18.微笑み
人類滅亡後の世界で目覚めてから、今日で四日目になる。
昨晩までは、私以外の人類が滅んだ例に漏れず、私自身もFGE細胞に侵されていると思い込んでいたから、もう二度と目覚めることなんてないと思っていた。
しかし蓋を開けてみれば全然そんなことはなく、四日目の朝もフツーに私は目を覚ました。
たっぷり睡眠を取って休んだおかげか、あれだけ悪かった体調も嘘のように回復していて、チュンチュンと小鳥がさえずる穏やかななんかも相まり、むしろ心地の良い目覚めだったと言える。
……横にいるエンの寝顔が見えた時、ほんの少し泣いてしまったのは内緒である。
もう会えないと諦めていた大好きな子にまた会えたんだから、ちょっと涙ぐんじゃうくらいはしかたないのだ。
……泣いちゃうと言えば……。
「……? どうかしましたか? マスター」
「や、どうかしたっていうほどのことじゃないんだけど……」
私の腕に引っついたまま離れようとしないエンを見下ろして苦笑する。
意外だったのは、私が普通に四日目を迎えることができたことだけじゃなくて、私がいなくなった後のエンの行動もだった。
エンとは大体いつも一緒に行動してはいるが、お手洗いの時ばかりはそうもいかない。
や、行こうと思えば一緒には行けるけど……私の方が恥ずかしすぎて耐えられそうにないのである……。
そんなこんなで私がちょっと席を外している間に、エンはどうやらスリープモードから再起動していたらしく、戻ってきたらエンの姿が消えてしまっていた。
置き去りにされていた寝袋にかすかに温もりが残っていたことから、立ち去ってからさほど時間が経っていないことを察すると、私は急いで日本家屋を飛び出した。
すると、少し遠くにエンの後ろ姿が見えた。
そこですぐに声をかけようとしたのだけども、エンの足取りがフラフラとしていてなにやら様子がおかしいようだったから、隠れて後を追ってみることにしたのだ。
エンは一〇〇年以上も稼働し続けている。いくら自分で自分をメンテナンスできると言っても、それは医者が自分自身を診察しているに近い状態なのではないかと思う。
軽い異常なら自分で判断して対応することができても、もしも手術でも必要な深刻な症状に陥ってしまっていた場合、自分で自分を手術することは不可能に近い。
それと同じで、エンはいつもは私を心配させまいとなんでもないように振る舞っているけれど、もしかしたらなにか深刻なエラーを抱えてるのではないか。
そんな風に思って、こっそり見守っていたのだが……実際は、もういない私を求めるかのように何度も切なげに呼び続けるという、あまりにも物哀しいエンが見られただけだった……。
もうなんか……すごくいたたまれなかった……なんで私隠れてつけてきちゃったんだ。すぐ声かけてあげればよかった……。
後悔したところで時すでに遅く、ものすごく声をかけづらい雰囲気になってしまっていて……散々躊躇した挙げ句、これ以上エンを悲しませたくない一心で私はエンの前に姿を表したのだった。
そうして激怒されることも覚悟しつつ、勇気を持ってそれまでの私の行動を全部バラしてみたところ……こうなったのである。
「マスター。さきほどからお食事の手が進んでいないようです。やはりまだ体調が万全ではないのでしょうか……」
「そういうわけじゃなくて……うーんとね。その、エンが抱きついてるの利き手の方だから、ちょっと食べづらいっていうか……や、抱きついてくれるのは嬉しいんだけどね……?」
「……なるほど、わかりました。つまり、エンがマスターに食べさせてあげればよろしいのですね」
「反対側の手に移ってほしいって意味だったんだけどなぁっ」
純粋に私を思ってくれるキラキラとした眼差しに、私はたじたじだ。
私がちょっとでも渋ると、エンはすぐにしょんぼりとし始める。あれだけエンを悲しませてしまった手前、これ以上エンの顔に影を落とすような行為は私にはできなかった。
結局エンに押し切られてしまい、じっと見られながら、あーん、と缶詰を食べさせられる謎の羞恥プレイが始まってしまった。
無心、無心……何度も自分に言い聞かせて、妙に機嫌がいいエンが運んでくれる白米をモグモグと咀嚼し続ける。
