門の娘と黒い庭師

文月 郁

門の娘と黒い庭師

「こんにちは、お嬢さん。これから一緒にお茶でもいかがですか? このすぐ近くに美味しいケーキで評判の喫茶店があるんですよ」

 メルカタニトの北部に位置する運河の町・カナーリス。その大通りで、行き交う人々を眺めている娘がいた。

 腰まで届く豊かで長い濃茶の髪。首には金の環が二つつながった飾りを下げ、上部に赤い結晶を埋めた杖を持っている。

 はいている膝丈のブーツは、土埃にくすんでいる。白い長袖のシャツ、薄青色の上衣、黒いキュロットという清楚な服も、丈夫な生地で作られた、旅に向いたものだ。

 人待ち顔で佇む娘――アンジェは不意に親しげな声で話しかけられ、驚いた様子で声のほうを向いた。

 橙色の髪を短く刈りこんだ青年が、アンジェに笑いかけている。彫りの深い、目鼻立ちの整った面は、どこへ行っても美男子で通るだろう。

 年齢は二十五、六くらいか。動きやすそうな軽装で、腰には革の鞘に収めた短剣を留めている。

 その青年こそローンバート・ソーン。町長オリカ・グローゼンに目をかけられている、異世界からの訪客だと、アンジェには知る由もない。アンジェからすれば、軽薄な男だと、そんな印象しかもてなかった。

 旅の道連れであるアイラが、切らしていた傷薬を買うのを待っている間に、まさかこんな典型的なナンパをされるとは思わず、アンジェはとっさに言葉が出てこなかった。

 なにせ、こういった経験がまるでないアンジェなのである。

 これまでの人生は、そのほとんどを神殿ですごしてきた。朝夕、神へ祈りをささげ、何事にも神を第一とする生活では、異性から誘われることなどない。神殿を出て、在家の聖職者として旅歩くようになってからも、首飾り――聖職者であることを示す聖印――を持つアンジェに、言いよる者などいなかった。

