第8話 崇峻の瞳

 「それで、崇峻の瞳ってどういう物なんですか?」

 「知らん。俺は一介の呪術師だからな」


 宮殿に設けられた医療室に詩音と淳平はいた。淳平は布団の上に横たわり、治療を受けていて片足や手に巻かれた包帯がとても痛々しい。


 「そもそも、崇峻の瞳の詳細を話さない上層部が悪い。どういった代物なのかがわからなければ俺らも対処のしようがない」


 「故事かなんかめくって調べてみますか?」

 「いや、どうだろうな。だけど崇峻ってあの崇峻だろ、多分。ちょっと面倒な相手になるかもな」


 手当を受けながら淳平はゴロリと体を横にする。崇峻、崇峻と口の中で連呼し、同時に気だるさが押し寄せてきた。どう考えても伯かそれ以上の存在だろうことが予測されるのに大輔や少輔という二番手の俺らになんで、と殿上院への恨みつらみが口からこぼれ落ちていった。


 「とにかく、詩音はなんてったか、あの仮面男」

 「柩間 影瑯です」


 「そいつよりも先に例の怪異を見つけろ。そんでもって例のブツを回収しろ」

 「はいはい。それじゃその間矢野さんはここで看護師の方でも眺めてて下さい」


 応よ、と矢野は威勢よく返事する。そんなことでいいのか、と詩音は軽口を言った手前言えなかったが、いつもながらの不誠実な淳平の態度に軽く肩を落とした。だが、そんなちょっとやる気のない人っぽいところが淳平と付き合っていて気楽なところだ。下手に猪突猛進する人間よりもよっぽど接しやすい。


 そんな淳平と今後もどん詰まりの呪術師人生を送る以上、今回の事件はさっさと解決しないとな、と詩音は瞑目する。


 とはいえ、と詩音は宮殿から出た後、逡巡する。


 怪異を追うにしろ、影瑯を追うにしろ、どうしたものか、と悩まざるを得ない。怪異はそこら中にいるし、残した痕跡を追う、という方法もきっと影瑯がやっているだろう。


 今から東京の街中を散策して回るとなると時間がかかるのは必然、何か効率的な散策法はないかな、と詩音はあたりを見回す。


 ひとえに呪術と言ってもその在り方は千差万別だ。詩音の索敵呪術はもとより、建物の位置や高さ、構造を利用した大規模呪術、果ては惑星そのものを利用する呪術も少なくはない。


 だがひとえに大規模な呪術は呪術師単体では使用することができず、大抵は星の位置や建物の配置、土地、何かに限定した条件などが必要とされる。


 例えば、詩音の呪術『壁二耳アリ、小事二芽アリ』は壁やドアなどの遮蔽物を通り越し、術者と対極の位置に目か耳を生やす呪術だ。索敵に特化しているから、消費する魂の量は少ないが、それしかできない、という欠点がある。


 特化と言えば聞こえはいいが、それしかできないのも考えものだ。


 「まぁ、だからの理由で……」


 風が頬をなでる。なでるというよりも平手打ちに近い、強烈な風圧だ。さすが地上三百メートル、と関心してしまうほど、強烈な攻撃だ。


 「東京タワーにまで来るのはさすがに才能がないよな」


 東京タワー展望台、そのさらに上。階段だけはあるが基本は誰も立ち入ることのない屋上に一人、詩音は日本最長の建物からの絶景を堪能していた。ポッキリ折れてようやく改修が終わったアンテナから見るまさに特等席の光景だ。


 夕暮れ時の東京の街は日の光陰る中、淡い光を発しておりより一層人通りが激しくなる。あらゆる人々の足が早まり、それを一望することができるこの場所は、スカイツリーが完成するまではベストスポットだろう。


 だが別に高さを堪能するためではない。


 彼の呪術の効果範囲を広げるために必要な行為だからこそ、わざわざこんな寒い場所に登ったのだ。


 詩音の呪術は通常時はただ「見る、聞く」に特化しただけの能力しか持ち合わせていない。しかしとある条件をクリアすることでその範囲を拡大することができる。


 それが彼のもう一つの呪術「高みの見仏」だ。


 最低でも地上二百メートルの建造物に登っており、なおかつ日の出、日没でなければ効果は発揮できない、という制限があってようやく物にできた、彼の技量に見合わない呪術。


 引き換えに能力の効果は絶大だ。


 最低でも東京23区のすべてを覆うだけの「巨大な目と耳」を作り出し、探したいものを瞬時に把握する。使えば多量の魂を消費し、倦怠感に満たされるなどすぐには動けないデメリットがあるが、影瑯よりも早く逃げた怪異を見つけるにはこれしか思いつかなかった。


 「呪術式併用、『高みの見仏』」


 すぅーっと詩音は息を吸う。刹那、彼の意識が東京上空へと飛んだ。幽体離脱にも似た浮遊感が一瞬だけ彼を襲う。

 彼の視界に入る世界が極彩色へと転じていく。


 間断なく色合いが変化していき、やがて元の味気のない光景へと変わっていく。しかし白絹のシミがごとく、ただ一点のみどす黒く、吐き気を覚える極彩色で塗りつぶされていた。


