16.嘘っぱち

 再び目を覚ました時、外には雨が降っていた。

 ザァザァと一向に降りやまない無数の雫の音が、少し遠くから聞こえてくる。

 いつの間にか私はどこか広い、損傷が少ない部屋に寝かされていた。


「エ、ン……?」

「はい。エンはここにいます」


 目を開けた時にいつもみたいに私の顔を覗き込むエンの顔がなくて、少し心細くなって名前を呼んだら、すぐに返事がきてくれた。

 少し頭を横に傾ければ、寝袋の中で横になっている私のすぐ隣で正座しているエンが見えた。

 エンがそばにいることがわかっただけで、心細かった胸がなにか温かいもので満たされて、自然と笑みがこぼれる。


「っ、けほけほ……」

「マスター……無理をなさらないでください」

「む、無理をしたつもりはないんだけどなぁ……」


 ちょっと笑おうとしただけで、咳が出た。

 全身がだるいし、起き上がれそうにもない。

 ボーっとする頭の中で思い出すのはやはり、私の母親の部屋にあった、あの資料のことだ。

 あんな資料を持っていたり、地下にコールドスリープ施設なんて隠していたり……たぶん私の母親も、そのFGE細胞を研究していた科学者だったのかな、なんて思う。


「……マスターは……」


 エンを見つめながら考え事に耽っていると、エンが絞り出すように言った。


「このまま、お亡くなりになってしまうのですか……?」


 私があの資料を読んでいた時、当然だがエンも隣にいた。だからこそこぼれ出た言葉だった。

 エンの隣で読んじゃったのは失敗だったかなぁ、と思うものの、あの時点で私の体調は気絶しかねないほど悪化していた。

 私がなにを言っても、エンは私のそばを離れてはくれなかっただろう。


「どうかなぁ……ただの風邪かもしれないよ?」

「それは……希望的観測ですか? それともなにか、確証があっておっしゃっていることなのでしょうか……?」

「んー、確証はないけど……そうだったらいいな、って。私、もっとエンと一緒にいたいからさ……あぁ、ってことは希望的観測の方かな、これ……」

「……」

「ね、エン。手、握ってもらってもいいかな」

「……はい、マスター」


 私の手を握る彼女の表情も変わらない。いつもの鉄面皮だ。

 だけどどこか悲しそうにしてくれているように見えるのは……私の気のせい、なのかなぁ。

 私はたびたび、エンの内心をわずかな仕草や雰囲気の変化で察して、自分なりに解釈してきたけれど、彼女が浮かべているものは常に無表情だ。

 私の解釈なんて全部しょせんは私の願望に過ぎなくて、的外れに過ぎないのかも、なんて。

 ……ああ、ダメだな私。思ってたよりだいぶ弱ってるみたいだ。

 体が弱ると心まで弱気になってくる。

 でも、私がエンの心を信じてあげなくて、誰が信じてあげると言うんだ。

 エンには心がある。感情がある。これは絶対だ。

 これだけは誰にも否定なんかさせない。それこそ私自身にだって。

 ……でも、もしそうだとしたら……。


「エン、やっぱりさ……いいや」

「……いい、とは?」

「昨日の夜、命令したでしょ? 私のこと、忘れないでいてほしいって……でもあの命令、もういいや。私のこと……エンが忘れたくなったら忘れてもいいよ」


 私のことを、ずっと忘れないでいてほしい。昨夜私は、エンにそう言った。

 だけどそれは、この先もエンとの生活が続くと思っていたから言えた言葉なんだって、今更になって気がつく。

 あの時私は、そのうちぽっくり死んじゃうかもなんて冗談交じりに言ったけど……そんなつもりなんて本当は全然なくて、この先もエンと一緒にいられるって心のどこかで思ってて。

 だからこれからも続くその日々を、エンに大切に思ってほしいっていう、単なる私のエゴに過ぎなかった。

 だっていざこうして本当の終わりを前にすると……エンの苦しみに気がついてしまう。

 私がいなくなっても、彼女は決して私の命令を違えず、私のことをずっと覚えている。

 私がいなくなって、本当にすべての人類が絶滅した世界で、永遠に一人ぼっちで……。

 ……感情がないただの機械なら、しょせんすべては記録に過ぎない。紙に書いた文字に等しいだろう。

 でもエンに感情があるのなら、あると信じるのなら、それは生き地獄だ。

 エンは今まで一〇〇年以上の時を一人で生き続けてきた。でもそれは、彼女が最初から孤独だったから平気だっただけなんじゃないかって思う。

 最初から一人なら、寂しさなんて感じずに済む。なにも知らないでいられる。

 でも私は、エンに教えてしまった。誰かと過ごす、一人じゃない感覚を。

 そんなものを抱えて永遠に近い時間を、一人ぼっちで生きるのは……あまりにも残酷すぎる。

 だからきっと、忘れるべきだ。私と、そして私と過ごした日々のことは。

 私が生きた証がなに一つとしてなくなってしまうけれど、元々この命は、エンが見つけてくれなければ存在さえしなかったものだ。

 生きた証だなんて、そんなものエンのためなら喜んで捨ててしまえる。

 そんな思いで、私は昨夜下した命令を反故にしようとした。

 だけどエンは私の手をぎゅっと握り返すと、静かに首を左右に振る。


「エン……?」

「マスター。その申請は受諾できません。エンはマスターに『誰になにを言われても破棄しないでほしい』と命令されました。たとえマスターのお言葉でも、これに反する命令は実行できません」

