彼岸花
桜々中雪生
壱
数時間を共にした運転手にお礼を告げて、タクシーを降りました。
彼岸花がふわりとそよぎます。
ざあっと押し寄せる山の気配に、私は圧倒されました。ここは、二十余年も前、私が住んでいた村です。とうの昔に、廃れてしまいましたけれど。
――ああ、やっと……やっと、帰ってきた。
はぁちゃん
懐かしい声がしました。優しい声。私はたっくんに名前を呼ばれるのが好きでした。その声で慈しむように呼ばれると、とても幸せな気分になれたのです。だから今でも耳の奥でこうしてはっきりと聞くことができるのです。
目を閉じて息を吸えば、山の匂いに包まれます。都会の澱んだ空気とは違う、清々しい空気。
――ただいまたっくん。ごめんね。ずっと怖くて……でも、やっと帰ってこられた。
はぁちゃん
また名前を呼ばれました。今度は直接、耳元に聞こえてきました。誰でしょう? ここにはもう、私を知っている人はいないはずなのに。
「はぁちゃん」
ついと袖を引かれます。閉じていた目を開けると、そこには
「……たっくん?」
そこには、二十三年前と変わらぬ、八歳のままのたっくんがいました。
たっくんは美しい子でした。田舎の子にはまるで似つかわしくない
それが二つとも、私の目の前にある。あの日から一度たりとも忘れたことのない瞳が。
その事実に私は震えました。もしかしたら夢を見ているのかもしれません。けれど、それでも構わないと思いました。
このままたっくんと二人でいたい。
「はぁちゃん? どうしたの、ぼうっとして」
たっくんに呼ばれて、私は我に返りました。たっくんは不思議そうな目で私を見つめています。そういえば、どうしてたっくんは私が大人になっていることに対して、疑いを持っていないのでしょうか。
「はぁちゃん、今日は僕の家で遊ぼうよ」
「え? ……あ」
ぐいと手を掴まれ、結局聞けずじまいのまま、私とたっくんはたっくんの家へと駆け出しました。
*
あの日、いつものようにたっくんと別れてから、私は家に帰りました。それから、いつものようにご飯を食べ、お風呂に入り、ふかふかの布団で寝るはずでした。特別なことなど、何もないはずでした。
ところが、晩ご飯の途中、家に電話が掛かってきたのです。たっくんのお祖父ちゃん――村長からでした。父が受け取った受話器から、村長の少し掠れた声が聞こえてきます。
「いつまで経っても孫が帰ってこんのじゃが……葉月と一緒におるんかいのう」
突然口の中のものが砂の味に変わりました。世界がすべて色を失ってしまったようなあの感覚を、私は今も忘れることができません。いえ、あの日からずっと、私は色を失くした世界から抜け出せずにいるのです。
「いや、娘は家におりますが……」
瞬間、私は走り出していました。答える父の声を背中で聞きつつ、玄関に備えつけてある懐中電灯を掴んで、裸足のまま外に飛び出します。呼び止める母の声も耳に届きませんでした。
「たっくん! たっくん!?」
叫びながら別れた場所まで来ましたが、そこにたっくんの姿はありませんでした。何か、たっくんの落としていったものはないか。何か……。
私は一心不乱に懐中電灯で辺りを照らします。
何か、何か、何か、何か……。
ありました。
それは、小さな小さな黒い……
血痕でした。
*
たっくんの家は、私の記憶の中と寸分
「はぁちゃんが最近
「秘密基地」
そうです。私たちには、二人だけの秘密基地がありました。いつからそこに在るのか、たっくんの家が所有する山に在る、半ば壊れかけの古びた小屋。誰も知らない、私たちだけの秘密。
今日からここは、僕たちの秘密の場所だよ
私たちの?
