立って歩かせる三本足のフェレット

増田朋美

立って歩かせる三本足のフェレット

立って歩かせる三本足のフェレット

今日は、穏やかに晴れて、暖かい日であった。毎日のんびりとした日々が続いていくが、その日も特に雨は降らず、冬らしく晴れて、さわやかな日だった。今日もなんだか冬らしくない日だね何て通行人たちは言い合っていた。そんな日は、若い人は平気で出かけてしまうが、それ以外の人はちょっと不安だね何て言いあうのだった。それではいけないと、テレビや新聞などで、注意を呼び掛けているが、平民にとっては、何をするにしても、いつも通りにやっていくしかできないのであった。そんな日々が毎日毎日続いている今年の冬であった。

その日、杉ちゃんが、製鉄所へ手伝いをするためにやってきた。時々、利用者から着物を縫ってとか、食事をつくってとか仰せつかって、杉ちゃんが製鉄所へ来訪することはこれまで以上に多くなった。お金をやり取りするのを嫌う杉ちゃんだから、プロという訳ではないけれど、手伝いをさせれば、一級品の料理を作ったり、着物を縫ったりしてくれるので、杉ちゃんは結構使える存在である事は間違いなかった。

今日もそういう訳で、杉ちゃんが利用者たちの食事を作ったりしている間、フェレットの正輔は、水穂さんのところに居た。正輔は、暇があれば水穂さんのところに行きたがる。理由はよくわからないけれど、正輔は水穂さんの事が好きなようだ。男同士で楽しいのかな、正輔君、本当はゲイなんじゃないかとか、利用者たちはそんな噂をしたこともあったが、一向に平気だった。

杉ちゃんは、そんな正輔の事をマー君と呼んでいた。本名で呼ぶのを嫌う杉ちゃんだから、みんなにマー君と呼んでくれというので、正輔の事はマー君という呼称が定着した。

水穂さんが、いつも通り布団で眠っていると、車いすに乗っている正輔がちょこちょことやってきて、いつものようにちーちーと声を上げるのであった。しまいには、水穂さんの顔をなめて起こしてしまった。水穂さんが目を覚まして、弱弱しく、こら、よしなさいと言っても、聞かなかった。

丁度そこへ、花村さんが、出げいこの帰り際だと言って、製鉄所へ見舞いにやってきた。利用者に連れられて四畳半にやってくると、正輔が布団で寝ている水穂さんの肩に乗って、ちーちーと声を上げていた所だった。

「こんにちは、水穂さん。」

花村さんがそういうと、正輔もそれに気が付いたのか、水穂さんの方から降りた。花村さんは、その背中をなでてやった。

「こんにちは、正輔君。ああ、いつもはマー君と呼ばれていたんでしたよね。元野良フェレットだったそうですが、今はぜんぜんその面持ちはありませんね。」

花村さんは、マー君の顔を見て言った。

「ああ、ありがとうございます。マー君良かったね。誉めてもらって。」

水穂さんがそういうと、ちーちーと声をあげて、正輔は返答した。

「随分、僕の事を気にいってくれているようで、こうしてよく体に乗って遊んでいます。」

水穂さんはそういった。このときは、咳き込まなかった。それを見て、花村さんはあることを思いつく。

「水穂さん、たまには起きてみたらいかがですか。マー君がいてくれれば、体の負担もさほど感じないのではないですか。」

花村さんはそう提案した。

「ちょっと起きてみるのも悪くないと思いますよ。疲れたら、その時に休めばそれでいいんだし。」

「あ、はい。」

花村さんに言われて、水穂さんは、よろよろと布団のうえに起きた。正輔が心配そうに見ている。花村さんは急いで半纏を水穂さんの肩にかけてやると、正輔が水穂さんの膝の上に乗りたがったので、ついでに乗せてやった。

