眠りから覚めると、辺りは一面闇でした。

「ここは……」

 一瞬、私は自分がどこにいるのかわかりませんでした。暗闇に目が慣れると、私の隣りで寝息をたてるたっくんが見えました。私はまだ夢から覚めていないのでしょうか。そんな考えがふっと過りましたが、昨日の記憶は、どこまでも現実でした。

 夜明け前だというのに、頭がはっきりと覚醒してしまっていたので、私は外に――秘密基地に行くことにしました。

 裸足のまま玄関を出ます。ぺたぺたと直接土を踏みしめ、一日たりとも忘れたことのない道を歩きました。人がいなくなり寂れてしまったからでしょうか、木々は鬱々と茂り、山は私を飲み込むようにぐわりと口を開けています。私は大きく息を吸い、黒く開かれた口へと足を踏み入れました。

 どこをどう歩いたのか、はっと我に返ると、私は秘密基地の前にいました。蔦が巻きつき、壁の木が腐り、随分と様相を変えていましたが、それはいまだそこに佇んでいます。たっくんとここで過ごした記憶がまざまざと思い起こされ、胸が苦しくなりながらも戸を引きました。

 ギイィ……

 軋んだ音をたてて開いた戸をくぐり、中へ入ると、そこは血の海でした。……いいえ、血のように見えたのは、彼岸花。血よりも生々しい真紅の彼岸花が、床を覆い隠すように咲いていたのです。

 それは、あの日と寸分違わぬ光景でした。違うのは、そこにたっくんがいないことだけ。

「たっくん……助けてあげられなくてごめんね。苦しかったよね。痛かったよね……」

 彼岸花の群れに埋もれて呟いていると、頭の端にちりちりと熱を持った何かが現れてきました。

 何でしょう? 何か、大切なことを忘れてしまっているような……。

「はぁちゃん、ここにいたの」

 突然背後から声がして、びくりと肩が震えました。そこには、柔らかな笑みを浮かべたたっくんがいました。

「たっくん……」

「帰ろう。皆がはぁちゃんのこと探してるよ?」

「え?」

 その顔のままたっくんが言いました。どうしてそんなことを言うのでしょう。私はまだ、ここにいたいのに。

「ちょっと散歩してるだけだから、すぐ帰るって言っておいてくれない?」

「そう言うけどはぁちゃん、もう二十三年も帰ってきてないんだよ」

「え?」

「覚えてないの? 僕が死んだ日の夜に、はぁちゃんまでいなくなっちゃったのに」

「何を言っているの? たっくんは生きているじゃない」

 私は訳がわかりません。ただ、忘れてしまっていることを、頭の隅のこの熱を、どうにかしたいだけなのに。

 たっくんは二十三年前に死にました。ああ、それはわかっています。けれど今目の前にいるたっくんは、確かに生きているのです。そして、私が行方不明? ならば、たっくんが死んでからの私の記憶は一体何だと言うのでしょう。

 ざわり

 彼岸花が風もなくそよぎました。

 ざわり

「あぁ……」

 忘れていた記憶が少しずつ色づき始めました。まるで、そのざわめきに呼応するように。

 あの日……。

 私は転がり込むようにして秘密基地に入ると、目の前の光景に言葉を失いました。

「たっくん……?」

 噎せ返るような彼岸花の群れの中に、たっくんは全裸で横たわっていました。

「はぁちゃん……助けて……」

 左目と陰茎を奪われ、自身の赤にまみれて、たっくんは息も絶え絶えに私に助けを求めます。

 ああ、

 私はそっと近づき、頬に手を伸ばしました。涙に濡れて光る右目は、うっとりしてしまうほどきれいです。

「はぁちゃん……はぁちゃん……」

 たっくんは機械のように、はぁちゃん、はぁちゃんと私の名前だけを繰り返します。

 やめて。そんな風に私を呼ばないで。

 そんなに必死な声で呼ばれたら……。

 ――……。

 あ

 ああぁ

「ぎゃあああぁあぁあああっ」

 奇妙な音で我に返りました。は、たっくんの口から迸っていました。悲鳴です。たっくんの頬に触れていたはずの手は、残った右目を掴んでいました。眼孔に埋もれた指をぐりぐりと動かすたびに、悲鳴が大きくなっていきます。

 ぎゃあああぁ

 ぎゃああああぁぁ

 ぎゃああああああああ

 痛みから逃れようと、たっくんは頭を激しく振り動かします。けれど、たっくんに埋め込んだ指を、私は決して抜き取ろうとはしませんでした。ただ、たっくんの甘やかな悲鳴に恍惚として、眼球を抉り出そうとするだけです。

 ぎゃあああああぁ

 ああああああ

 ああぁぁぁ

 ああぁ……

 次第に悲鳴が小さくなり、ついには聞こえなくなりました。

 今度こそ、たっくんは死んでしまいました。

 私は、ぐりぐりと回転させたせいで随分と緩くなっていた繋がりをぶちぶちと引き千切りました。血と涙が入り交じってぐしゃぐしゃに汚れたそこから、数本の視神経が付着したままの眼球を取り出します。

   はぁちゃん、どうして……?