そう。僕たちだけの、だよ
ああそうです。覚えています。“僕たちだけの”。その甘やか言葉に、私は酔い痴れていました。大好きなたっくんが、秘密基地にいるときだけは、私だけのたっくんになる。そう思った私は、秘密基地でばかり遊ぶようになっていたのです。
――それを、村長たちは寂しがっていたなんて。
なんだかくすぐったくて、私は少し首を竦めました。
「お祖父ちゃん、ただいま」
玄関から居間に向かってたっくんが声を張ります。すると、数年前に他界したはずの村長が居間から出てきました。
「おかえり、早かったのう。おお、葉月も来てくれたんか。上がってけ、上がってけ。それにしても久し振りじゃのう、元気にしとったか?」
「は……はい、おかげさまで。村長もお元気そうで、何よりです」
お邪魔します、と靴を脱ぎつつ答えると、村長は驚いた顔をしました。
「よそよそしいのう。お前、この間まで村長なんて呼び方しとらんかったじゃろうが」
「はい、でも……」
「話し方もな。しばらく来んかったけぇいうて、遠慮なんか要らん。今まで通りでええ」
変わらない、と思いました。変わらない。ところどころ穴の開いた口でかかかと軽やかに笑う声も、少し薄くなった白髪も。
だから、あの頃に、心が帰れたのでしょう。
「ただいま、おじいちゃん」
あの頃のようににっこりと笑います。村長が満足げに大きく頷きました。
「よう来た、よう来た。思う存分遊んでけ」
うん、ありがとうとだけ答えて、手を引かれるままたっくんの部屋に向かいました。
たっくんの部屋も、何も変わっていませんでした。
何だか懐かしいな、とたっくんが寝転んだので、私も同じようにごろりと
いつまでも話は尽きませんでした。ようやく話すことがなくなり、窓の外を見ると、陽はもうほとんど落ちていました。
「そろそろお暇するね」
立ち上がり言うと、たっくんが寂しそうな顔になって、
「もう帰るの? 夕ご飯食べて帰ったらいいのに……」
「うーん、でも」
帰らなきゃ、と言おうとして、ここには帰る家がないことを思い出しました。けれど、ここに泊めてもらうのは申し訳ない。そう考えていたちょうどその時、部屋の引き戸ががらりと引かれ、村長が入って来ました。
「なんじゃ、葉月、帰るんか? 泊まってきゃあええのに」
それを聞いて、しめた、とでも言うようにたっくんの目が光りました。
「ほら、お祖父ちゃんもこう言ってるし、お泊まりしてよう」
たっくんと同い年だった時も綺麗だと思っていましたが、年上になって見てみると、たっくんなより美しさを増して見えます。そんなたっくんに見つめられると、断ろうと思っていた心はしおしおと萎み、音もなく消えてしまいました。
「でも、お母さんたちが……」
それでも少し意地になって抵抗してみましたが、「そんなもん、電話すりゃあええことじゃろうが」と正論で返され、半ば強引にたっくんの家に泊まることになりました。とはいえ、久し振りのお泊まりだったので、嬉しかったのですけれど。
たっくんと一緒に居間へ行くと、たっくんのお母さんが台所で夕飯の支度をする音が聞こえてきました。竈にかけられた火はぼうぼうと燃え、トントントンと小気味いい包丁の音が鳴っています。
「おばちゃん、私も手伝うよ」
もう大人になったから、少しは手伝えるかもしれない。
そう思っての申し出だったのですが、「気ぃ遣わんでええで。今日は暑かったじゃろ? おじいちゃんがお風呂炊いてくれよるけん、ご飯の前にお風呂入っといで。一番風呂で」とやんわり断られてしまい、いまだに子供扱いされていることに、少し苛立ちを覚えました。けれど、たっくんの家族に私も娘のように思ってもらえていることは嬉しく、事実私は少し汗をかいてもいたので、お言葉に甘えてお風呂に入らせてもらうことにしました。
ざぷんと湯船に身を沈めると、村長に外から声を掛けられました。
「湯加減はどんなか。熱うないか?」
「大丈夫、丁度ええよ。ありがとう」
本音を言うと少し熱かったのですが、ユニットバスのシャワーとは違う心地よい熱の懐かしさにそう言うと、「そうか」とだけ呟いて、村長は家の中へと入って行きました。
誰もいなくなった外はやけに静かで、炎の影が夜の森に揺らめいています。パチパチと薪の爆ぜる音を聴きながら、私はゆっくりと目を閉じました。
*
血痕。
それがたっくんのものだという根拠は何もありません。けれど確かに私は、それはたっくんのものだと思ったのです。
ならば、たっくんは? たっくんはどこにいるのでしょう。
――秘密基地かもしれない。
何故か私は鮮明にそう感じました。それ以外どこにもあり得ないと。
そう思うや否や、私はまた走り出しました。全速力で田んぼの畝道を走り、木々の間をくぐり抜け、山を駆け上がります。湿った落ち葉を踏みつけ、枝を掻き分けて、私はひた走りました。歩き慣れた大好きな道なのに、この時はひどく鬱陶しく感じて、木の根に幾度も躓きました。
「たっくん!」
ようやく辿りついた秘密基地に転がり込むようにして入ると、私は目の前の光景に瞬きを忘れました。
夥しい数の彼岸花が毒々しく咲いていて、確かにそこにたっくんはいました。
「……たっくん?」
私は横たわるたっくんの傍らにしゃがみこみ、恐る恐る頬に手をやります。そこはもう冷たくなっていて、こびりついた赤黒い血も固結していました。
たっくんは死んでいたのです。
たっくんの双眸は、もう深い海ではありませんでした。ただの闇です。冷たくて、纏わりつくようで、それなのにどこまでも深くて……。そこには二つの穴があるだけでした。
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