命日には、焦げ焦げのチキンステーキを食べる
強いて言うならば、おいしいものを普通に食べたい。ただそれだけ。
しかし、そんなある意味当たり前のことが今一つ叶わない程度に、樹は運がない。
少し前、高校の時からの友人と、その彼女と三人で飲んだ時にそんな話をしたら、ほぼ初対面の友人彼女に懇々と諭された。院卒で社会人になったばかりで、よくわからないが社会課題とやらに興味があるらしい若い彼女は、環境負荷が、貧困が、持続可能な開発目標が、アジェンダが、と並べ立て、「黒川さんのような自分のことしか考えない利己的な方が、社会課題解決の足を引っ張っているのです」と締めくくった。
せっかくの休日、友人との久々の飲み会。なのに四十男向きとは言い難い洒落た居酒屋で、見た目はいいがよくわからない創作料理を食べ、薄いウイスキーの水割りを飲みながら、なぜか友人の若い彼女に説教される――そういう運のなさだ。
なお、Mっ気のあるらしい友人は、彼女のそういうところが好きらしいので、説教の余波を激しく食らいながら終始デレデレしていた。挙句、「黒川も諦めずに探せよ、相手。いいもんだろう」と。余計に救われない。
樹も別に諦めているわけではない。ただ、そういう相手の探し方が、正直わからない。
大学二年の時から付き合っていた同じ歳の彼女と別れたのが五年前、三十五の時。大学生の頃には簡単にできたことが、今となってはなぜできないのかというのはわかる。仕事が生活の軸になってしまっている以上、私事かつ相手のことも慮らなければならないことというのに時間が割けない。
あとは、やっぱり、自分の食に係る微妙な運のなさが怖い。
十五年間付き合ってきた彼女と最終的に結婚に至らなかったのも、「食」を含む生活の質について折り合わなかったからだ。
別れるまでの三年間、彼女と同棲していたが、その間、樹は家事をしなかった。かといって彼女がこなしているわけでもなかった。そして、別に樹はそれでもよかった。
もともと丈夫とは言い難く、あっという間に癌に冒され亡くなった母親のことを思えば、無理をさせたいとは思わない。なんだったら自分ができる。
早くに亡くなった母に代わり、家のことを請け負ったのは樹だった。家事というほどのことはできていなかったが、家のことは本当になにもできなかった父親と五歳下の弟の日常をなんとか支えるくらいのことはできていたと思う。だから、彼女が無理をするくらいなら自分が背負ってもいい。そんな考えが、彼女とは合わなかった。
日常的に彼女をいたわりつつ、いざという時は自分よりも家のことをこなせる樹が、彼女はいつの間にか疎ましくなっていたらしい。
決定打は、疲れて帰宅した彼女のために時短でつくったミネストローネ風の煮込みだった。
樹自身疲れて帰ってきていたが、外食も億劫という彼女のために、それならばとつくった料理が原因で別れるはめになるなど、誰が予想などできるのか。少なくとも樹には予想できなかった。
これはもうだめだと思った。十五年一緒にいながら三年一緒に暮らしただけで崩壊。自作のミネストローネ風の煮込みがおいしかった分、なんだかひどく傷ついて、臆病になった。
別れたあとは自分でなんでもこなすことにした。あと、どんなに忙しくても自分の食だけは自分で守ることにした。
なので一年ほど前、当時、弟の婚約者だった義妹の
相手が誰であろうとその存在は、自分自身の食の運のなさにより、いずれ自分にとって嫌な存在になる。
父親も既に亡く、たった一人の肉親となった弟には末永く幸せでいてもらいたい以上、その妻の兄を嫌いになりたくはない。しかも、名状しがたい運のなさのせいで。
にもかかわらず受け入れたのは、弟の
しかし、樹は、義妹の兄こと
稼ぎがあって、繊細過ぎない穏やかな性格で、かつこだわりが少なければ平坦ながら生きていける、という樹の人生観を揺さぶる青年。
稼ぎはある。繊細過ぎず穏やかな性格というのもそう。だが、放置したら弟夫婦に面倒をかけかねず、最悪ある日孤独死しかねない、覇気のなさ、精気のなさ。それは直感、印象でしかない。しかし、自分が世話をしなければ、いずれ弟夫婦が面倒を見ることになる。およそ現実的ではない、そんな奇妙な確信。
だが、行き場のない子猫か子犬かを拾うかのように樹は手を差し伸べた。
「君がよければルームシェアさせてほしいんだけど、どうだろう」
子猫でも子犬でもない二十六歳の青年は「あ、はい」と言った。
そうして弟夫婦の結婚と同時に始まった、義妹の兄とのルームシェア。