 にこやかに笑いながら、ローンバートがアンジェの肩に手をかける。

「おや、もしかして、甘いものはお嫌いですか?」

 愛想が良いのはともかく、馴れ馴れしいのは不快だった。

「お待たせ」

 そこへ、買い物をすませたアイラが、早足で戻ってくる。

 困り顔のアンジェを見、まだアンジェの肩に手をかけたままのローンバートを見て、アイラは眉を寄せた。

「アンジェに何の用?」

 低い、棘のある声音。ローンバートがじろりとアイラを見下ろす。

 細くバンダナを巻いた、短い灰色の髪。口元をスカーフで隠し、飾り気のない服を着た彼女は、ローンバートには少し変わった少年としか見えなかった。

「ガキはひっこんでな。痛い目見るぞ」

 アイラの灰色の瞳に、ゆらりと焔が揺れる。

 それでもすぐにローンバートに飛びかからなかったのは、彼が、かなり腕の立つ男だと、すぐに察したからだ。

 だからといって、このまま見過ごすわけにはいかない。

「誰がガキだ。嫌がられているのもわからないのか。さっさと失せろ」

 アンジェの手をとって、強引にローンバートから引き離そうとしたとき、彼が一言、吹き飛べ、と呟いた。

 転瞬、アイラが勢いよく後方へ飛ばされた。見ていたアンジェが息を呑む。

 吹き飛ばされたアイラは、受け身をとってさっと起き上がった。何事もなかったかのように服の塵をはらい、アンジェに声をかける。

「アンジェ、行こう」

「ええ、あの……手を離してくださいませんか?」

 困り顔のアンジェに構わず、ローンバートが彼女をぐいと引き寄せる。さすがにこれにはアンジェも、腹が立ったのときまりが悪いのとで真っ赤になった。

 腹を立てたのはアイラも同じだった。細めた瞳に石のような、冷たく固い光が宿る。

「アンジェから、手を離せ」

 先よりも冷えた声に答えたのは、ローンバートの冷笑。

 きっとローンバートを睨みすえたアイラが、左袖をまくりあげる。白い腕には手首まで、文字が絡み合ったような、複雑な刺青が入っている。

 アイラの意を悟り、アンジェは再び青年に、放してください、と、今度はいくらかけわしい口調で言った。

「嫌だな、軽い冗談ですよ」

 笑うローンバートの手をふりはらう。

 同時に。

「玉破!」

 腕の刺青が、蛍火のような光を放つ。左手に生まれた白く輝く球体が、矢のようにまっすぐ飛んで、ローンバートを直撃した。

 ローンバートが先のアイラと同じく、他愛なく後ろへ飛ばされる。

 いつしか周囲に集まっていた野次馬がざわめく。

「貴様、俺を誰だと思ってる!」

 こちらも受け身をとって立ち上がったローンバートが怒声をあげる。

「知るか」

 短く返し、肩幅に足を開いて、少し膝を落とす。ローンバートはその様子を見て、内心にやりと嘲笑った。

 間合いに入れば飛びかかってくるつもりだろう。少しばかりこの子供に、実力差というものを教えてやろう。

 口元にも嘲弄の笑みを浮かべたローンバートが無造作に、アイラとの距離を詰める。

(何?)

 ローンバートが自分の間合いに入るや、アイラはすいと一歩、後へ下がった。

 逃げるのか、と、どこかから野次が飛ぶ。

「ふむ……ソーンのやつにゃ、分が悪いかな」

 背後から落ちてきた言葉に驚き、アンジェは後を振り返った。

 黒い長髪に黒外套の男。垂れ目がちの目を細めて、野次馬の頭ひとつ上から二人を見ている。それができるほど、男は長身だった。

 急に振り返ったアンジェに驚かされたのか、男がちょっと身じろぐ。

「どっちが勝つと思います?」

「うん? ……そうだな。ソーンのやつも腕は立つんだが、向こうの……嬢さんかい? そうか、うん、どうもあの嬢さんのほうが一枚上手うわてらしいな」

 男が二人へ目を戻す。

 視線の先では、アイラがまた一歩後退ったところだった。ローンバートから決して目をそらさず、その一挙手一投足に目を注ぎながら。

 逃げるな、とまた野次が飛ぶ。おおかた、ローンバートをいつも取り巻いている輩の誰かだろう。

 睨みあううちに、二人は運河にかかる橋のたもとまで来ていた。また一歩、後ろに出したアイラの足が、欄干に触れる。

 はじめてアイラの瞳が揺らいだ。にい、と、ローンバートが口角をあげる。

 欄干はもうすぐそば。その高さはアイラの腰ほど。そしてこれ以上、アイラは下がれない。

 ひっつかんで、運河に投げこんでやろう。

 ずいと迫った瞬間、アイラの矮躯わいくがひるがえる。

 地を蹴って欄干に飛びあがり、石造りの欄干を蹴って、ましらのようにローンバートの頭上を飛び越えざま、彼の背を嫌というほど蹴りつける。前にのめって平衡を崩したローンバートに、アイラは着地と同時に足ばらいをかけた。

 悲鳴じみた叫びが聞こえ、ついで水音。一拍置いて、橋の下からローンバートの怒声が聞こえてきた。

「行こう、アンジェ」

 群衆をかきわけ、二人の姿が遠ざかっていく。

 ただ一人、その二人をつけていく影に気付き、眉をひそめた男がいた。アンジェと話していた、黒外套の男である。

(ふむ……)

 ローンバートは取り巻きの連中に助けられている。幸い、彼が自分に気付いた様子はない。

 理由は知らないが、自分を嫌っている彼のことだ。河に叩きこまれたのを、それも、見下して喧嘩を売った女相手に、あっさり返り討ちにあって河に叩きこまれたのを、自分に見られていたと知ったら、何を言い出すかおおよそ知れる。

(用事はもうすませてる。……ちょいと急ぐとするか)