 「みつ……けた」


 術を解くと同時に倦怠感が襲ってきた。久しく使っていなかった反動だろう。足腰が振るえ、起き上がろうと力を入れても体が重く感じる。腰が抜けてしまったかのように微動だにしなかった。


 「クソ……」


 仕方ない、と詩音は肉体強化の呪術を自分に付加する。ただでさえ少ない魂の総量を減らすためあまり使いたくはなかったが、すぐに怪異の元に行かなくてはいけない事情があった。


 神経を興奮状態にする肉体強化呪術をかけても体がまだ重く感じるのはそれほど術の反動が大きいからだろう。しかし音を上げることはできない、と詩音は勢い良く東京タワーから落下したかと思えば近くのビルの屋上に飛び移る。


 何人、何十人かに見られただろうが、そんなことを気にする余裕はない。それに彼らだってどうせすぐに幻だと思う。現実的に考えて東京タワーから飛び降りる、ビルを忍者よろしく飛び移る人間なんていないだろうから。


 通常の人間の二倍は高く飛び、倍する膂力を持って詩音は忍者顔負けに建物を渡っていく。ただ一直線に彼の獲物が潜伏している地区を目指して走る彼の足は時折悲鳴を上げる。


 高校生としてはありえないほど鍛え抜かれた詩音の足ですら、大幅に体力が低下した直後の肉体強化呪術に耐えきれるものではない。仮に獲物の怪異を見つけても、長期戦になれば勝ち目は万に一つもない。


 勝負は最初の一太刀で決まる。


 己の最強、最速の技で相手の首を刈ることができれば、とりあえずは殺すことができる。かりに伯に相当する怪異であれば首を斬られても再生するかもしれないが、その時はその時だ。


 に近づくにつれ、足がもつれ始めた。呪術の効果が切れ始めている。筋繊維もいくつか切れているだろう。


 「だけどな、それでお前を見逃す理由にはならねーんだよぉ!」


 しかしその足かせをすべて引きちぎって詩音は捉えた怪異の頭上に躍り出る。突然頭上が陰ったことですぐさま怪異は顔を上げた。


 自分を見つめるのは完全にゴリラの一体の怪異。毛色も斬られた腕と一致している。気になるのは片方の瞳が赤黒く濁っていることだが、それは今考慮の外だ。いい具合に狭い路地にいる。巨体をうまく扱うことができない空間にわざわざいてくれるのは僥倖だ。


 詩音の刀を握る手に力がこもる。頭上の有利から彼が繰り出すのは「七夕式斬術三の型五番、砂月」だ。詩音が使える斬術の中で最も速く、首切りに用いる最も信頼している技。


 副程度の怪異であればこの一刀だけで容易に葬ることができる、と彼の経験が直感させていた。


 怪異の巨大な手が詩音を捉えようとする。それを重心をわずかに左にずらして躱しきり、詩音は伸びた腕を足場とし蹴って加速した。


 一閃。


 瞬速の一撃が怪異の首を宙へと跳ね上げた。肉の感触が掌中にぞわりと伝わり、詩音に相手をきちんと殺した、と伝える。


 ズン、と重い音を立てて、怪異の巨体が沈んだ。


 うまく着地した詩音はすぐさま怪異の生死を確認しようと首を探した。もし首が動けばそれはまだ死んでいない、という合図だ。斬られた腕を再生できない怪異が首をつなげるか、と聞かれればノーだろうが万が一がある。


 「……ない……?」


 しかし首はどこにもなかった。慌てて周囲を見回すが、怪異の巨体以外に珍しいものはなにもない。文字通り、紛失していた。

 詩音の焦りが脳裏で汗となってしたたった。指定封印遺産、という弩級の危険物が紛失したなど笑い事では済まされない。


 すぐに体を動かそうとするが術の効果が切れ、体が思うように動かない。魂の強度も落ちてきている。情緒が不安定に、感情の制御が難しくなっているのを肌で感じた。


 「このクソ……クソが!」


 己の非力さを悔やんだことなんて一度や二度じゃない。何度味わっても気分の悪いこの感覚がまた自分を邪魔する。他ならぬ自分への憎悪が昂ぶっていた。


 「だめだよ、七夕君。短気は損気だ。もう少し感情の制御を学ばないとね」


 それを後押しする冷笑が耳元で囁かれた。即座に振り向こうとするが首が動かない。上かたものすごい力で押さえつけられ、微動だにしなかった。


 「感情は呪術においてもっとも重要なファクターだ。……まぁ君が自滅してもいい、というのなら私にそれを止める理由はないがね」


 「影……瑯ぅぅぅぅ!!」


 ついさっき別れた仮面の男に詩音は憎悪の眼差しを向ける。さっきまで力が入らなかった体にいきなり万力が宿っていく。ゆっくりと彼の体が起き上がっていく。しかしすぐさまそれを上回る膂力によって地面に叩き伏せられた。


