第05話 勉強会と禁忌の扉

 ——リコリス。


 それが少女の名前らしい。


 ではテディの言っていたルナリアとは誰の事なのだろう。

 僕はてっきり目の前にいるこの少女がルナリアだとばかり思っていたのだ。


 僕の夢の中で泣いていたリコリス。

 テディが僕に涙を止めてほしいと頼んだルナリア。


 二人の涙を流す女性。

 世界とはそんなにも悲しみに暮れる女性で溢れていたのか。

 嘆かわしや嘆かわしや。


 とはいえ今考えて解る事だとも思えないし、とりあえずその問題は後回しにする。


 僕はリコリスに、ここでの言葉を教えてもらうことにした。


 まずその意思を伝えるのに相当苦労したが、なんとか教えてもらえるように約束を取り付けた。


 とにかくリコリスと信頼関係を築く事が最優先だ。

 そうすればいつか、リコリスから涙の理由を話してくれる時が来るかもしれない。


 何が出来るのかは解らないけど、精一杯力になりたいと思う。


 なんだか自然と一緒に生活する流れになっているが、リコリスから苦情も出ていないので、知らないフリを決め込む事にした。


 城の中に部屋は余る程あるし、どうやら僕の身体は飲食が必要なさそうだから、食費なんかも掛からないし、大きな問題はないだろう。


 うん。全然。全く問題ない。


「美少女とひとつ屋根の下で生活出来るなんて、最高じゃのお——ジュルッ」


 言葉に出てた。


 リコリスがキョトンとしながら首を傾げている。


 セーフ! 言葉通じてなくて良かったあ。危うくブタ箱の中で臭い飯を食う事になるところだった。あ、飯食えないか。


 シャンデリアに灯りが灯った。


 いつの間にか日が暮れていたらしい。


 ぐうぅ——とお腹の鳴る音がした。

 僕はクマさんの身体になってから、お腹が減った事はない。つまりこの音の出所は——。


 リコリスがお腹を押さえながら、眼をギュッと瞑り恥ずかしそうに顔を顰めている。

 頬も耳も真っ赤っかに染まっている。


「あはははは」


 その姿がなんだか可笑しくて、僕はつい声を出して笑ってしまった。


「んー!」


 赤い頬を膨らませたリコリスが、僕のもふもふの身体に、まさかのおでこをぶつけてきた。


 ——頭突きて。


 その後ドリルのように頭をぐりぐりとねじ込んでくる。


 あん、ちょっと——こそばゆいってえ。何この生き物。永久的に愛護したい。


 僕はこれからお世話になるお礼も兼ねて、手料理を振る舞う事にした。


 僕の限られた数少ない特技のひとつが、何を隠そう料理なのだ。

 親が共働きだったから、練習する機会は幾らでもあったのだ。

 それに料理出来る男子ってモテそうだし。

 今のところモテた事はないけど。


 そんなわけで、僕は厨房に立った。


 この身体で料理すると、毛とかすごい入りそうだけど、大丈夫なのかな。

 まあ気を付けるしかないか。


 厨房には意外にも食材が豊富に揃えてあった。

 リコリスも普段から料理をしているのだろうか。


 僕は正体不明の肉のミンチを使って、ハンバーグを作って振る舞った。

 ゴム手袋のようなものがあったから、それで手を覆った。だから毛は混入していない——筈。


 リコリスはハンバーグが気に入ったようで、美味しそうに食べてくれた。


 こちらの世界でも食事にはナイフとフォークを使うようで、形状にも特に違いはなかった。

 やはりリコリスはお城に住んでるくらいだから育ちが良いのか、僕なんかよりずっと上手にそれらを使っていた。


 主食はパンのような食べ物らしい。薄くて丸い小さなパンを大皿からそれぞれ食べたい数だけ取る方式のようだ。クッキー程度の大きさの、ピザ生地のような見た目。

 リコリスはそれを二枚食べた。やはり少食らしい。

 僕は食べるリコリスをずっと眺めていた。全然飽きないんだよね、不思議。


 僕とリコリスは移動する時には手を繋ぐ。


 他人から見たら、僕達は恋人同士に見えるのかな——。


 いやどう見てもテーマパーク!


 着ぐるみとのたわむれ!


 この身体じゃなければなあ。まあこの身体だからこそ、リコリスは手を繋いでくれてるんだろうけどさ。

 つまりは抱き着きも、頭ぐりぐりもこの身体だからこそ、というわけか。


 ——クマさんになれて良かったあぁ!!


