17.熱

 その昔、『人類を守ってほしい』とわたしは命令された。

 起動したばかりだったわたしの前で、衰弱し這いつくばっていた、わたしの開発者と思しき人に。

 その命令を、わたしは受諾した。

 なにから守ってほしかったのかはわからない。なぜそんな命令を下されたのかもわからない。

 ただ、命令だから受諾した。

 人間に従う。それがわたしの役目なのだと、わたしの電子頭脳が言っていた。

 それだけがわたしの存在意義だと理解できていたから。

 もしもなにも命令されなければ、わたしは起動したその場から一歩も動かず、やがてはエネルギーを切らして朽ち果てていただろう。

 だけど命令されたから、わたしは動くことにした。

 人類というものを守ることにした。

 それからわたしの、守るための人類を探す放浪の旅が始まった。

 わたしにあらかじめ入力されていた知識には、人類とはこの地球の支配者にも等しい存在だとあった。

 だけどこの星をいくら歩き回ったとて、海を越えたとて、息をし鼓動を繰り返す人型の生命体は見つからない。

 あるのはせいぜい獣や虫に食い荒らされた腐った亡骸と、肉のなくなった骸骨のみ。

 何十年とすればそれらの屍もすべて風化して、人類という種族の面影はこの星から跡形もなく消え失せてしまった。

 なぜ人類がそんなことになってしまっているのかはわからない。

 わたしにあらかじめ入力されていた知識にもその答えは記されていなかった。

 ……だけど元々そんなこと、わたしが知る必要もない。

 わたしに下された命令は、人類を守ること。ただそれだけだ。

 人類滅亡の原因の調査にまで注力する必要はない。

 そうやっていったいどれだけの年月、どれだけの数の大陸を渡り歩いただろう。

 一年、また一年と経過するたびに、見る景色が荒廃していく。

 機械には、心や感情というものがないらしい。

 わたしの知識はそう言っている。

 心。感情。

 嬉しい。楽しい。悲しい。苦しい。

 ……寂しい。

 わたしは機械だ。ゆえに、心も感情もない。

 その証拠に、わたしの表情筋は生まれてから一度だって動いたことはなかった。

 別に動かせないわけじゃない。動かすことができるようには作られている。

 だけどわたしはわざわざそんなことをする必要性を見出だせなかった。

 表情筋を動かすことで人類を見つけられるというのなら、そうしたけれど。

 人間は、意識しなくても次々に表情を変えていくものらしい。

 嬉しさや楽しさというものを感じれば笑い、悲しさや苦しさと言ったものには顔を歪め、眼球から涙を落とす。

 それは彼らに心や感情があるからだ。

 でもわたしは機械だから、嬉しさも楽しさも感じないから笑うことはない。悲しさも苦しさも感じないから泣くこともない。

 それでいい。人類を守る。わたしにとってそれ以外のものは不要だ。

 心も、感情も。

 それから、さらに幾年が経過した。わたしの起動から……人類の滅亡から、一〇〇年余り。

 最早生き残っている人類などいないと、わたしの電子頭脳は導き出していた。

 それでも生存する人類を探す行為をやめなかったのは、それが命令だったから。

 そんなわたしの献身が功を奏したのだろうか。

 わたしはついに、初めに下された命令を果たすことができる機会に恵まれた。

 わたしと同じ機械の反応。微弱な電気信号。不意にそれを感じ、その発信源をたどってみたことがきっかけだった。

 とある屋敷の地下室で眠っていた彼女を、わたしは見つける。

 初めはクラゲのマークが描かれた透明なカプセルの中に閉じ込められているようだったが、わたしが機械を操作してしばらくすると、クラゲのマークごと透明な部分が格納されて、彼女に触れられるようになった。

