ちゃぷん……と水音がして、私は閉じていた目を開けました。私は鼻の頭まで湯に沈んでいました。どうやら、少し眠ってしまっていたようです。もうすっかり冷めてしまった湯船から立ち上がり、ぶるりと一度身を震わすと、長湯で冷えた身体で居間へと向かいました。


 居間には夕飯の匂いが漂っていて、たっくんの一家はすでに食卓を囲んでいました。足りていないのは私だけです。

「ごめんなさい。長湯して」

 非常に申し訳なくて消え入るように謝ると、「葉月の気にすることじゃねえ。わしらも今来たところじゃけん、大丈夫じゃ」と恰幅のいいたっくんのお父さんが言ってくれ、私をたっくんの隣に座らせてくれました。

 コンビニのお弁当ばかりだった私の身体に、田舎のご飯は染み渡りました。たっくんのお母さんが茶碗によそってくれたご飯は甘くてふっくらしていて、その優しさと懐かしさに思わず涙が出てしまい、「どうした? 美味くなかったんか?」と皆に心配されてしまいました。けれど、私はおかわりまであっという間に平らげ、ほ、と息をきました。

 何だか不思議な一日でした。死んでしまったたっくんや村長が、あの日の後しばらくしてから引っ越してしまい、どこにいるのかわからないたっくんの両親が、私の前にいて、話をしている。まるで夢のようでした。


 醒めない夢の中をふわふわと磁界浮遊したまま、村長がたっくんの部屋に布団を敷いてくれた布団に潜り込むと、私はあっけなく眠りの淵へと落ちていました。



 そこから記憶がありません。目を覚ますと、自分の布団の中でした。酷く曖昧な頭で、昨日のことは夢だったのだろうかとぼんやり思いました。けれど、裸足で山を駆けた足には無数の擦り傷があったのです。その足に目を向け、ようやく私は部屋の前に立つ人に気づきました。

「父さん」

「……葉月、たっくんがまだ帰ってこんのじゃと。お前、どこにおるか知っとるか?」

 知っています。知っていますとも。けれど、ああ……私はあの時、何と答えたのでしょう。

 気がつくと、私はたっくんの家にいました。そこにいる人たちは皆黒ずくめで啜り泣いています。たっくんの家ではたっくんのお葬式が行われていました。

「あんな死に方するなんてねぇ……」

「しかも、殺したのがあの子なんて……」

 同情と悲しみの皮を被った無遠慮な人たちの声が聞こえてきます。ああ、そうでした。思い出しました。あの日のあと村の自警団に発見されたたっくんは両目を抉られ、陰茎をもがれていました。すぐにたっくんを殺した人は捕まりましたが、それが誰だったのか聞いた時、私はぞっとしました。それは、たっくんや私を可愛がってくれたお姉さんだったのです。

 彼女は小児性愛者ペドフィリアでした。たっくんに異常な愛情を抱いていて、たっくんが成長して少年の無垢な美しさが失われてしまうことを恐れたのだそうです。だから、美しいままのたっくんを手に入れようとした。けれど、たっくんをまるごと手に入れるのは大きすぎるので、中でも特に美しく輝いていた瞳と、男性であることのシンボルである陰茎だけを奪い取り、家で薬に浸けていたのです。ただ、家にあったのは左目と陰茎だけ。「右目はどこにやった」と自警団の人が訊ねると、彼女はきょとんとしてから、

「食べたわ」

 と嗤ったのだそうです。

 ああ、何てひどい。何て残酷な。ああ、ああ、ああ……。

 私はその後、町の警察署に連れていかれる彼女を見ました。あの人があんな惨いことをしたなんて……。村の人たちに交じって彼女を遠巻きに見ていた私はそう思いました。

 ずっと俯いていた彼女が突然顔を上げこちらを見てきました。いえ、正確には、私を、です。かなりの距離があったにもかかわらず、はっきりと私の目を見据えていたのです。しばらく見つめ合っていましたが、彼女の口角が徐々に上がっていくのが見えました。彼女は笑っていました。にっと歯茎を剥き出しにして。私は知っているぞ、と。

 私は身動きが取れませんでした。そこに含まれた意味がわからずに、ただ、ぞっとした感覚が腹の中心から末端にまで広がりました。

 彼女の姿が見えなくなってもしばらく足が竦んだままでした。

 それから、彼女が村に帰ってくることはありませんでした。今、どこで何をしているのでしょうか。

 淡々と詠み上げられるお経が聞こえます。お経と泣き声。耳障りなBGMに、たっくんは死んでしまったのだという現実を突きつけられました。胸は潰れそうなほど痛いのに、涙は一滴たりとも出てきません。

 夏だというのにひどく寒くて、ポケットの中に突っ込んだ手を、私は強く握り締めました。

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