「やっぱり水穂さんの事が好きなんですね。あんなに楽しそうな顔をしているじゃありませんか。水穂さんに出会えてよかったんでしょう。」

花村さんはにこやかに言った。水穂さんは正輔のからだをなでてやった。正輔もちーちーと声を上げて、それに応えた。

「じゃあ、水穂さん、起きられたんですから、しばらくそのままでいましょうね。ほら、マー君も膝の上に乗っているんですからね。」

花村さんにそういわれて、水穂さんは、暫くそのままでいた。でもちょっとばかり辛そうな顔をしているのは疑いなかった。花村さんも水穂さんの隣に座る。

「ほら、今日はちょっと寒いですが、のんびりしていて穏やかな日ですよ。どこかへ行きたくなるような日じゃありませんか。どうですか、少し立って歩いてみては?」

花村さんはそういってみるが、水穂さんは首を横に振った。

「どうしてですか?歩いてみる気にはなりませんか?」

水穂さんは、はい、と小さな声で言う。

「そうですか、やっぱり駄目ですか。」

暫く、花村さんはがっかりした顔をした。実は、水穂さんの、この一連の問答は、今日にして始まったわけではない。もうかなり前から、水穂さんは座るどころか寝たきりの状態になっていた。もちろん、病気のせい、と言ってしまえばそれまでだけど、何処か最近覇気がなく、毎日疲れ切った様子でいた。そこからどうしても立ち直ってほしい、花村さんやほかのメンバーたちは、何とかして彼に再び歩いてもらえないか、ありとあらゆる手段を試行錯誤していたのである。しかし、いずれも試みては失敗に終わっており、もう立って歩くことはできないだろうなと、否定的な意見も数々出るようになっていた。

「それじゃあ、立って歩くのはまた次の機会にしましょうか。」

花村さんはちょっとため息をついて水穂さんの方を見た。できれば、水穂さんにもうちょっと意欲的になってほしい。とりあえず、杉ちゃんが、利用者の食事を作り終えるまで、正輔は製鉄所にいることになっているから、その間だけ座っていてもらえないかと思った。だけどそれは無理そうで、水穂さんは、三十分も座っていることはできなかった。また花村さんに支えてもらいながら、布団の上に横になるまで、正輔は水穂さんのそばを離れなかった。

「ほらマー君、ありがとうな。また呼び出しがあったら、こっちに来るからよ。水穂さんの相手をしてやってくれよな。」

杉ちゃんが迎えにやってきて、マー君は一緒にかえって行くころには、水穂さんはもう疲れ切っていて、布団で眠ってしまう始末だった。


その数日後。また杉ちゃんがマー君と一緒に、製鉄所にやってきた。また利用者の食事を作りに台所に行き、正輔は、同時にやってきた、花村さんと一緒に四畳半へ行った。

「ほら、水穂さん、またマー君が来ましたよ。ちょっと相手をしてやってくれませんか。」

花村さんは、正輔を水穂さんの枕元に放してやると、正輔は、ちーちーと言って、水穂さんの肩に顔を付けた。マー君相当水穂さんの事が好きなんですね、と、花村さんは笑っていた。

「マー君ね、一寸手伝っていただけないでしょうか。」

花村さんは、マー君にそういうと、水穂さんに向かって、

「ちょっと、今日も起きてください。」

と、お願いした。正輔も、花村さんのお願いを代弁するように、ちーちーと声を上げて、水穂さんの肩から降りた。水穂さんは、布団の上に、よろよろしたような感じで起きた。そして、どうにかこうにかという感じで正座の姿勢で布団のうえに座る。

「よし、今日は立ってみますか。寝てばかりいては体が鈍りますでしょうが。」

花村さんがそういうと、正輔も彼の事を応援するように、ちーちーと声を上げるのだった。

「ほら、マー君も応援してくれているじゃないですか。マー君、ご協力ありがとうございます。水穂さんも、応援してくれているんですから、それに応えないと。」

花村さんは、出来る限り水穂さんには寝たきりになってもらいたくないという思いを、顔に出さないように気を付けながら、水穂さんにそういった。

「其れではいいですか。私がお体を支えますから、立ってみてください。マー君の期待にも応えないとね。行きますよ。そうれ。」

花村さんはそういって、水穂さんの手を取った。正輔もそのそうれに合わせて、復唱しているつもりなのか、

「ちーちー。」

というのであった。水穂さんは、重たい体を何とかして持ち上げて、よいしょ、と立ち上がった。。

「よし、立てたじゃないですか。一度立てたんですから、これで立ち上がれますよ。まだまだやっていけるじゃないですか。しっかり意識を持てば、毎日立つことだってできるんじゃありませんか。」

花村さんがそういっているが、水穂さんは足がふらふらしていて、支えが無ければ倒れそうな感じだった。

「おーい、ご飯ができたぜ。水穂さんも食べようぜ。」

と、杉三が、お盆を車いすの上に乗せてやって来た。水穂さんは、花村さんに支えてもらいながら、なんとかして杉ちゃんの方を見た。

「おお、立っているじゃないか。もう無理かなって諦めていた所だったのに、出来るようになったのか。そんなところまでできるようになったのは、何年振りか。ははは。」

「もう、何年振りは大げさですけど、ずっとできなかったことは確かですから、喜ばしいことではありますね。」

杉ちゃんがそういうと、花村さんはにこやかに笑った。

「ほら、やっと立てるようになったんですから。少し歩いてみましょうか。縁側を歩くだけでもちょっとやってみましょう。」

花村さんにそういわれて、水穂さんは、ゆっくり歩きだした。まだよろよろして、時に倒れそうになる歩き方であったが、花村さんの肩を借りて歩いていた。亀より遅いペースであったが、一寸ずつちょっとずつ、歩いていくのである。正輔も杉ちゃんの製作した自分の車いすを動かしながら、水穂さんの事を応援している。