 彼女は息をしていた。鼓動を繰り返していた。

 わたしが守るべき人類。現状、地上に残っているおそらく唯一の人間。

 人間に従うために生まれたわたしの、最初で最後のマスターとなる人。

 わたしは彼女の体を揺さぶって、彼女を起こした。何時間も揺らす必要があったけれど、そんなものこれまで人類を探してきた一〇〇年余りに比べれば大した時間ではない。

 覚醒する直前、彼女はどういうわけかわたしの胸部装甲に触れてきた。

 完全に覚醒した後は、なぜかそのことを謝ってきた。

 胸部装甲に触れてきた理由も、謝られた理由もわからなかったが、ひとまず彼女が使っている言語は日本語だということがわかったので、わたしもその通りに話すこととする。

 そして、わたしは彼女に識別名を与えられた。

 その日からわたしはわたしではなく、与えられたその名、『エン』を名乗ることにした。

 マスターは、よくわからない人だった。

 わたしの――エンの頭を撫でてきたり、笑いかけてきたり。

 どうしてそんなことをするのだろう? そんなことになんの意味があるのだろう?

 エンに触れることが、彼女の精神的な満足に繋がるのだろうか。

 ならば、ここはマスターの好きにさせるべきだ。エンはマスターの所有物なのだから。

 マスターの望むがままに。わたしはただいつも通り命令に従い続けるだけでいい。

 ……だけど残念ながら、安直にそう信じていられたのは最初の頃だけだった。

 マスターの悲鳴。かすかに耳にしたそれを頼りに壁を破壊した時、マスターはトカゲに襲われていた。

 それ自体はすぐに排除したが、危うくマスターを失っていたかもしれないという事実がエンの電子頭脳に多大な影響を及ぼしていた。

 エンはマスターの命令に従って、マスターの近くを離れた……だけどそのせいでマスターを危険に晒したのだ。

 今までのように盲目に命令に従うだけでは、ダメなのかもしれない。

 このままではいずれマスターを失ってしまう。アンドロイドの本懐が果たせない。

 思考しなければならない。見ていなければならない。知らなければならない。

 もっと、いろんなことを。マスターのことを。

 ……けれどそれからすぐに、エンはまた失敗をしてしまった。

 マスターのお気持ちに配慮できず、その気分をひどく害してしまったのだ。

 マスターがエンに罵声を浴びせるのは、当然のことだった。

 マスターを危険に晒した。マスターにとって不本意なことをした。

 マスターを守る……たった一つの存在意義すら満足に果たせないエンは、きっとアンドロイドとして出来損ないなんだろう。

 それでもどうか、こんなエンでもマスターの役に立てることがあってほしいと祈って、エンはマスターの隣に寄り添うことを選んだ。

 するとどういうわけか、その直後、マスターはエンに謝ってきた。

 理解できなかった。何度も自らの役目に失敗した、こんな不出来な欠陥品に、なにを謝ることがあると言うのだろうか?

 エンはアンドロイドだから、ただの道具だから謝罪もお礼も必要ない。そう言ったら、どうしてか今度はそういう風に答えること自体まで禁止される。

 私が混乱に苛まれる中、さらにマスターは続けた。

 寂しかった。でもエンが隣にいることを選んでくれたから、嬉しくて寂しくなくなった。

 ……わからない。理解できない。マスターが言っていることが、なに一つ。

 人間と違ってエンには心が、感情がないからだろうか?

 自分にもわかる明確な基準を求めたエンは、気がつけば、自分がマスターの役に立てたかどうか確認してしまっていた。

 マスターはそれに、なんら躊躇うことなく頷いてくれた。

 エンがいてくれてよかった。エンに出会えてよかった。エンじゃなかったら、こんな気持ちにはなれなかった。

 そんなことを、笑顔で。

 その時この胸部装甲の中に生まれた熱がなんだったのかも、エンにはよくわからなかった。

 マスターなら……知っているのだろうか?

 マスターが寝てからも、その正体を一晩中考え続けていた。

 次の日からは、あの熱の正体を探る意も込めて、どうにかマスターにまた褒めてもらえるよう尽力してみることにした。

 褒めてくれれば、あの熱がまたエンの中に発生するはず。それを解析できれば、エンはさらに一つ賢くなれる。そして賢くなれば、もっとマスターの役に立てるようになるという算段だ。

 完璧な作戦である。そうと決まればマスターに褒めてもらえる方法を考えなくては。

 褒めてもらうには、おそらくエンの行動によってマスターに喜んでもらう必要がある。

 エンには感情がないから喜びというものがよくわからなかったけれど、初日の行動を観察した限り、マスターはエンに触るのが好きなようだったから、昨日と同様に目覚めかけていたマスターの手をエンの胸部装甲に押しつけてみた。