 内懐に手を入れ、小さくうなずいて、黒外套の男もその場を離れた。


 カナーリスのそばに広がる森には、奇妙な屋敷がある。屋敷そのものは朽ちた廃墟だが、庭だけは往時の面影を留めるように、花が咲きほこっているのだという。

 アイラとアンジェが向かっていたのは、その屋敷だった。薬屋で、薬を買うついでに店主に聞いた話では、十分も歩けば屋敷が見えてくるということだった。

――昔の道の跡は残ってるから、それを辿れば迷わないよ。一本道だしね。

 店主の言葉通り、地面にはところどころ、昔敷かれていたらしい石畳が見える。誰かが手入れをしているのか、道は歩きやすい。

 傍らを歩くアイラが、厳しい顔で黙りこくっているのに気付き、アンジェが声をかける。

「どうかした?」

「ずいぶん、静かだと思ってね」

 アンジェに答えたアイラの顔に、緊張が走る。

「アイラ?」

「……囲まれたな」

 アイラの瞳が、冷たく光る。

 木の陰に隠れていた男たちが、姿を表す。

 前に二人、後ろに三人。気配を数え、眼前の相手の腕をはかる。

 纏う雰囲気に、目を合わせたくないものが混ざっている。荒事に慣れている男たちらしい。

 自分だけならどうとでもなる。だがアンジェを庇わなければならない。

「なんとか隙を作る。そうしたら町まで走れ。いいな?」

「え、ええ」

 そのときだった。

「嬢さん、伏せろ!」

 強い声が響いた。考えるより早く、反射的に、アイラとアンジェが地に伏せる。

 破裂音。耳をつんざくその音に、その場の全員がぎょっとした。

 ぎゃっ、と悲鳴があがる。

 アイラの背後、死角から彼女を狙っていた男が、右肩を押さえて膝をついた。

 拳銃を落とし、痛みに顔を歪める男の手の下から、血が流れ落ちる。

「だ、誰だ!」

 男たちがざわめく。アイラも強張った顔で、周囲の気配を探っていた。

「そこの嬢さん二人、まだ動くなよ」

 低い声が耳に届く。

 二度続けての銃声。二人の背後で気配を絶っていた男たちが、肩を撃ち抜かれてその場にうずくまる。

「貴様か、ロスト!」

 アイラから見て右にいた、無精髭の男が怒鳴る。

「そうだよ、ベイジル。急所は外してるし、足は潰してないんだ。さっさと失せろ」

 木陰から、黒外套の男がゆっくりと歩み出る。

「誰がお前なんぞに従うかよ!」

「そうかい」

 放たれた弾丸が、ベイジルの耳をかすめる。

「十秒待ってやる。その間に逃げなきゃ、今度は本当に、その耳ふっ飛ばすぞ」

 空気がはりつめる。聞いているアイラは、うなじの毛がちりちりと逆立つ感覚を覚えていた。

 口調も声音も落ち着いていて穏やかだったが、言葉の端々にまで、はっきりと、ひりつくような殺気がこめられている。

 その殺気が自分たちに向けられていないことはわかっていたが、それでもなお、本能的に警戒心がわき起こる。

 後ろの声が八まで数えたとき、ベイジルが覚えていろ、と吐き捨てて、怪我人をつれて去っていった。

「行ったな。怪我はないか?」

「ん、助かった」

 ようやくふり返り、声の主を確かめる。

 背の中ほどまで黒い髪を伸ばした、黒外套の男。左手に太い木の杖を持ち、右手の拳銃を懐にしまったところだった。

「あ、さっきの」

 男が先刻、大通りにいた男だと気付いて、アンジェが声をあげる。

 アイラは警戒を緩めず、男をけわしい顔で見上げている。その警戒を見てとって、男は眉尻を下げて頬を掻いた。

「あー、その、なんだ。そう怖がらんでくれ」

 ロストだ、と男が自分を示す。

 二人もそれぞれ名乗ると、よろしく、とロストが破顔する。

「薔薇屋敷に行くのか?」

「どうしてわかったんですか?」

「ははは、なに、わざわざ森に入るのはだいたい、薔薇屋敷に行くためってのが理由だからな。おおかたそうじゃないかと思っただけさ」

「それじゃ、あなたもその、薔薇屋敷に?」

「ん? まあな。っと、屋敷はこっちだ」

 ゆっくりと男が歩き出す。その両脚と杖を持つ左手が義肢であることに、このとき二人は気が付いた。