義妹の紗都とその兄の夏都が二人暮ししていたマンション。家賃負担は樹と夏都で2対1だが、樹からしたらそれまで独り暮らししていたマンションの3分の2。通勤距離も3分の2。そして、ルームメイトの夏都はすこぶるおとなしかった。逆に不安になるほどに。
しかし、話かければ、聞く、答える。飯をつくって出せば食べる。散らかしたら片づける。汚せば掃除する。ただ、反応は全体的に薄い、見た目は普通の、取り立ててなにもない青年男子。
ひょっとして言い方は悪いが手のかからないペットを弟夫婦から預かっていると思えばいいのかと安堵したのも束の間、夏都は料理を手伝うということを覚え、料理自体を意識するようになった。
そして、今朝、
「樹さん、今日、オレが晩ごはんつくっていいですか」
と夏都は言った。
「うん? うん、いいよ」
別に確認しなくてもと思いながら、訊いてくるということは一緒に食べたいということかと察する。
あくまでルームシェア。一緒に夕食を取ることはあまり多くない。
「なにをつくるの?」
「えっと……ですね。つくれたら、お知らせします」
つくれたら。
胸のあたりがざわつく。つくれない可能性があるものをつくるつもりかと当然のように湧いた一抹の不安の奥にうごめくよくない予感。
夏都が料理に関心を持つまでは感じなかった、食に係る運のなさ。それがここにきて再燃している。
まずは朝食の手伝いからと始めた日から二ヶ月ほど。朝食に関していえば焦げた目玉焼きや、レモン汁とマヨネーズのサラダからようやく脱出できそうな気配があり、夕食に関していえば廃棄率控えめの皮むきができるようになってきたところだった。というか夕食では、下ごしらえか仕上げかどちらかだけで1メニューまるまる任せたことがほとんどない。
なのにいったいなにをつくろうと。
あえて訊いた方が良いのか、黙って任せた方が吉なのか。軽く逡巡し、樹は諦めた。たぶん、いずれにしても運がない樹は外す。
結果、今日の夕食は焦げ焦げのチキンステーキ。
「その、実は今日が、ですね、うちの母方の祖母の命日で……」
白い皿に載せられた黒い塊を前にして俯いた夏都が語る。
「ここ最近、結構頻繁にごはんの仕込みのお手伝いをさせていただいていたからだと思うんですが、祖母が鶏ももの照り焼きをよくつくってくれていたことを思い出して、それで……」
照り焼きは初心者向けではない。最低でも「甘い、砂糖、カラメル、焦げやすい」くらいの連想はできないと。
目玉焼きを焦がした時に「火をしっかり通したいならば蓋をして弱火」というのは教えていたが、結果からして応用ができなかったか、夏都の予測以上に焦げるのが早かったのか。
たぶん半生だろうなと思いつつ、焦げ焦げの肉にナイフをぐいっと入れる。案の定、ざりっと固いのは表面だけで、なかは生肉の感触。覗き見た断面は肉の色そのまま。
捨てなかったのはきっと今日がおばあちゃんの命日で、照り焼きがおばあちゃんの思い出の味云々だからだよなあ、と内心でため息をついて「大丈夫だよ」と笑って見せた。
「レンチンしたら食べられるよ」
その瞬間、普段は表情の薄い顔が、ぱっと明るくなったような気がした。
「ありがとうございます、その……ごめんなさい」
「いいって、いいって」
そうと決まればさっさと焦げ焦げの肉をキッチンスペースに運び込み、切り込みを入れて、電子レンジへ。
照り焼きならばと、酒と醤油とみりんと砂糖を小鍋に入れて火にかける。夏都の祖母の味とは異なるだろうが、夏都はそれでぐちぐち言うタイプでは、たぶん、ない。たぶん。
レンチンした肉と、照り焼きのたれが入った小鍋をテーブルに運ぶ。ついでに冷蔵庫のなかの、和風の作り置きおかずも適当に皿に盛って出す。
「肉の表面削ぎ落して、小鍋の照り焼きのたれをかけて食べたらいいよ」
きっとほっとしたような表情になるだろう。けれども、そんな予想に反して、夏都はどこか暗い表情で、焦げ焦げの肉をそのままナイフで切り分けて口に運んだ。
「夏都くん?」
焦げ焦げの肉を咀嚼しきった夏都は「だめだと思ったんです」と言った。
「命日に食べものを粗末にするなんて。なにより樹さんが食べられるようにしてくださったのだから全部食べないと」
そして、さらなる一切れを口に運ぶ。
「あ……ああ、うん、なるほどね」
焦げ焦げの鶏もも肉。真剣に食べている義妹の兄を無視して、焦げた表面を削いで食べることができるなら、たぶん、食の運も、いくらかマシだったのではないか。
ふとそんなことを思うくらい、焦げ焦げの鶏もも肉は苦かった。
兄ふたり、飯を食う。 梅比良望 @umehiranozomi
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