眼を開けて
相も変わらず世界を揺らし、どこかへと私を運んでいく電車。立ち尽くす私。さっきまで座席下のヒーターで暖められていたふくらはぎが寒いーーと、そこでようやく私は気づく。この謎の電車に揺られてしばらく経つ。そして何度か停車もしたというのに私はちっとも降りようとしなかった。
「どれも、あなたの選んだことだよ。」
後ろから聞き慣れた声が飛んできた。どこで聞いた声か、その声の主を確認しようと振り返りその顔を見て、心臓がどくん、と大きく一回跳ねた。
それは私の人生の中で最も多く見るであろう顔だった。朝起きて一番最初に鏡の中で見る、そう、そこに立っていたのは、まぎれもない、私自身だった。固まる私をよそに、彼女は続ける。
「この電車には私しかいない。だってここは私の人生だから。」
何を言っているのだ、目の前の私は。彼女は確かに私だ。服装も身長も、ほくろの位置まで完全に同じ。そして鏡で見る私と左右対称なことが、彼女が「本物」であることを物語っていた。
「ここは私の人生、って、どういうこと。」
どうにか絞り出した言葉は私のものとは思えぬほどに消え入りそうな、弱々しいものだった。
「人生って、電車みたいだと思わない?」
「人生が、電車。」
確かに、考えてみれば、どこへ向かうのかわからないこの電車は、どこか人生に似ているところがあるのかもしれない。
「それだけじゃない。この電車はもう何度か停車しているでしょう。なのにあなたは降りなかった。どうして降りなかったの?思い出して、この電車は、あなたの、私の人生なのよ。」
目の前の私に、心の中が読まれているようだった。じっとりと掌が汗ばんでいるのを感じた。何か見たくないものを見させられているようで、私は私の目をまっすぐ見ることができなかった。
だって、きっと私は気づいていたのだ。
「あのね、後悔しているなら、次の停車駅で降りて反対側のホームの電車に乗ればいいのよ。」
「でも、今からじゃもう、間に合わない。」
本当はどこかで気づいていた。停車駅で消えていった少女たちは、皆私だった。ある程度の才能があったがゆえに自分に見切りをつけられてしまった過去の私。そしてどの夢もすべて、続きを描くことを私は諦めた。ピアノも絵も、本当はもっと続けたかったけれど、何度もあったチャンスを見ないふりをして、私は立ち上がろうとしなかった。後戻りできないと思うと怖かったから。傷つくのが、怖かったから。
「扉は開いてるよ。」
そう言われて、気づくといつのまにか電車は次の駅に停車していた。
「私は、降りる。」
立ち尽くす私を前に、もう一人の私はそう言って電車を降りていく。
「待って!私も・・・!」
出発のアナウンスがかかる。私はそこらに転がっている自分のかばんとマフラーを引っ掴んでドアをめがけて全力で駆け出す。閉まり出すドアの隙間にどうにか体を滑り込ませ、プラットホームに投げ出された私の体は勢い余って太い柱にぶつかった。急いでもう一人の私を探そうと顔を上げ、思わず息を呑む。駅のホームには人が普通に歩いていた。疲れた顔のおじさんや酔っ払ったサラリーマンが、茫然とした顔の私を物珍しげに眺めて歩いていく。駅の表示は。
『戸塚』だった。
そこは間違いなくいつもの戸塚駅で、走り去る電車も、いつもと何も変わらない、ただの地下鉄だった。固く握りしめた拳を開くと、そこに確かに握っていたはずのスケッチブックの切れ端も、いつのまにか姿を消していた。
あの日はあれからどうやって帰ったのか、何を考えながら帰ったのかもうよく覚えていない。あれからもう二度と私があの不思議な電車に乗ることはなかった。疲れて夢でも見ていたのかもしれない。ただ、人生は電車のようだと言った私の声は、今もまだ鮮明に私の耳に残っている。あれがあってから私の生活が何か変わったかと言われれば、結局は何も変わらないままだ。それでも、あそこであの電車を降りられたことが、今までの私の何かを変えてくれた気がするのだ。もしかしたらそれはほんの小さなことかもしれないけれど。そう思うと私にはどうしても、あれがただの夢とは思えなかったのだった。
そしてまた金曜日がやってきた。今日は目を瞑らないで帰ろう、そう心に決めて私はいつもの23:38発、あざみ野行の最終電車に乗り込む。
夢を見て、寝過ごしてしまわないように。
2338 くしゃみマシーン @yako-kay
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