 屋敷まではそう遠くなかった。建物が見えるより先に、匂いが届く。花の香だ。

 門をくぐり、庭をひと目見て、わあ、とアンジェが感嘆の声をあげる。日ごろ表情を変えないアイラも、このときばかりは大きく目を見開いた。

 薔薇、薔薇、薔薇。赤、白、ピンク、色とりどりに咲く花が、庭を飾り立てている。

「今は春薔薇の時期だからな。ちょっとしたもんだろ」

「すごいです!」

「そうか。はは、そう言ってもらえるなら、手をかけたかいもあった」

「え……じゃあここの花、全部あなたが?」

「まあ、な」

「すごいな」

 ようやく、アイラがぽつりと漏らす。咲きほこる花々への詠嘆なのか、ロストへの賛辞なのか。どちらと取ったのかはわからないが、ロストは笑みを浮かべた。

「まあ、ゆっくりしていってくれ。何かあったら呼んでくれればいいから」

 ロストが庭の奥へ歩き出したときだった。

 銃声。ロストの顔が歪み、がくりと身体が傾く。

 とっさに辺りを見回したアイラの目は、森の中へ走り去る人影を捉えていた。

「待て!」

 ロストが叫んだときには、アイラはもう地を蹴って走り出していた。

 ぐ、と、ロストが息をつまらせる。

「だ、大丈夫ですか!? 今、治療を――」

「いや、たいしたことはない。かすっただけだ」

 息を整え、杖を支えに立ち上がる。

「ふん、悪運の強いことだ」

 門のほうから声が飛んでくる。ローンバートと取り巻きのベイジル、ラーク、トバンが肩で風を切って歩いてくる。

 ローンバートが持つ拳銃からは、まだ細く煙があがっていた。

「全く、物騒なものを持ってくるなよ、ソーン」

「は、口だけは達者だな!」

 ローンバートからロストを庇うように、アンジェが前に出る。

「お嬢さん、こちらへ。その男は危険な男ですよ」

「……あなたのほうが、危険ではないのですか?」

 杖を握る。アンジェは武術の心得こそないが、相手の力量をはかる眼は鍛えられている。

 どう考えても、自分が敵う相手ではない。

 杖を地面に突き立てる。片手で杖を、片手で首に下げた聖印を握る。

「神よ、どうか、恐ろしきものが、災いをもたらしませぬよう」

 祈りの言葉を口にする。アンジェに近付こうとしたローンバートが、他の三人が、彫像のように動きを止めた。

 アンジェが使う術のひとつ、『制止』。相手の動きを短時間止めるもの。

 ロストが何か言っていたが、それを聞き取る余裕は今のアンジェにはなかった。

 一人か、せめて二人ならともかく、一度に四人もの人間に、『制止』をかけ続けるのは負担が大きい。

 ローンバートがしかめ面で、無理矢理に身体を動かす。それを見て取り巻きたちも、それぞれ身体を動かしはじめた。

(あ……)

 耳の奥で破砕音。『制止』が解ける。

 反動でふらりと倒れかかったアンジェを、ロストが抱きとめる。

 ロストの緑がかった黒い瞳に、冷ややかな光が浮かぶ。反対に彼の口元は、皮肉を含んで持ちあがった。

「いい加減にしろよ、ソーン。河で頭が冷えたと思ったが。どうだ、今度はそこの水場へ叩きこんでやろうか。そうすりゃさすがにのぼせも治るだろ」

 一瞬、ローンバートが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。ついでじわじわと、面に血がのぼってくる。ベイジルやラーク、トバンからも怒気が向けられるが、ロストの表情は変わらない。

「貴様……!」

 ローンバートの怒声に構わず、その頭越しに門のほうを見て、アンジェを抱いたロストがすいと後退る。

 駆けてくる足音。はっと見をひるがえしたローンバートの鼻先を、アイラの放った回し蹴りがかすめた。

 ローンバートが息吐く暇もなく、顔から胸にかけて血の華を散らしたアイラが立て続けに打ってかかる。ぞっとするような強烈な殺気を彼に向けて。

「こいつを押さえろ!」

 避けるのがやっとのローンバートが怒鳴りつける。だが、ベイジルも、ラークもトバンも動けない。完全に、アイラに呑まれている。

(そりゃ、呑まれるだろうな)