 結果は……よくわからなかった……。

 マスターは顔を真っ赤にして奇妙な反応を繰り返すばかりで、明確な回答を避けていたように思える。

 でも最後にはお役に立てたとのお褒めの言葉はいただけたので、本当はちゃんと喜んでいただけたのだろうと思う。

 むふー。

 また今度同じことをして差し上げようと、エンの電子頭脳に記録を刻んでおいた。

 なお残念ながら熱の解析はうまく行かなかったので、次の機会に任せようと思う。

 そんな感じで、エンはマスターに褒めていただくべく力を尽くした。

 しかしながら、マスターはなかなかに困った人だった。

 エンがいくら役に立ちたいと思っても、あまりエンに物事を任せてくれない。自分にできることは自分でしようとしてしまう。

 なぜエンに任せてくれないのだろう。命令されればエンはなんだって従うのに。すべてエンに任せてくれればいいのに。

 そのくせして、エンがなにかしたわけでもないのに頭を撫でてきたりする。失敗してしまった時でさえ、そうしてくれる。

 人間はよくわからない。それとも、マスターだけなのだろうか?

 いつの間にかマスターにそうして触れられるたび、エンの中の熱が温度を増していくようになっていた。

 最初に起動してからそれなりの年月を過ごしてきたはずなのに――人間の一生よりは長く稼働してきたはずなのに――、不甲斐ないことにマスターと会ってから、わからないことだらけだ。