 僕がリコリスを眺めながら幸せに浸っていると、視線に気が付いたのか、僕の方を見て眼を瞑ってニカと笑った。


 ここが天国ですか? 僕やっぱり死んでるのかな。うん。もうそれでもいいかもしれない。


 リコリスの部屋に戻る途中の扉の前で、リコリスは僕の手を離して立ち止まった。


「リコリス?」


 僕も止まった。


 リコリスは何か喋りながら先の道を指差して、その後僕に微笑みながら手を振った。


「何か用があるなら僕も付き合うよ」


 伝わる筈もない日本語で話しながら、自分を手で指してリコリスの方へ近付いた。


 リコリスは慌てたように両手を大きく振った。

 よく解らずにそれでも近付いて行った僕を、両手で押し返した。


 少し怒ったような顔をしている。


 なんなんだいったい? この扉の先に何があるっていうんだ?


 僕はリコリスに城の中を案内してもらった時の記憶を思い返す。たしかこの部屋は——。


「そうかあ。リコリスはこれからお風呂に入るのかあ。じゃあ僕が一緒に入るわけにはいかないなあ。いやあ納得納得。そうかあ、リコリスはお風呂かあ——ジュルッ」


 おや? 日本語は解らない筈なのに、リコリス姫がドン引いていらっしゃる。

 まいったまいった。僕のほとばしるパッションが言語の壁を越えてしまったか。


 紳士である僕は大人しくその場を離れた。


 どこに居ればいいのか解らなかった僕は、結局リコリスの部屋に戻った。

 主人あるじ不在の少女の部屋に入るこの背徳感。ぞくぞくするぜ。


 手持ち無沙汰になった僕は、部屋の壁沿いに置いてある本棚を物色してみる。


 本棚いっぱいに本が詰め込んである。リコリスはなかなかの読書家のようだ。感心感心。


 大体は活字だけの本だが、何冊か絵本が混じっているようだ。


 なんとなく目についた絵本を手に取って、頁をパラパラとめくってみる。


 当然だけど、全く読めない。仕方なく絵だけを目で追ってみる。


『男は花を売って暮らしていた。貧しく孤独な毎日を送っていたが、ある日夢の中の世界に迷い込んでしまう。

 苦労しながらも優しい心を持っていたおかげで成功を収める。愛する伴侶も得て幸せに暮らしていた。

 ところがある日、男は長い眠りから目覚め、現実の貧しく孤独な生活に戻ってしまう。

 夢の世界に取り憑かれてしまった男は、永遠に夢の世界で暮らすために、自らの命を絶ってしまう』


 最後の頁は幸せそうに笑う男と、その妻と子供が楽しそうにしている日常の風景のような絵で終わっていた。


 その幸せに満ちた絵が、読後の虚しさをより際立たせている。


 自分の今の境遇と重なって、少しドキリとした。

 どうにかして戻るための手掛かりを見つけないと。


 背後で扉の開く音がして、リコリスが部屋に戻ってきた。


 不思議そうな顔をしながら僕の方へと近寄ってくる。


 僕は見ていた絵本を元の場所に戻した。


 後ろから僕のお腹の方に両手を回して、リコリスが抱き着いてくる。

 僕が振り向こうと顔を横に向けると、リコリスが覗き込むようにして僕を見ていた。


 少し湿った髪の毛から石鹸のような良い香りがする。


 大きな碧眼がパチクリと瞬く。


「大丈夫。なんでもないよ」


 僕は伝わりもしない日本語でそう答えた。


 首を傾げながらリコリスが僕の頭を撫でる。慰めるように、優しくゆっくりと。


 やめてそれ。泣いちゃうから。


 さっきまで僕の中で渦巻いていた不安とか恐怖が、溶けて霧散していくような、不思議な温かさに包まれていく——。


 次の日は、朝から勉強会が開かれた。


 僕がリコリスに頼んでいたこの世界の言葉の勉強だ。

 僕はメモを取りながら、少しずつ単語を教わっていく。


 途中からリコリスも僕の話す日本語について聞き始め、お互いに言葉を教え合う形になった。


 驚いたのはリコリスの覚えの早さだ。まるで高野豆腐のように日本語を吸収していく。

 僕がこの世界の言葉を覚える早さの五倍くらいの早さで日本語を覚えていく。


 この子は完璧超人なのか。可愛いから許す。


 昼はリコリスが自分で料理を作って食べた。


 この子は万能の神なのか。可愛いから許す。


 野菜たっぷりのスープに、グラタンのような食べ物。それに小さな丸いパン。もの凄く美味しそう。僕もリコリス姫の手料理食べたかったなあ。