 いつでも引き出せるよう拳銃に手をかけ、ロストは冷静に様子を見ていた。

 ローンバートの前身は知らないが、他の三人は荒事慣れしているとはいえ、彼らの知る荒事は、酒場の喧嘩がせいぜいだ。本当の・・・命のやりとりなど、したことはない。

 逆に灰髪の娘は、これまで相当な数の修羅場をくぐっている。二度や三度ではきくまい。

「俺の手出しは要らなそうだな。嬢さん、大丈夫か?」

「なんとか……」

 アンジェが蚊の鳴くような声で答える。思っていたよりも反動が大きい。

「その様子じゃ、大丈夫とは言えなそうだな」

 膝をつき、アンジェがもたれかかれるように姿勢を変えつつ、ロストは拳銃を引き出した。

「すみません」

「気にするな。ああ、耳だけふさいでおけ」

 ローンバートに再度怒鳴りつけられ、ようやく怒声をあげながら飛びかかってきたベイジルを、アイラがあっさり殴り倒す。

 それを目の当たりにして、あたふたと銃を取り出したトバンが、アイラに銃口を向ける。

 それを認めて狙いを定め、ロストはすかさず引鉄を引いた。

 右肩を貫かれ、トバンが拳銃を取り落とす。

 ひ、と声を呑んで、ラークが腰を抜かす。二発目の弾が彼の頬すれすれを疾っていったからだ。

「それ以上動くなよ」

 鋭く警告を発する。にもかかわらず、今度はこちらに銃を向けたラークの肩を、トバン同様に撃ち抜いた。

 ロストの面に、感情は浮かばない。冷徹な光が瞳に宿っているだけだ。

 ローンバートはアイラに押される一方である。得意の魔法で力押しでもしそうなところ、それさえしないのだから、それだけ余裕がないのだろう。

「この、ガキ……!」

 ローンバートの蹴りが空を切り、隙をついてアイラが肉薄する。

 打音、ひとつ。

 顎を殴られ、ローンバートが朽ち木を倒すようにその場に倒れ伏した。

 アイラの灰色の眼が、残る二人の男に向けられる。

 ラークが慌てて両手をあげ、トバンもそれにならう。

「そこの二人をつれて失せろ。次にこんな真似をしたら、今度は鼻っ柱へし折ってやると言っていたと伝えておけ」

 ラークとトバンがほうほうの体で、倒れている二人を担いでそそくさと去っていく。

 その姿が見えなくなって、アイラはようやくひとつ息を吐いた。

「すまない。迷惑を、かけた」

「気にしなさんな。それよりお前さん、だいぶひどい怪我だが大丈夫か?」

「ああ。私の血じゃない。アンジェは?」

「大丈夫……」

「嘘をつけ」

 呆れた声のアイラに、アンジェがしゅんと肩を落とす。

「なんなら家で休んでいくか?」

 家、と聞いて、アイラは思わず屋敷をふりあおいだ。噂の通り、今にも崩れそうな廃墟である。まともな部屋が望めるどころか、そもそも入ることができるとは思えない。

 アイラの視線を追って、ロストがくつくつと、小さく肩を震わせた。

「ああ、家は向こうだ。家と言っても小屋だがな。それでも部屋はある。町まで戻るより、そのほうがいいだろ」

「ん、助かる」

 小屋は庭の奥、眼に留まりにくい場所に建っていた。空いている部屋にアンジェを寝かせ、自分の顔の血を拭い、服を着替える。

 その後で、荒れてしまった庭を直すと申し出たアイラだったが、ロストは構わないと手をふった。

「お前さんも休んでな。庭のことは気にしないでいい」

 長居するつもりはなかったが、アンジェがひどく疲れていたのと、天気が急に変わり、車軸を流すような大雨となったので、結局二人は小屋に泊まることになった。

「大丈夫?」

「ええ、もう平気」

「なら、よかったけど。やっぱり、反動?」

「たぶん。もともと『制止』は一人か二人を相手にするものだし、無理に解かれたから」

「じゃ、ゆっくり休ませてもらおうか」

 そうね、と呟きの後ですぐに、静かな寝息が聞こえてきた。


 その夜遅く、ふと目を覚ましたアイラは、隣の部屋から弱い灯がもれてきているのに気が付いた。

「悪いな。起こしちまったか」

 ランプを灯しただけの部屋で、ロストが一人、酒盃を傾けていた。アイラを見、彼はすまなそうな表情を浮かべる。

「いや。怪我は、いいのか?」

「ああ、かすり傷だ。それよりお連れさんの方は大丈夫なのか? 晩飯も食わずに寝ちまってたが」

「うん、ゆっくり休めば大丈夫」

「そりゃよかった。そうだ、お前さん、酒が飲めるんなら一杯どうだ?」

 すすめられ、アイラはうなずいてロストの向かいに腰かけた。

 棚からグラスをもうひとつ出してきたロストは、琥珀色の酒を注いでアイラに差し出した。

 一口飲んで、小さく咳きこむ。喉がかっと熱くなった。アイラは決して下戸ではないのだが、相当強い酒らしい。

「お前さんたちも〈外つ国人〉かい?」

 〈外つ国人〉。ローンバートのような、異世界からの訪客を、この国ではそう呼ぶ。

「そう呼ぶらしいね。……あんたは?」

「……ああ、俺もそうだ。しかし、まあ……」

 言葉を切って、ロストがくつくつ笑う。

「何か?」

「いや、ソーンのやつが、お前さんに二回ともあっさり返り討ちにあったのが可笑しくてな。あいつ、普段からしょっちゅう、自分は町で一番腕が立つって大見得切ってたからな」

