兄ふたり、飯を食う。
梅比良望
嬉しいことがあった日は、一緒に作った肉じゃがを食べる
めずらしく帰宅時間が完全に同じだった。
妹の夫の兄。一回り以上歳が離れていて、片や老人福祉施設の事務職員、片や製造業の営業職。生まれも育ちも学歴もいよいよ接点がなく、お互いの妹弟だけでつながっているだけの同性の同居人と、マンションのエントランスに同着。
驚いたような顔をした妹の夫の兄ことイツキさんは、すぐに表情をほころばせ、
「今日は肉じゃが」
と言った。同時にこちらへ持ち上げて見せたエコバックには、たぶん、その材料が入っているのだろう。
「なにかいいことがあったのですか?」
感じたままを口にしたら、イツキさんはまた驚いたような顔をしたあと、笑った。
「おもしろいくらいいろいろうまくいってね。さらに直帰までできた」
イツキさんとルームシェアを始めて半年くらい。
半年前まで一緒に暮らしていた妹のサトが「兄貴、引っ越さなくてもよくなったよ。家賃折半でルームメイトになってくれるって」と紹介してくれた妹の夫の兄。オレはまだその人、イツキさんのことをよく知らない。忙しい人なのに家事全般が当たり前になっていること。食事はどんなに忙しくても原則自炊なことくらいか。
とにかくイツキさんは忙しい人だ。あってないような定時の前後に営業先から直接帰ることができる日は奇跡だと、そんな話を前に訊いた。
そういえば、その日も肉じゃがではなかったか。
「直帰できた日は肉じゃがなのですか?」
エレベーターに乗り込んでボタンを押しつつ訊く。
うん? と首を傾げてから、ああ、とイツキさんは頷いた。
「ここのところの状況からしたら、直帰できたら無条件かつ無意識に肉じゃがを選択してもおかしくないっていうか……うん、現に選択しているな」
どういうことだろう。直接関係はないということか。
そんなオレの疑問を察したのか、
「嬉しいことがあった日は肉じゃがなんだ、僕的に」
と言った。
「イツキさんちの慣習ですか」
「そんな大げさなもんじゃあない気がするけど、でも、まあ慣習かなあ……」
エレベーターから出て、あまり幅のない通路をイツキさんの後ろについて歩く。7階建の賃貸マンションの最上階2LDKの角部屋。妹と暮らしていた時は、オレと妹と両親と1対1対1で家賃を負担していた。今はイツキさんとオレで2対1。イツキさんより前はなんとなく歩きにくい。
「うちの父親がね、カレーやシチューの類が嫌いだったんだよ」
さっと解錠して玄関で靴を脱ぐなり、明かりをつけながらイツキさんはダイニングキッチンへ向い、流れるように上着を脱いでダイニングの椅子に掛ける。そして、「小さい頃は母親も鍋を分けていたんだけどね」と言いながらキッチンのシンクで手を洗い、長年住んでいるかのように棚から引き出しから手際よく調理道具を出していく。
「僕とアユムにはカレーもしくはシチュー、父親用に僕らのカレーやシチューと具材が同じ肉じゃが」
「ホワイトシチューの時はどうしたんですか」
イツキさんの手際を眺めつつ問う。
「ホワイトシチュー?」
「鶏ですよね、ホワイトシチュー」
なにかおかしかったのか「ああ、なるほど」と笑ったイツキさんは、
「いや、鶏でも美味しいよ、肉じゃが」
と言った。
「正確には肉じゃがじゃあないのかもしれないけど。今度つくって食べさせてあげるよ」
「ありがとうございます」
「とりあえず今日は牛肉の肉じゃがだ」
エコバッグから取り出されたトレイを見て、オレは少し驚いた。
「塊ですか?」
赤身の塊。ラベルにはアメリカ産牛モモブロックと書いてある。100g298円が300g。
「うん。嬉しいことがあった日は、元々はビーフカレーかビーフシチューだったんだよ。僕が中一の時……だったかなあ、その冬のマラソン大会後の夕飯まで」