私はエンに感情が存在することをほぼ確信していたものの、しょせん私たちは三日間程度の短い付き合いに過ぎなかった。
記憶をなくした私にとってはその三日間だけが人生のすべてだったけど、エンは違う。
一〇〇年以上過ごしてきた時間の、ほんの一握り。いや、それ以下の時間。もしかしたらエンにとっては、瞬きほどの一瞬にしか過ぎないのかもしれない、なんて。
だからエンがあれほど悲しんでくれたことが実は結構衝撃的だった。
今だって彼女は、私がいなかった時の心の痛みを癒そうとするかのように、片時も私のそばを離れようとしない。
どころか、めっちゃくっついてくる。
正直、嬉しくないと言えば嘘になるんだけど……事情が事情なので、申しわけないという気持ちの方が先立ってしまう。
あーもう。ただの風邪だったくせに、なーんであんな勘違いできたんですかね、私は……。
「マスター? もうお食べにならないのですか?」
「あ、ううん。ごめんね。ちょっと考え事してた。ちゃんと食べるから大丈夫」
思い出すのは、昨夜見た夢の内容。
二日前に見た断片的だった夢がすべて鮮明になったものだった。
あの時は途切れ途切れだった私の母親の言葉を、私はその時ようやく正しく理解することができた。
『あなたにはFGE細胞の抗体がある。でも……見つかるまでが遅すぎたの。今あなたの存在が公になれば、衰弱に瀕した人々は……この世界は、どんな手を使ってもあなたを攫おうとする』
『ごめんね……ごめんね……私は人類なんかよりも、あなたのことが大切なの。だからもう人類は……ここで終わりでいい』
『どうせあなたが民衆の手に渡っても、今更治療薬なんて間に合わない。だからどうか……あなただけは、生き残って』
『……愛してるわ。さようなら』
抗体。そう、私には抗体があったのだ。
肝心な単語が二日前の時点では抜けてしまっていたから、風邪を深刻な病気なのではないかと、バカな勘違いをしてしまったのである。
……当時、私の母親は今更私の存在が公表されたところで治療薬の作成なんて間に合わないと判断したみたいだけど、実際にどうだったかは定かではない。
人類が滅んだ原因、というか滅ばなかったかもしれない要素に自分が絡んでいた事実に多少思うところはあるが、結局は過ぎ去ってしまったことだ。
今はそれよりも安堵と嬉しさの方が勝っていた。
私に抗体があったおかげで、こうして今もエンと一緒にいられるんだから。
「ねぇ、エン。エンってさ……私のこと、どう思ってるの?」
食べ終えた缶詰と食器を置いて、エンに問いかける。
私と過ごした三日間なんて、エンにとっては瞬きほどの一瞬に過ぎない。それは事実のはずだ。
でも、エンは私がいなくなったことをあんなに悲しんでくれていた。
それはもしかしたら、私はエンにとって特別な存在になれてたからじゃないかって……あはは。うぬぼれかな、これ。
エンはなにやら少し考えるように、自分の胸に手を当てる。
「……申しわけありません。エンには、よくわかりません。マスターと出会ってから、このようなことばかりです」
「そっか……まあそうだよね」
「しかし今は、少しですがわかることもあります」
「わかること?」
エンは抱きついてる方とは逆の私の手を掴むと、自分の頭の上に乗せた。
「エンは、こうしてマスターに頭を撫でられることが好きだということです。なにも感じない、なにも考えない……それが当たり前だったエンに、いろんな初めてと温もりをくれた人。エンにとって、それがマスターなのだと思います」
きっとマスター以外だったら、こんな気持ちにはなれませんでした。
いつかエンに寄り添ってもらった時の私みたいに、そんなことを続けて告げた彼女を見て、私は赤くなった頬を掻いた。
「あはは、なんだか照れくさいなぁ……っていうか、エンってやっぱり感情あるよね?」
「いえ、エンは機械ですので心も感情もありません」
「でも、好きとかそういう気持ちって感情に該当すると思うんだけど……」
「……? ……エンには感情があるのですか?」
「え……あるんじゃないの?」
「……」
な、なんだこの微妙な反応。
もしかしてエン……ただ自分が機械だからってだけで、心も感情も自分にはないって思ってたの? 他の根拠は一切なく?