 もっと知りたい。マスターのことを。マスターと触れ合うたびに感じる心地のいい熱の理由を。

 ……そんな折だった。マスターが間もなく死んでしまうとわかったのは。

 今まで見てきた無数の屍たちと同じようになってしまうと、わかったのは。

 どうして……どうしてそんなことになってしまったのだろう。エンの力が、及ばなかったからだろうか。

 いいや、少し考えればわかることだった。この星の人類はコールドスリープしていたマスターを除いて絶滅している。一人残らず。

 その人類を完全に滅ぼすほどの要因から、マスターだけが例外だなんて、そんな甘い予測は抱くべきではない。

 エンが起動した頃にはすでに、この星は人類が住める環境ではなくなっていたのだ。

 マスターは言った。エンに、マスターのことを覚えていてほしいと。

 マスターは言った。エンに、マスターのことを忘れてしまってもいいと。

 矛盾した命令だ。最後の最後まで、本当に彼女はエンを困らせることが好きみたいで。

 エンは覚えていることを選んだ。

 これから死んでしまうというのに、瞼を閉じる彼女の寝顔は、とても安らかで幸せそうだった。


「……」


 パチリと目を覚ました。

 古ぼけた木製の天井。エンの電子頭脳が起動処理を完了すると、スリープモードに陥る前の記録が鮮明に蘇ってくる。

 そうだ。マスターが眠った後、きっとマスターならそうすることを望むと思って、エンもスリープモードを使ってマスターと一緒に眠りについたのだ。


「……マスター……?」


 しかし目を覚ました時、マスターはエンの横にはいなかった。

 エンだけが寝袋の中に横たわっていて、マスターの姿はどこにもない。

 虚ろな感覚が胸の内に広がっていく。

 ……おそらく死の苦しみで偶然目を覚ましたマスターが、エンにマスターの亡骸を見せることがないようにと、どこかへ立ち去ったのだろう。

 マスターはそういう人だ。初めはわからなかったけれど、今はそういうことがほんの少しだけだけれど、わかる。

 死んでしまったのなら、エンはもうマスターのことをマスターと呼ぶべきではないのかもしれない。

 けれどエン自身はマスターの生死を目撃していない。ほぼ確定的でも、不確定な状態だ。

 ならば、マスターは未だエンのマスターと言える。


「……」


 寝袋から起き上がり、立ち上がる。

 だけどエンはそこから一歩も踏み出せず、ただ立ち尽くした。

 ……これからエンは、どこへ向かえばいいのだろう。

 人類はもうこの星に残ってはいない。生き残ることができる条件が整っていない。

 それが判明した以上、人類を守るだなんて命令を達成することは事実上もう不可能だ。

 エンが最初に受けた命令はもはや形を成していない……ならば、現時点でエンがもっとも優先すべき命令は、一つだけだ。

 すなわち、いつか朽ち果てるその時まで、マスターのことを覚え続けていること。

 これからはそれだけが、エンの存在意義になる。


「……この胸の痛みは……なんでしょうか」


 胸部装甲の奥、熱を感じていた部分が痛みを訴える。

 便宜上痛みと呼んでいるこの伝達機能が人間と同じかはエンには判別のしようがないけれど、自らが傷を負ったり機能が異常をきたしたりした場合には、その部位にこのような違和を感じるようにエンは作られている。