「マー君のいてくれるおかげで、一寸だけでも水穂さんが意欲的になってくれるようになりましたね。

本当に良かったですよ。」

正輔を眺めながら、花村さんが言った。それはよほどうれしいのだろうか、花村さんの口調は明るかった。

でも、十歩くらい歩いて、水穂さんは、座り込んでしまった。でも、誰も水穂さんを責めることはしなかった。すぐに布団に横になりましょうね、と花村さんが言って、水穂さんをまた立ち上がらせて、布団のある方へ移動させた。再び水穂さんは倒れるように布団に横になった。花村さんにかけ布団をかけてもらって、また、しずかに眠り始めてしまったのだった。

「たったの十歩だけですが、歩いてくれました。あとは水穂さんのやる気次第ですが、本当に歩けるようになるもの、遠くないかも知れないですね。」

「其れも、こいつのおかげだよ。幸せを運ぶ三本足のフェレット。マー君、ありがとうな。これからもよろしく頼むぜ。」

眠っている水穂さんの声を聞きながら、杉ちゃんや花村さんは、そんな事を言い合っていた。正輔は、というと、自分の事をほめてもらっているとは理解できなかったようで、ただ水穂さんのそばでちーちーと声をあげているだけなのだった。それはまるで、人間の子供にそっくりで、言ってみればお世辞も、社交辞令も知らない子供という感じであった。


その数日後、杉ちゃんがまた正輔を連れて製鉄所へやってきた。水穂さんは相変わらず布団のうえで寝ていたが、杉ちゃんが花村さんに、正輔を頼むとお願いしている声を聞くと、すぐに目を覚ました。。

「こんにちは。」

水穂さんは、花村さんに抱っこされた正輔を、そっと腕を伸ばしてなでてやった。正輔はすぐに畳の上に卸されると、ちょろちょろと水穂さんの方へやってきた。そして、こんにちは、と言っているつもりなのか、ちーちーと声をあげ、挨拶をするのだった。

「水穂さん、今日はもう少し立って歩いてみますか。マー君も一緒にいるんですから、庭に出られるのではないでしょうか?」

花村さんに言われて、水穂さんは布団のうえに起きた。ここまでは支え無しでも、いつの間にかできるようになっていた。

「よし、起き上がれたんですから、次は立ってみましょうか。」

正輔もちーちーと声をあげ、応援している。

「はい、立ってみましょう。行きますよ。せえの。」

花村さんは水穂さんの手をとり、よいしょと引っ張って水穂さんを立ち上がらせた。水穂さんは、花村さんに肩を支えてもらいながら、よいしょ、よいしょと歩き始める。

「ほら、行きましょう。縁側に出て、庭を散歩してみましょう。行きますよ。」

花村さんに体を支えて貰いながら、水穂さんは廊下へ出た。廊下は鴬張りになっていて、歩くときゅきゅという音がした。水穂さんはその音を確かめるように静かに歩いた。

「大丈夫、大丈夫です。お庭に行くことができます。」

花村さんの後を、正輔が車いすで追いかけてくる。時折ちーちーと声も出す。水穂さんに頑張れと伝えているのだろうか。

「はい、いいですよ。大丈夫。行きましょう。」

花村さんはそういって、水穂さんを縁側から外へ出させるための敷石の上に立たせた。敷石には、外履きようの下駄が二足置いてある。二人はそれを履いた。水穂さんは、下駄を履くのにちょっと苦労したが、なんとか自力で下駄を履くことができた。

「正輔君。いや、マー君と呼んだ方がいいですね、一寸こっちへ来てくれませんか?」

花村さんがそういうと、マー君は縁側にやってきた。水穂さんは、正輔を抱え上げて、よいしょと庭を歩きだした。花村さんはそれを支える。そして、庭の中心に向かって、歩き始めた。

「どちらへ向かわれますか?」

花村さんが聞くと、

「ええ、リンゴの木の方へ行きたいんです。」

と、水穂さんは答えた。

「じゃあ、そちらへ行きましょう。」

正輔が、水穂さんの腕の中でちーちーと鳴いていた。花村さんは水穂さんの体を支えて、リンゴの木の方角へ方向転換させ、再びリンゴの木迄歩かせた。一緒に歩く、花村さんも、なんだか神頼みしているような顔をしていた。