パックから取り出された塊肉が、イツキさんがこまめに手入れをしている包丁で、ちょっと厚めに切り分けられていく。
「その日、僕はマラソン大会で元気に一等賞なんていうのを獲ったのだけど、アユムがね、ちょうどインフルに罹っちゃっていたんだ」
イツキさんのお母さんは、嬉しいことがあった日だからとイツキさんのためにビーフカレーをつくった。でも、イツキさんの弟、オレの妹の夫のアユムさんは、インフルエンザで食欲が落ちていたのもあって、イツキさんのお父さんと同じく肉じゃがになった。
「母親はそれまでいつも僕たち兄弟と同じものを食べていたのだけれども、別に子どものことを考えてではなくて、カレーやシチューの素の、量の問題だったんだよね。だから、その日は母親も肉じゃがを食べた」
サラダ油をひかれ、熱せられた鍋に牛肉が並べられる。
じゅわじゅわ音の立つ鍋のなかに視線を落とし、イツキさんは目を細めた。
「それがさあ、すごくねえ、寂しかったんだよ」
「嬉しいことがあった日なのに、独りだけ別のものを食べたから、とかですか?」
「ううん……いや、そうだったからだね。父親にすごく申し訳ない気分になったんだ」
鍋から目を離したイツキさんは、野菜を洗い、並べ、切っていく。
「カレーとかシチューとかが嫌いだからって独り肉じゃがだったっていうこと自体は父親のワガママってことでいいと今も思う――」
剥きかけのじゃがいもから手を離したイツキさんは、菜箸で鍋の牛肉をささっとひっくり返す。
「――でも、家族の誰かに嬉しいことがあった日に、独りだけ別のものを食べているのは寂しいことなんじゃあないかって」
そうして再びじゃがいもと包丁を手に取って素早く剥き、四分割に切っていく。
「そのあとそれを母親になんとなく伝えたんだ。思春期に片足突っ込んでいた頃だったからすごく嫌だったけど。でも、それ以上に言わないでいるのが嫌でね。それからうちの家では、嬉しいことがあった日のメニューは、ちょっと贅沢な牛モモの肉じゃがになった――アユムには悪いことしたかなと思ったけど、あいつその時は、そもそも嬉しいことがあった日のメニューがあることに気づいてなかったしね」
切られたじゃがいもが次々と耐熱皿に入れられていく。
さすがに隣で話を聞きながら眺めるだけというのに気が引けてきて、にんじんを指さして訊く。
「手伝いましょうか」
「ああ、うん、ありがとう。よろしく」
とイツキさんは笑顔で頷いた。
「大きさは適当でいいよ、ある程度そろえてくれたら。レンチンするから。時短、時短」
そう言ってじゃがいもの入った耐熱皿にラップをかけて電子レンジに入れるなり、いい塩梅に焼けた牛肉を皿に移し、第二弾の牛肉を手早く鍋に並べる。
「フライパンで一気に焼くと早いけど、洗い物がねえ……。あと、ついでに言うと、その間で玉ねぎが切れる」
「すごいですよね」
「うん? 玉ねぎ?」
「いえ、イツキさんの手際です」
オレがにんじんとピーラーを手にもたもたしている間に、イツキさんの手によってざっくり四つ切りにされ、皮を剥かれた玉ねぎがボウルに入れられる。
「ははは、慣れだよ、慣れ。慣れざるを得ない人生の山が僕には二度あった」
「人生の山?」
首を傾げかけて、気づいて正す。
二度。そのうち一つはオレも知っている。
イツキさんのご両親は既にいらっしゃらない。イツキさんが高校一年の時にお母さんが、大学三年の時にお父さんが亡くなったそうだ。イツキさんが高校一年の時、弟のアユムさんは小五。それからアユムさんが大学を卒業するまで、イツキさんはお母さんの代わりにキッチンに立っていたのだと、サトとの結婚披露宴の挨拶で、アユムさんが号泣しながら言っていた。