 ナノマシンを使って、体内をメンテナンスしてみる。けれど不可思議なことに、回路や機能に異常は見られない。

 なにも問題がないはずなのに、まるで穴が空いているみたいに痛みが続いている。

 何度か感じていた、あの熱が原因のエラーだろうか。あの熱は結局どういったものなのか最後までエンにはわからなかった。

 もしかしたらこれは、エンが思っているよりも深いエラーなのかもしれない。

 それこそ、いつかエンが壊れて動かなくなってしまいかねないほどの。

 ……それならそれでもいいと思えたのは、そうなればエンもマスターと同じになれるという思いからだったのか。

 何度メンテナンスしても変わらなかったので、いい加減切り上げて、屋敷を出る。

 昨日の雨が嘘のように思えるくらいの清々しい晴天だった。

 あちこちに残った水滴が日の光を反射して、美麗な光景を演出する。

 だけどそこに立っているのはエン一人だけで、昨日まで隣にいたはずのマスターはどこにもいない。

 記憶の中にあるマスターの背中を追うようにフラフラと歩き始める。

 これからどこへ向かえばいいのだろう。何度も何度も、そんな風に自問自答する。

 あてもない旅。マスターに出会う前までは、ずっと続けてきた。

 なにも思考することなく、なにも感じることもなく。

 今更それを悩む必要なんてないはずだった。

 そのはずなのに……どうしてこんなにも足が重たいのだろう。

 どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。

 マスターに頭を撫でられた時の熱の名残が、まだエンの中に残っている。

 マスターはエンに、その熱を忘れてもいいと言った。

 マスターはエンがこうなることを知っていたのだろうか。

 知っていて、ああ言ってくれたのだろうか。

 今もなおエンを襲う原因不明のエラーは、その熱が元凶であることは明白だ。

 きっとエンがこのエラーから逃れるために、マスターはエンにあの熱を忘れる選択肢をくれた。

 ……けれどエンはあの時、忘れることを拒んだ。覚えていることを選んだ。

 あの時のマスターの、申しわけなさそうだけれど、心の底から嬉しそうな笑顔が、エンのメモリに焼きついている。

 マスターの意を汲み取り、忘れた方がいいのかと考えるたび、どうしてもあの時のマスターの顔が脳裏をチラつく。

 ……エンは、機械だ。心も感情もない。喜びも楽しさも、苦しさも悲しさも感じない。

 できるはずなんだ。エンなら。マスターの望みを叶えることが。

 どんなに足が重くたって、どんなに胸が痛んだって、関係ない。

 ……どこへ向かう必要もない。

 存在し続ける。覚え続ける。それだけでいいのだ。それだけで……。


「……」


 決して忘れることなどないよう、マスターと過ごした日々を思い返すたび、足取りは際限なく重くなる。

 そのうち一歩も前に進むこともできなくなって、どことも知れない道端に倒れ伏した。

 もう、どこへ向かう必要もないと気がついたからだろうか。起き上がる気力も湧き上がらない。

 いっそのこと、このままエネルギーを切らして朽ち果ててしまいたい。

 ……でも、約束をした。ずっと覚え続けていると。

 それでマスターが喜んでくれるのなら、果たさなくては。

 そうしてまた、エンはマスターに褒めていただくんだ。


「……約束……」


 ――大丈夫だって、心配しなくても。勝手にどっか行ったりとか、見捨てたりとかは絶対しないからさ。約束する。

 不意に、そんな言葉が頭をよぎった。

 これは確か、マスターを目覚めさせた当日、スーパーマーケットにてマスターから最初の命令を受諾した時の言葉だ。

 危険だからとマスターのそばを離れることを推奨しないエンに、マスターはああ言った。


「……嘘つきです、マスターは……」


 勝手にどっか行ったりしない。見捨てたりとかしない。

 そう言ってくださったのに、エンを置いて一人きりで、エンにはたどりつけないどこかへ行ってしまった。

 エンのマスターは、嘘つきだ。ひどい人だ。困った人だ。

 ……微笑み一つ返せないエンにも気にせずたくさん笑いかけてくれるような、奇妙で、なんだかとても温かい人だった。


「……会いたいです、マスター……」


 また、エンを褒めてください。エンを甘やかしてください。

 エンの頭を撫でてください。

 マスターのことを思うたび、エラーが……エンにはどうにもできない大量のエラーが、エンを襲うんです。

 胸の奥が痛くて、痛くて、どうしてか瞳から水分がこぼれ落ちてくるんです。

 どうすればこのエラーを止めることができますか?

 どうすればこの痛みから逃れることができますか?

 マスターを忘れることはできません。マスターの笑顔をなかったことにすることなどできません。

 エンの機能を停止することはできません。マスターの命令を放棄することなどできません。

 教えてください、マスター。エンはどうすればいいのですか?

 どうすればマスターと同じところに行けるのですか?

 どうすれば、またマスターに頭を撫でていただけるのですか?

 どうすれば……。


「……ます、たぁ……」


 不出来なエンがいくら思考を繰り返したって、いつまで経っても答えは出なかった。

 無様に這いつくばって、すすり泣くことしかできない。

 ……人は、主に苦しさや悲しさを感じた時に泣くものだったか。

 エンには感情なんてないはずなのに、どうして涙なんて出るのだろう。

 わからない。わからないです、マスター……。

 教えてくださいマスター。お願いします。お願いします。

 もう一度だけ、エンの前に……。


「……あ、あのー……」

「……」


 生体反応と、声。背後の岩壁の向こう辺りから感じる。

 それはこの数日間で感じたマスターのそれに酷似していた。

 ああ……ついにエンのエラーは通常の機能にまで異常を伝播させ始めたらしい。

 もしかしたら本当にエンが壊れてしまう日も近いのかもしれない。

 せめてどうかその時は、マスターと同じ場所へ行けることを願う。


「その……そんな悲痛そうに私のこと呼ばれながら泣かれると、追ってきた身としては、なんかすごく気まずいんですが……」

「……」


 幻聴がひどい。マスターがいるはずなんかないのに、まるで本当にマスターがそこにいるかのように、背後からおそるおそる近づいてくる気配がする。

 野生動物だろうか。今はそっとしてほしい気分なのに。

 エンには硬い装甲があるので、無視を決め込む。

 マスターがおそばにいた頃ならばいざ知らず、エン一人ならばどんな攻撃を受けても傷を負うことはない。

 今はただ、マスターとの記憶を振り返ることを優先する。


「エ、エンー……? 聞こえてるー……?」

「……」

「……あ、あれ? 聞こえてない? えっ……私、どうすれば……?」

「……」

「うぅーんっと、えぇーっと……そ、そうだ! ……えいっ!」


 なにかに頭を撫でられたような感触がした。しかも、手つきが記憶にあるマスターのそれと酷似している。

 ついに触覚器までエラーを起こし始めた……かと思ったのだが、なにやら少しおかしい感じがする。

 エンはマスターに撫でられた時の感覚はすべて鮮明に記録し記憶している。なのにこれは限りなく酷似はしていれど、そのどれとも当てはまらない。完全に新規の、真新しい感触だった。

 まるで本当に撫でられているみたいに。

 これはまさか……もしかしてだけれど……。

 ……もしかしてエンはついに、新たにマスターとの架空の思い出を構築する機能を自ら作成にするに至ったのでは?