 ひとしきり笑って、ロストがふと真顔になる。

「とはいえ気を付けな。町一番かどうかは置いておくとしても、あいつの腕は確かだし、何よりプライドが高くて執念深いからな。それに、お前さんに叩きのめされるのを、よりによってあいつが一番嫌ってる俺に見られてるんだ。それも二回が二回とも、な。できるなら、早めに町を離れたほうがいい。カナーリスの外なら、さすがにあいつも何もできん。あいつが大きな顔できるのは、この町の中だけだからな」

「ん、わかった。……そっちは、大丈夫?」

「なに、あいつが俺を嫌うのは、今に始まったことじゃない。それに俺は、花の世話もあるからな」

「……あんたは……もともとは武人、か?」

 酒の酔いもあってか、日頃は他人のことに踏みこまないアイラが、いくらか目つきを鋭くさせて切りこんだ。

 唇だけで薄く笑って、ロストが静かに問い返す。

「なんでそう思った?」

「射撃の腕……いや、それよりも、あんな殺気は、よほど場数を踏んでなきゃ、身につかないだろう。さっきあんたは、ソーンは腕が立つと言ったが、腕で言えば、あんたのほうが上なんじゃないか。……それに、弾丸を外したのも、あれ、わざとだろう」

「ははは、そこまでわかってるのか。腕はどうだか知らないが、確かにわざと外したよ。本気で向かってくるなら、耳のひとつもふっ飛ばそうとは思ってたけどな」

 目の中によぎった冷徹な光を隠すように、ロストが目を伏せ、そのまま酒をあおる。

「まあ、武術をかじってはいたが、昔の話だ。今は、ただの庭師だよ」

「……そうか。失礼した。踏みこみすぎたな」

「気になる気持ちはわかるさ。俺も正直気になってるしな。お前さん、見たとこ俺より若いんだろうに、そうとう修羅場をくぐってきたんだろう?」

「んー、まあ、それなり? 旅暮らしだし、護衛の仕事とか、受けるときもあるし」

「どうりで」

 ロストがまた一杯、自分のグラスに酒を注ぐ。彼は果たして何杯目なのだろうかと何となしに考えながら、アイラも半分ほどになったグラスを傾けた。慣れてきたのか、熱はさほど感じない。

 一旦会話が途切れてしまうと、もう二人の間には会話らしい会話はなかった。アイラもロストも口数の多いほうではなく、沈黙が気詰まりな性格でもない。

 やがてグラスを空にしたアイラは、ロストに礼を言って部屋へ戻った。

 酔いも手伝って、アイラは枕に頭をつけるなり眠ってしまったが、ロストは一人で、まだしばらく酒杯を傾けていた。


 夜じゅう降り続いた雨も、朝にはあがっていた。

 薄く焼いたパンと卵で朝食をすませ、ロストが二人を森の入口まで送っていった。

「色々お世話になりました。ありがとうございました」

「ありがとう」

「いや、何かと行き届かなくて悪かったな。それと、餞別、と言っちゃなんだが、これ、よかったら持っていきな」

 ロストが二人に手渡したのは、赤い薔薇の花だった。綺麗に棘が除かれ、怪我をしないように気配りがされている。

「ありがとうございます!」

 アンジェが目を輝かせ、アイラも軽く頭を下げ、花を頭に巻いたバンダナに差しこんだ。

「もし機会があったら、秋の庭を見に来るといい。秋の薔薇もちょっとしたもんだ」

 はい、と笑うアンジェを見、ロストも目元を和らげる。

「そんな顔ができるんなら、もう心配なさそうだな」

「……これ、よかったら」

 ごそごそと荷物を探っていたアイラが、ロストに小さな木彫りを差し出した。

「これは……犬かい? ありがとう」

「うん。あの男には、気を付けて」

「ああ。なに、どうにもならなくなったら逃げるつもりだ」

 一瞬だけ、ロストが浮かべていた人のいい笑みが、ふてぶてしいものになる。

 それを認めて、口元を隠すスカーフの下で、アイラがふっと唇を歪めた。おそらく彼女の浮かべる表情の中で、最も失笑に近いものだろう。

 最後にもう一度、別れの挨拶を交わして、二人の女と一人の男はそれぞれ、別の方向へと歩いていった。

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