 「あまりあがくなよ。体に余計な負担がかかる。肉体が死んでもいいのかな?」


 くやしがる詩音をよそに影瑯は彼の手から刀を取り上げる。万が一のことを警戒してだろう、と詩音は思うがそれが必要な相手には思えなかった。あくまで万が一、その周到さが腹立たしかった。


 「いやはや、君がいきなりロケットみたいにつっこんでいくから驚いたよ。だけど良かった。おかげでこうも早く『瞳』を改修することができた」


 そう言って影瑯は手の中の巨大な首をバスケットボールのように投げた。何度もリフティングを繰り返すことで頭部がぐちゃり、ぐちゃりと潰れていく。しかしその中にあってただひとつ、赤い瞳だけはその形を変えることはない。


 やがて、影瑯の手に頭部が戻ってくることはなくなり、路上には赤い瞳だけが血溜まりの中で息をするようになった。そんな光景を目の前で、至近距離で見せられて正気でいられるわけがない。耐え難い酸味が口内に溢れ出した。


 「どうだい、七夕君。きれいなものだろう」


 瞳を取り上げて見せ、影瑯は笑ってみせた。まるで梅干しにトマトソースをぶっかけたような無骨な外見のそれをわざわざ詩音の前に持ってきて、その反応を見て楽しんでいた。


 ド変態め、と詩音は彼を心中で罵倒した。


 しかも超がつくド変態だ。


 指定封印なんていう物騒な肩書のある呪いの品を手袋一枚隔てて触るなんて正気の沙汰だ。触れれば呪われるような品を触って、無事でいられるわけがないじゃないか。


 「いいことを教えてあげよう。この瞳はね、とてもとても強力な怪異を呼び出す媒体に成り得るんだよ。

 それこそ平将門公よりも太古、まだ名が当たり前でなかった時代の怪異のね」


 「それって……」


 「私はソレと戦いたい。雑魚狩りなどもう飽きてしまった。闘争こそが人類が己の真価を発揮できる数少ない場だからね!」


 そんな下らないもののために。

 気がつけば体が動いていた。勝手に体が動いていた。刀などなく、無手のまま詩音は『七夕式斬術一の型十二番手式、砂尽・紡』を放つ。


 それを影瑯はただ蹴りで防いだ。詩音の顎を蹴り上げ、彼の平衡感覚を失わせる。視界がぐらんぐらんと揺れ、立っているのか倒れているのかわからなくなった。鈍痛が頭に響き、音すらまともに聞くことができない。


 「鋭い一撃だったよ。だが、まだ人の領域だね」

 「お、ざけ!」


 朦朧とする意識の中、詩音は蹴りを放つ。


 「それは悪手だね」


 苦し紛れに放った蹴りを即座に躱し、影瑯の仮面がゼロ距離まで近づいた。刹那、強烈な衝撃が詩音の顔面を殴りつけた。鼻が折れる痛みが詩音に響いた。


 「しぃ!」

 「君の攻撃は質実剛健だ。最短、最速を突こうとする。だがね」


 直後、左脇腹に刺すような痛みが走った。最初はたいしたことのない痛みが徐々に広がっていき、内蔵を圧迫する。彼の神経が救難信号を発信するころには多量の血が腹から吐き出されていた。


 「まだまだ実戦経験が足りない、ね。伯クラスの怪異ならそれで倒せるかもしれないが、それ以上は無理だよ」


 「やろう……!」


 後ずさり背中を壁につける詩音、恨めしく彼が作業する姿をただ見つめた。だが、何もできないわけではない。


 両の手のひらを合わせ、手の形をピストルに似たものに変えた。人差し指と中指、小指を立て、手の平の中に親指をしまう。その形は最初こそピストルのようだったが、やがて龍にも見えてきた。


 影瑯はその事に気づかず、回収した瞳を立方体のガラスケースへしまう。中は消毒液で満たされており、一度閉めてしまえば割る以外に出す方法がないように詩音には思えた。


 もはや詩音への注意はなく、一抹の血飛沫も起こせない、と彼を侮っていた。


 「御遊給おんあそびたまえ依夜開曙よるよるあけあけ


 詩音がたった七文字を唱えると同時に周囲の景色が色を失った。影瑯もすぐさま異常に勘付き、手にしていた銃剣を詩音に構える。


 だが、詩音にとってはただ七文字唱えるだけで充分過ぎた。たった七文字唱えるだけで勝負は決する。


 「これは……。呪術の産物……?」


 巨大な黒い影の龍、奇怪な悪魔。いくつもの七面鳥の顔。カラスの翼、笑いが絶えない武士の顔が嘆く嘆く。口ばかりの舌、いくつもの金色の複眼が獲物を睨んでいる。


 小さな路地に収まるにはあまりに巨大すぎる闇の化生を前にさしもの影瑯ですら悪寒を感じた。


 「呪術降誕、依夜開曙よるよるあけあけ。俺の使える中で一番強力な呪術だ。死なないように頑張りな」


 「君は……自滅するつもりか?」

 「本望だよ」


 巨大な肉塊の向こうの少年は獰猛な狩人の笑みを浮かべそして、自らが生み出した呪術生命体に弾き飛ばされた。

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夜隠百鬼夜行 賀田 希道 @kadakitou

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