嬉しいことがあった日には、ちょっと贅沢な牛モモの肉じゃが――それは、お母さんが亡くなってからも、ずっとイツキさんの手で守られてきたのだろう。
「無理しなくていいよ、ナツトくん」
「え?」
我に返る。イツキさんが困ったように笑っている。
「慣れだから、皮剥きも」
そして、気づく。今のオレはどう見たってにんじんとピーラーを手に途方に暮れる人だ。いや、ピーラー使えばにんじんの皮剥きくらいオレもできる。が。
「ナツトくん、あとは僕がするよ。それよりも話相手をしてくれたらすごくうれしい」
「あ……、はい」
にんじんとピーラーを引き渡す。
ささっと手を動かして、にんじんの皮を剥いていきながら、イツキさんは言う。
「にんじんはさ、きんときにんじんが好きなんだけど、あれ、年末にしか売っていないんだよね」
「きんときにんじん? ですか?」
「ああ。うん。そういうにんじんの品種。京野菜っていうやつらしいんだけどね、固いから煮込み料理にちょうどいいんだ。甘いしね。肉じゃがおいしい」
ピーラーを置き、皮の剥かれたにんじんをまな板に。たぶん、オレがぼんやり立ち尽くしている間に、第二弾の肉が取り出されたらしい鍋で玉ねぎがじゅわじゅわと音を立てていて、そこに加熱の終わったじゃがいもが投入される。
空いた耐熱皿にさくざく切られた普通のにんじんが投入され、ラップをかけられてレンジに。
「普通のにんじんはきんときにんじんに比べたら火の通りが早いんだけどね。でも、先に火を通しておいた方がやっぱりあとが楽」
鍋の前に戻ったイツキさんは、木べらで鍋のなかを撫でる。
「たまにはていねいにつくりたいけど、なかなかねー」
「早く慣れるようにしますね」
「え?」
「慣れたら、一緒に、ていねいにつくれますよね、肉じゃが。というか、肉じゃがに限らず、いろいろ」
イツキさんとルームシェアを始めて半年。オレは大体毎日イツキさんに甘えて、イツキさんのつくりおきのおかずをいただいている。サトとシェアしていた時は、サトにつくってもらっていた。
でも、そういえば、キッチンに立つのは、具体的にどれくらい振りのことか。
変な顔になったのかもしれない。オレの方を見ていたイツキさんはぷはっと吹き出すように笑い、「とりあえず朝ごはんから始めてみる?」と言った。
そこから、他愛のないおしゃべりを続けながらもとても手際よくイツキさんは肉じゃがを仕上げてしまった。
肉じゃがだけでなく、お吸い物も。あとは、つくりおきのお惣菜の小松菜の胡麻和えと白菜とツナのサラダ、きゅうりのお漬物が食卓に並んだ。
男二人とは思えない、きれいな食卓。妹と二人でもなかなかこうはならない。そう思った。
初めて食べた厚切り牛モモ肉の肉じゃがは、見た目の肉のボリュームに反してさっぱりとしていてとても美味しかった。そうか、もともとカレーやシチューのルーが入る仕様だったら、さっぱりなのも当然か、などと言い訳めいたことを思いつつ箸がとまらない。
ふとその箸をとめ、向かい側を見る。と、イツキさんがにこにこしてこちらを見ていた。
「どうかしましたか」
「いや、久々に本当に嬉しくてね。なるべく嬉しいことを増やしていきたいなあ、と、そう思って」
イツキさんの嬉しいことが増えるならば、オレもさっさと料理に慣れなければならないってことに他ならない。
ひたすらただつくってもらうだけなのは申し訳ないし、なにより……、なんだろう、負けた気がする? 人間的に?
「明日の朝ごはんはオレが準備しますね」
とりあえず宣言する。
イツキさんは大きく目を見開いて、それからすぐに笑顔になって大きく頷いた。
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