 悲痛な表情で訴えかけていた瞳は、顔から離れて眼球ただ一つになってしまうと、感情のない、無機質な美しいオブジェと化しました。てらてらと赤黒く光るそれを丁寧に舐めとり、白と黒だけにしました。

 ――たっくんのいちばんきれいなところ。これで、たっくんといつも一緒にいられる。

 ざわりっ

 彼岸花がざわめきました。

 ざわざわ、ざわりっ

 ざわざわ、ざわりっ

 ざわ ざわ ざわ ざわ……

 ざわめきは次第に大きくなっていきます。

 ざわざわ、ざわりっ

 うふふ、うふ、うふ、うふ

 ざわざわ、ざわりっ

 うふふ、うふ、うふ、うふ

 笑い声が聞こえます。これは……彼岸花のものなのかたっくんのものなのか、私のものなのか。

 風は凪いでいるのに、千切れてしまいそうなほど激しく揺れ始めました。

 ぶわっ。真っ赤な花弁が散りました。ばらばらと舞って、私の視界を覆い尽くしていきます。縦横無尽に舞う花弁に前も後ろもわからなくなり、よろめいた私は壁に手を突きました。

 みしっ……がたんっ

 朽ちた木の壁は、子ども一人の重みでいとも簡単に外れてしまいました。支えを失い、私は壁とともに外へ投げ出されました。そして不幸なことにそこは小さな崖になっていて、私の体は重力に沿って落下していきます。周りの景色が、ひどくゆっくり流れていきます。最後にたっくんを一目見ようと、私は首を捻りました。たっくんは苦痛に歪んだ表情のまま、暗い双眸で私を見つめていました。

 暗い双眸、二つの穴――。

 ぐしゃり。

 手の中で何かが潰れる感触がしました。そこには確か、たっくんの右目があったはずです。

「ああ……」

 それは、無残にひしゃげてしまい、少し濁った液体がみ出していました。

 ――ああ、一番きれいなたっくんが汚れてしまった。

 それは、私にえも言われぬ愉悦の感覚をもたらしました。加速度を増して落下しながら、私は醜く潰れたたっくんの右目を口に含み、そのまま飲み込みました。苦味が口の中に広がりましたが、これがたっくんの味なのだと思うと、その苦味すらも愛おしく感じられました。

 どろりとした歪なそれが、体の中を通っている。

 私は快感に震えました。少しずつ地面が近づいてきます。

 真っ赤な花弁がひとひら、宙を舞いました。



「ああ……」

 私は両手で顔を覆いました。たっくんはそれを、優しく微笑んで見つめています。

「思い出したんだね」

「ああ、たっくん。私は、私は……」

 首を力なく左右に振ります。真実ほんとうの現実を受け入れられずに、涙がはらはらと零れました。

「寂しかったよね、恐かったよね。もう大丈夫、僕がいるからね」

 たっくんは顔を覆っていた私の手を優しくほどいてくれました。気がつけば私もたっくんと同じ年頃に戻っていました。

「おかえりなさい、はぁちゃん」

 たっくんの言葉に止め処なく溢れる涙を、私は腕を掴まれているせいで拭うことができません。

「ただいま、たっくん」

 それでも、何とか泣き笑いの表情を作ると、笑顔の形に細められていた目が開かれました。それは、あの日と同じ、左目に穴が開いていました。

「あっ」

 思わず声を上げたときには、たっくんの体は腐ったように崩れ始めていました。自身の異変に気づいたたっくんは、残っている瞳で優しく笑みました。

「はぁちゃんが思い出してくれたからかな。そろそろ行かなくちゃ」

 すっと差し出された手を掴もうと、手を伸ばし、私も同じように崩れ始めていることに気がつきました。

 あはは、あは、あはあは

 私とたっくんは見つめ合い、どろどろと融け出しながら、笑い声を響かせます。

 あはは、あは、あはあは

 あはは、あは、あはあ……


 笑い声が途絶えた。

 二人の姿はどこにもない。家や、村長たちの姿も。

 後には、血色に染まった二つの彼岸花が、ぼとりと落ちていた。

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彼岸花 桜々中雪生 @small_drum

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