それくらい、水穂さんが歩くのは、絶望視されていたのである。診察のとき、帝大さんこと沖田先生は、もう歩行は無理でしょうとはっきり言っていた。筋肉の萎縮が、すごいスピードで進んでいると。そのうち、歩行もできなくなり、食事もとれなくなっていって、どんどん弱っていくだろうとも言った。ほかの人たちは、それを聞いて泣いていた。杉ちゃんだけがそうなってしまったんだからしょうがない、と言っていた。みんな、もうこれであきらめるしかないだろうと言っていたが、花村さんだけが、まだ可能性はあるのではないかと主張していた。それを実現するのを助けるように、正輔がここへ現れてくれたのだ。マー君、水穂さんのために来てくれてありがとうね。マー君、君は、もう水穂さんにとってはなくてはならない人だよ。

「あ、水穂さん、気を付けて。」

時々よろめいて転びそうになる水穂さんに、花村さんはそう励ましながら、なんとかリンゴの木まで、水穂さんを歩かせるのだった。

「ほら、もうちょっとです。頑張って!」

と、花村さんに励まされながら、、水穂さんはなんとかリンゴの木の下までたどり着いた。リンゴの木は、朱い実をたくさんつけていた。鈴なりだった。

「それでは水穂さん、リンゴの木の下まで着きましたが、これからどうしましょうか?」

花村さんがそういうと、水穂さんはリンゴの木の、一番近くに垂れている枝迄手を伸ばした。花村さんがそれを支える。マー君が落ちてしまわないように、見張りもしなければならない。ちょっと緊張が走る瞬間であった。

水穂さんは、ぎこちない手つきで、でも、一生懸命手を伸ばして、リンゴを一つとった。

そして、それを左腕で抱えていた、正輔の口元へもっていく。正輔はそれを一つしかない前足で受け取り、おいしそうにリンゴを食べ始めた。

「どうですか、マー君おいしい?」

そう優しく尋ねる水穂さんに、正輔はちーちーと声を上げて答える。

「ああやっと、そうやって周りに関心を持ってくれましたか。」

水穂さんを支えていた、花村さんも嬉しそうに笑った。正輔がいてくれたおかげで、水穂さんが再び歩き出してくれたのである。やっと、想いがかなったと、花村さんはおおきなため息をついた。

「マー君、有難う。」

そっと、彼の頭を撫でてやろうと思ったが、余りにおいしそうにリンゴを食べているので、それはやめておいた。

それより、水穂さんがふらついてしまわないか、見張っていなければならなかった。でも、水穂さんは、しっかり立っている。あの、割りばしのようなやせ細った足では、もう立てないという意見が大半だったけれど、水穂さんはしっかりと立っていた。人間、まだまだ可能性はあるなと、花村さんは感動したのか、ほっとしたのかわからない溜息をつく。

正輔は、リンゴを芯が見えるぎりぎりまで食べてしまった。もともと、陸奥のような大きなリンゴがなるような大木ではないから、リンゴはすぐになくなってしまうのであった。それでは、水穂さん、今日はよくやりましたね。布団へ戻りましょうか、と花村さんが言うと、水穂さんははいと力なくうなづく。そして、花村さんに支えてもらいながら、なんとか方向転換して、また歩き出すのだった。今度は、リンゴの木へむかって歩いた時よりもっと遅かった。正輔は、水穂さんの腕の中で、大丈夫かと心配そうに彼を見つめているのだった。

ようやく、四畳半の布団が見えたときは、ずいぶん時間がたってしまったような気がする。花村さんに支えてもらいながら、水穂さんは何とかして下駄を脱いだ。そして、また割りばしよりも細い足で縁側を歩き、一寸休ませてもらった布団の中に、倒れるように入るのだった。正輔は、水穂さんの腕から離れて、すぐ近くにちょこんと座った。

「水穂さん今日は、歩けましたね。」

花村さんは、にこやかにわらって、かけ布団をかけてやった。水穂さんは、

「ええ、有難うございました。」

と、ほっと溜息をついて、目を閉じようとしたが、

「ちょっと待ってくれますか。お礼なら、このマー君に言ってやってください。私は、手伝いをしただけの事ですから。」

と、花村さんはそういって、正輔の体を持ち上げた。水穂さんはそっと、正輔の頭をなでてやった。




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立って歩かせる三本足のフェレット 増田朋美 @masubuchi4996

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