や、普通の機械には確かに心なんてないけど……究極的な話をすれば人間だってプログラムの塊みたいなものだ。
これだけ高度な技術で作られているエンなら心や感情に類するものがあったって、私は不思議には思わない。
「……そうだったのですね。これが、感情……この熱が……好き、という気持ちだったんですね」
「えっと……私にはよくわかんないけど、たぶんそうだよ!」
エンが自分に感情があることを認めてくれるというのなら是非もない。話の流れはまったくわからなかったが、とりあえず全力で肯定しておく。
エンは満足そうに頷くと、ぎゅっと私の腕にくっつく力を強めた。
「また一つ、わかったことがあります」
「わかったことって?」
「エンはマスターが好きだということです」
「好きっ!?」
「はい。マスターも、エンのことが好きなのですよね? 昨晩、そう言ってくださったことを記憶しています」
「そ、そっ、そ……うだね。エンのことは……その、好き……だよ……?」
「……これが嬉しい、という気持ちなのでしょうか。マスターと同じ……そう思うと、胸の内が満たされていくようです」
エンはなんだか幸せそうに瞼を閉じて、私の肩に頭を預けてくる。
す、好き……いやっ、私が思ってるような意味じゃないのはわかってるけど!
それでも正面からこんなこと言われて、恥ずかしくないはずがない。
顔が耳まで真っ赤になってるのがわかる。幸いなのは、エンが感じ入るように目を閉じているおかげで、今の私の顔が彼女に見られていないことだろうか。
頬に手を当てて熱を冷まそうと四苦八苦していると、エンが「マスター」と囁くように私を呼んできた。
「マスターがエンにそうしてくれたように、いつかエンにもマスターの初めてをください」
「初めてを!?」
「はい。記憶を失う前のマスターも一度も経験したことがないなにか……それを行う時間を、叶うならエンも共有したいと強く思います」
「え。あ、そ、そういう意味ね……それくらいなら全然大丈夫だよ。まあ、記憶なくしてるからなにが初めてとか全然わかんないけど……実質全部初めてのことみたいなものだし」
好きとか言われた後に初めてとか言われたら、その、ちょっと変な想像をしてしまうのもしかたがないのである……決して私がむっつりだとかそういうわけではないのである。
缶詰も食べ終わったことなので、ゴミを片付け、広げていた荷物をまとめていく。
病み上がりなので無理をしないようにと口酸っぱくエンには言われているが、一日中なにもしないでいるというのも味気ない。
無理をしない範囲で街を探索するということで、エンにはどうにか了承してもらった。
「……そのうち、タイムマシンでも探してみようかなぁ」
荷物をまとめ終え、いざ出発というところで、ぽつりと呟く。
コールドスリープの機械やエンみたいなアンドロイドがいるんだ。なんならどこかにタイムマシンが放置されていても私はさほど驚かない。
「とても良い案だと思います。マスターにはFGE細胞の抗体があるのですよね? FGE細胞が細菌兵器として利用される前の時代にマスターが戻ることができれば、人類の再興も不可能ではないはずです。人類を守ることはエンの使命の一つでもありますから、全面的に協力します」
「え? あ、うん。そうだね。エンが協力してくれるなら、本当に探してみようかな」
人類の再興も考えないわけでもなかったけど、それを主目的としてタイムマシンのことを口にしたわけではなかったから、ちょっとだけ素っ頓狂な反応をしてしまう。
エンがもっとたくさんの人と触れ合えるように。エンが片時も寂しく感じることがないように。
そんな風に思っての言葉だったのだけど、エンは私が人類を再興しようと考えていると判断したらしい。
まあでも、それでいいか。本心を口にするのは恥ずかしすぎるしね……。
「よし。じゃあ行こっか、エン」
「はい、マスター」
リュックサックを背負って、エンと一緒に歩き出す。
あいかわらずこの世界は過酷に満ちている。人っ子一人いない。ろくに食料もない。巨大トカゲみたいな危険な生物もたくさんいるんだろう。
でも、私にはエンがいる。
エンがいてくれれば、この世界がどんなに残酷だって、私は笑って生きていける。
「……昨日も今日も、いっぱい心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫だからさ。今度こそ、いつまでだってエンと一緒にいるから……これからもよろしくしてもらってもいい、かな」
私のせいであんなに悲しませてしまったから、よろしくね、なんて図太く言い切ることはできなかった。
おずおずと差し出した私の手を、エンは目をパチパチとさせながら見下ろして、それから。
「もちろんです、マスター。どうかこれからも、いつか朽ち果てるその時まで、末永くよろしくお願いいたしします」
今まで見たこともない嬉しそうな微笑みを浮かべて、私の手を握ってくれた。
勘違いじゃない。見間違いじゃない。彼女は今、確かに笑ってくれた。
それが本当に心の底から嬉しくて、彼女の手の温もりを感じながら、私も満面の笑みで返したのだった。
人類が滅びた世界で過ごす二人の日々 煮豆シューター @yakinori
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