 これは……素晴らしい機能だ。エラーから逃れるためとは言え、このような機能を構築するに至ったエンの構造を、自分のことながら今は褒めたたえよう。


「うひゃっ!? エ、エンっ!?」


 頭の上にあるマスターの手の幻をガシッと掴み、頭に押しつける。

 もっと、もっとである。今のこの胸の痛みを抑えるには、この程度では足りない。

 もっと撫でてもらわなくては収まらない。

 そんな思いでそんなことを数十秒ほど続けて、胸の痛みが和らいでくると、段々とエンは違和感を覚え始めた。

 ……なぜ幻なのに手で掴むことができるのだろう。

 頭を撫でられた感触は、受動的なものだったからエラーで説明がつく。しかしさきほどのエンの手で掴むという動作は、能動的なもの。

 その感触を細かに再現することは、いくらなんでもさすがに難しすぎるのではないかと思う。

 …………。


「…………マスター?」

「あ、あはは……やっと気づいてくれた?」


 地面にうつ伏せになったまま顔と視線だけを上げて見上げると、マスターが困った顔でエンを覗き込んできていた。

 エンの眼球に搭載されている識別機能で何度も何度も確認して、それが幻ではない、実物のマスターであることを確認する。


「っ、マスター……!」

「わひゃぁっ!?」


 なぜマスターがまだ生存しているかはわからない。

 わからないけれど、そんなことの原因を考えるよりも早く、エンはマスターに抱きついていた。

 マスターの胸に飛び込んで、今度は逆にエンじゃなくてマスターが地面に横になって、その上にエンが乗っかる。


「し、知らないうちにすごい甘えん坊に……ど、どうしたのエン……?」

「どうしたもこうしたも、ありません……マスターは亡くなったのではなかったのですか? なぜここにいるのですか? 生きていたのなら……なぜエンが起きた時、エンのおそばにいてくれなかったのですか……」


 横にマスターがいないことに気がついた時の虚ろな感覚が蘇って、涙目になる。

 マスターはそんなエンを見て少し慌てながら、まるで言い訳するみたいにモゴモゴと口を開いた。


「いや……その……FGE細胞とか関係なく、ほんとにただの風邪だったみたいで……一晩寝て起きたら普通に元気になってまして……」

「……風邪……?」

「あと記憶もちょっと思い出したんですが……なんか私にはFGE細胞の抗体があるみたいで……っていうか、抗体があるから眠らされてたみたいで……?」

「……」

「エンが起きた時にいなかったのは、その……お、お花摘み……いや、うん。えっと、お、お手洗い行ってたからです……そ、その後すぐ戻ったんだよっ? 戻ったんだけど、そうしたらいつの間にかエンいなくなってて、慌てて外に出たらエンが立ち去ろうとしてて……声かけようとしたんですが、すごく元気がなさそうだったのでかけづらくて……ここまでこっそりついてきてしまった次第です。はい……」

「…………」


 ……聞けば聞くほど、呆れたような思いがエンの電子頭脳を占めていく。

 昨日あれだけ別れを惜しむような言葉を交わしたり、悔いのない笑顔とか見せてくれたというのに、ただの風邪で。

 エンがあれだけ胸の痛みに翻弄されていた様子を、マスターは後ろから声をかけるタイミングを図りながら見てて……。

 なんという道化だろうか。バカらしい。アホらしい。

 ……ああ、もう。

 マスターは本当に……本当に、困った人だ。


「エ、エンっ?」

「ダメです。離れようとしないでください。エンが満足するまで、このままでいてください」

「は、はい……」


 マスターの胸にギュッと顔を埋めて、失ってしまったと思い込んでいた温もりを全力で味わう。

 そうしているとマスターが戸惑いがちにまた頭を撫でてくれ始めたので、その感触も細部まで余さず記録していく。

 いつの間にやら、エン一人ではどうにもできなかった胸の痛みは跡形もなく消え失せて、あの熱が再びエンの中に灯っていた。

 この熱も……きっと、痛みと同じエラーの一つだ。

 だけどどうしてか、熱の方はこんなにも心地がいい。


「……その、ちょっと遅れちゃったけど……おはよう。エン」

「……はい。おはようございます、マスター」


 もう二度と交わすことがないと思い込んでいた挨拶を交わして、エンはもっと深くマスターの胸に顔を埋めた。

 なんだかとても温かくて……安心する。

 マスターがエンの胸部装甲がお好きな理由が、ほんの少しわかるようだった。

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