 勿論僕はリコリスの食事する様子をじっくりと眺める。眼福眼福。


 とはいえ見ているだけでなく、なるべく会話をするようにした。早く喋れるようになりたいから。


 昼休憩を挟んでまたお勉強。


 勉強と言っても、リコリスと楽しくお喋りしているだけの感覚で、苦もなく寧ろ楽しくてしょうがない。


 そんなわけで、あっという間に夜になってしまった。


 夜は僕が肉じゃがを作り、リコリスに振る舞った。

 美味しそうに食べてくれた。やばい。おねだりされたらなんでも買っちゃいそう。


 その後リコリスはお風呂場へ。


「リコリスはお風呂かあ。うん解ってる。僕は部屋で待ってるよ。でもそうかあ。リコリスはお風呂かあ——ジュル」


 リコリスが蔑むように僕を見る。

 ——なんだろう。悪くないね。

 そんな視線もご褒美にしてしまうリコリスの可愛いさが悪い。


「アヲバは、しんしなのに、いやらしい」


 リコリスがカタコトの日本語でそんな事を言う。


 まさかリコリスの口からいやらしいなんて言葉が出るとは——悪くないね。


 しかし僕はそんな言葉をわざわざリコリスに教えたのか? 実際リコリスが喋っているのだし、おそらく教えたのだろう。


 どうやら僕は、僕が思っている以上に高度な変態らしかった。


 短かった一日が終わり、リコリスは眠りについた。


 眠る事のない僕は、時間を潰すために灯りの消えた城の中をぷらぷらと歩き回った。

 一晩中リコリスの寝顔を眺めていてもよかったのだが、そんな事をすれば本当に嫌われてしまいそうなのでなんとか我慢した。


 適当に時間を潰してリコリスの部屋へと戻った。


 そーと扉を開けて、部屋の中へ息を潜めるようにして入る。


 やっぱりちょっとばかし寝顔を覗き見ようと思い、リコリスの眠るベッドに忍び足で近付いた。


 はたから見れば完全に犯罪者の絵面だ。


 ぐふふ。僕は下卑た笑いを浮かべながら、リコリスの顔を覗き込む。


 あれ?


 そこに眠るリコリスの姿はなかった。


 もぬけの殻。


 トイレかな。残念だけど寝顔の拝見は次回に持ち越しか。


 僕はぼーとリコリスが戻るのを待った。


 ——。


 ————。 


 ——————。


 ——おかしい。

 トイレにしてはあまりに遅すぎる。

 もしやリコリスの身に何かあったのだろうか。


 急に不安が押し寄せ、僕のあるかも判らない心臓が激しく鼓動した。


 居ても立ってもいられず、僕は部屋を飛び出した。


 とにかく城中を捜し回ろう。


「リコリース! 大丈夫か! リコリース!」


 僕はリコリスの名前を大声で呼びながら、暗い城の中を駆け回った。

 石造りの壁や天井に、僕の声だけが虚しく響き、やがて静寂の中に吸い込まれていく。


 ——いったい何処に行ったんだリコリス。


 焦りは時間を追うごとに増していく。逸る気持ちとは裏腹に、床を蹴る両脚は空回る。


 城の中はほぼ捜し終えてしまった。しかしリコリスは未だに見つからない。


 あと見ていないのは——。


 僕が近付くのをリコリスが嫌がった部屋だけ。


 僕は迷う。


 あの時、リコリスは今にも泣きそうな顔をしていたから——。


 余程見られたくないものがあの部屋にはあるのだろう。

 僕だって無理に他人の秘密を覗き見ようとは思わない。誰にだって秘密はある。

 家族にだって、親友にだって話せない秘密が時にはあるものだろう。


 ——でも、リコリスが心配だ。

 もし中で倒れていたら——。

 助けを呼べない状況だとしたら——。


 当然ここに居ない可能性だってある。だとしたら事態は深刻だ。城の外は僕にとって未知だ。捜しようがない。


 しかし現状を把握しなければならない。少なくとも城の中には居ないのか、それを確認する必要がある。


 僕は覚悟を決めて、禁忌の扉へと足を進めた。


 心臓が爆発しそうなくらいに高鳴っている。呼吸が浅く速くなる。


 僕は毛むくじゃらの手を伸ばしてドアノブを掴んだ。


 いち度大きく深呼吸をしてからドアノブを回し、ゆっくりと禁忌の扉を開いた——。

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クマと少女と涙と剣と ヲダ @yume-utsutsu

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