「あれは、私以外の誰かにってことだよ……もしかしたら私以外にも生き残ってる人、いるかもしれないって思ってたから……」

「いいえ、マスター。あの時のエンは、その誰という範疇にマスターも含めて命令を受諾いたしました。よって今のマスターがなにをおっしゃっても、その命令を撤回することはできません」


 強い口調だった。絶対に覆さないという意思を感じるような。

 なんだかエンらしくない。

 エンはもっと、私の言うことには素直で、従順で……今回だって、そうだったのですね、なんて言いながら受け入れてくれる気がしたのに。

 少なくとも、初めて会った頃のエンならそうだったはずだ。


「強情だなぁ……誰がこんな風にしちゃったのかなぁ」

「……なぜマスターは、エンが命令を拒否してしまったのに嬉しそうなのでしょうか……」

「なんでかなぁ」


 エン的には、ここは出来損ないだなんだと怒鳴られるところだと思っていたのかもしれない。

 でも私にとっては、たとえ想像の中でさえ、エン以上のアンドロイドなんていやしない。

 罵声なんて飛ばしようもない。


「でも本当に、忘れてくれていいからね……きっと、苦しいだけだよ……こんなもの抱えていっても、辛いだけだから」

「ご安心ください、マスター。エンはアンドロイドですから、感情などありません。苦しみも辛さもありません」

「……エン……」


 エンがそう言うことを私が嫌ってることなんて、優秀なアンドロイドである彼女ならなんとなくわかってくれているはずなのに、エンはそんな風に自分を卑下する。

 だけど続く言葉を聞いて、彼女が本当はなにを伝えたいかを私は正しく理解した。


「ですから……エンであれば、いつまでもマスターのことを覚えていられます。マスターと、マスターが教えてくれたことを、いつか朽ち果てるその時まで、決して忘れることはありません」

「っ……」


 あなたと過ごした日々を私も大切に思っている。

 私には、エンの言葉はまるでそう言ってくれているように聞こえて、目頭が熱くなった。

 ああ。やっぱりエンは、感情がない機械なんかじゃない。そんなもの口からでまかせの嘘っぱちだ。

 だって私の手を握ってくれるエンの手は、私にかけてくれるエンの言葉は、声は、こんなにも温もりに満ちている。

 これがゼロとイチだけで構成されたプログラムだなんて、私は絶対に信じない。


「ねぇ、エン。もう一個我儘言うんだけどさ……隣に寝てもらってもいい、かな。少し……寒くて」

「エンでよろしければ」

「エンじゃないとやだなぁ」


 昨夜寝た時のように、エンが寝袋の中に入ってくる。

 手を繋いでいるところまで一緒だ。

 私の体温とエンの体温が混じり合って、なんだか心地がいい。

 寒さなんてすっかり吹き飛んでしまう。


「私……エンに出会えてよかった」


 これが最後だというのなら、伝えなくちゃいけない気がした。

 私の本音を。私がエンに感じている偽りのない気持ちを。


「好きだよ、エン。ずっとずっと好き。あなたの心が……あなたが私に寄り添ってくれることを選んでくれたあの時から、あなたのことが大好き」


 エンにとってはこんなもの、永遠に近い時間のほんの一瞬に過ぎないのかもしれない。

 でも記憶を失った私にとっては、この三日間がすべてだった。

 エンと過ごした三日間だけが私の人生で……エンだけが、一人ぼっちだった私の寂しさに寄り添ってくれた、ただ一人の大切な人だった。


「……エンは……よく、わかりません。マスターの言動も命令も、エンには理解できない不可解なものばかりでした」

「あはは……だろうねぇ」

「ですから……知りたいと、思っていました。アンドロイドとして不出来なはずのエンをそばにおいてくれるマスターの思いを、考えを、知りたいと。これからマスターに仕えていく中で」

「……そっか」

「……いなくならないでください、マスター。エンはまだ、マスターにふさわしいアンドロイドになれていません。もっとエンにマスターのことを教えてください。マスターのためなら、エンはなんだってできます。ですから……」


 ……やっぱり、私は幸せ者だ。

 私の死を疎んでくれる人がいる。私が生きることを望んでくれる人がいる。


「大丈夫だよ。こんなのきっと風邪なんだから……一度寝て休んだら、明日にはもう元気になって、エンの隣にいるよ」

「……本当ですか?」

「本当だよ。だからなにも心配なんていらない。安心して」


 こんな夢も希望もない世界でそれでも笑っていられたのは、エンがいたからだ。

 エンがいてくれるから、こうして死を前にした今でさえ笑っていられる。幸せを感じられる。

 私の微笑みを見て、エンはなにも言い返せなくなったかのように口を噤んだ。

 エンがなにを言っても私は風邪だと言い張るつもりだと察したようだ。

 その私の意図を汲んでくれるみたいに、エンは無言で私に寄り添ってきた。


「あったかいな……」


 少しも寒くなんかない。

 心地のいい睡魔に身を任せるようにして、瞼を閉じる。

 意識を手放してしまえば、もう二度と目覚めることはないのかもしれない。

 だけど未練はないと、私は自信を持って言える……なんてのは嘘だ。

 ただ強がってるだけで、本当は未練たらたらだったりする。

 もっとエンと一緒にいたい。エンが私にそう望んでくれたように、私だって同じことを思ってる。

 だからだろう。閉じた目の端の方から、ポロポロと雫がこぼれてくるのがわかった。

 するとエンと繋いでいる手が、強く握り返される感覚がした。

 誰に命令されたわけでもない。エンが自分の意思で、そうしてくれた。

 それを思うだけで、私の胸の内がなにか温かいものに満たされていくようで……。

 ――ありがとね、エン。

 ……そう心の中で呟いたのを最後に、私は意識は、暗い暗い海の底に深く沈んでいったのだった。

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