出にひたっていた嬉子に、道長が声をかける。


 ――あれから、情勢は変わった。


 あのときの東宮は、父・道長の策略により東宮を自ら辞退し、敦良が東宮になったのだ。


 敦良が東宮でなくても、私はその人の妃になっていただろう。

 でも、あの思い出はずっと、彼女の胸の中にあった。

 翌年東宮になった彼は、前のように気安く話せる対象ではなくなってしまった。

 だからこそだろうか。

 あの思い出は、いつの間にか恋に姿を変えてしまって、彼女の胸にあった。

 そんな彼のきさきになれるのだ。


(――でも、東宮さまは、あの事を、私を、覚えているの?)

 そんな不安もある。

 時の権力者・道長の娘であり、関白・頼通の妹である自分を仕方なく、妻として迎えるのではないかと――。


「東宮さまから、文を預かっていてな」

 道長は、文箱を嬉子に渡した。

 嬉子ははやる心を抑え、優雅に受け取り、箱を開ける。


 薄様に、


   ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちにおもふ心を


 と、書かれている。

 そして、二枚目には、

『自分の力でではありませんが、東宮となり、あなたを迎えることができます。あの日の約束は覚えてくださっているでしょうか? 早く、あなたを思っている心を直に伝えたいものです』

 と、書かれていた。


 嬉子は赤面しながら、目に喜びの涙を浮かべた。

(――私も早く会いたいです、三の宮さま)

 そして、あの朝から、ずっと彼を思っていたことを伝えたい。

 妃になるなら彼がいい、とずっと思っていたことを伝えたい。


 嬉子の目から涙が零れ落ちた。

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春霞~嬉子の章 みや @moromiya06

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