十.

「風、弱まってきたね」

 絶えず口を動かし続ける季子。その内、眠気がやってくるとたかをくくっていたが、一向にその気配はない。

「うん」

 反応が返ってくるあたり、槙原もまた同じらしい。あるいは、こちらがべらべらべらべら喋るから付き合ってくれているのかもしれなかったが。

 あれ、あたしってばただの迷惑なやつ。素に返って、自重すべきかと考えたものの、

「それにしても台風も随分と長い間、ここら辺に居すわったね。腰が重いというか、迷惑というか」

 自然と言葉を紡いでしまう。思わず不安になった季子は、頬杖をついたままの状態で、寝転がる槙原の顔を覗きこむものの、その表情には取りたてて変化は見受けられない。

「そう」

 ぼそりとした言葉は相も変わらず真意が窺いにくい。気のせいか、少しばかり反応が固いように思える。こころなしか眠たげな瞳も座っていたが、これはただ単に睡魔がやってきているだけかもしれない。いずれにしろ覇気がなく、人形相手に喋っているみたいで面白みはなかったものの、

「ホント、ここに槙原が住んでてくれて助かったよ。ありがとね」

 喋ることは季子にとって性みたいなものだからか、言の葉の暴走はとどまることを知らない。なにかに追い立てられるみたいに唇はたわむ。

「どういたしまして」

 平らな返事。天井を向いているとおぼしき槙原の顔は、透き通りそうな肌も手伝って、能面じみている。なにを考えているのかはわからず、ただただ虚ろに見えた。そのどことなく塩っぽい対応は、高校時代を思い起こさせる。元より、今日の槙原も特別に愛想がいいというわけでは決してなかったものの、もう少し会話が成立していた感があった。それが今となっては昔と大差がない気がした。いや、つまるところ、やはりただただ眠いというところに集約されるのかもしれなかった。

「槙原はさ」

 それでも口は動く。さしあたっては答えが返ってこなくなるまではそうしようかな、とぼんやり思う。

「いつから、一人暮らしなの」

「大学に入る少し前くらいから」

 素っ気ない答え。だいたい二年半くらいか。

「へぇ、けっこう長いんだね。寂しくなかったりしないの」

「あんまり」

 曖昧な返事。眠たげな目がやや細められたように見えた。

 頭に浮かぶのは、教室の隅で一人文庫本のページを捲る少女。

「それは、一人でいる方が好きだから」

 今日。というよりも日を跨いだから昨日以来、何度目かの踏みこみ過ぎかもしれないという問いかけ。それでもさして躊躇がなくなったのは、慣れたからか、あるいは。槙原は軽く目を瞑ったあと、

「一人でいても他の人といてもあんまり変わりないけど」

 どことなく躊躇いがちに呟いてから、

「なんとなく、一人の方が楽だな、とは思うよ」

 やはり歯切れの悪い言葉を重ねる。その答えを耳にしてから、季子は口に出かけた思いを一旦呑みこんでから、間を置いた。瞬きをする槙原。季子は唾を呑みこんだあと、

「じゃあ、あたしといるのは楽じゃないってことかな」

 直球を投げこむ。

 再び目を瞑る槙原。沈黙。弱まった風がガラス戸を揺らす。答えを待つ季子。

「悪くはない、と思うよ」

 返ってきたのは、求めていたものからやや逸れたもの。もっと、掘り下げようか、と一瞬考えたものの、

「そっか」

 納得したというに返答をしてから、あらためて布団に寝転がる。それで十分な気がした。

 相も変わらず続く戸を揺らす振動。槙原は黙ったままだったし、季子もまたなんとはなしに口を閉じていた。普段であれば、それだけで落ち着かなくなったりするはずだったが、無理やり喋りだす気もしなくなっている。かといって、いまだに眠気がやってきているわけでもない。心もどことなく安らかで、ぼんやりと点けっぱなしの蛍光灯をぼんやりと眺める。

 悪くはない。槙原が口にした感想を頭の中でまた再生する。少なくとも、嘘を吐いているようには見えなかった。だから、今の槙原が、悪くない、と思っているというのを、季子は信じようと決める。

 じゃあ、あの一か月はどう思ってたんだろう。自然と湧きあがってきた疑問は、やすらかになっていた心をわずかに震わせた。

 教室の隅で本を読んでいた槙原。長い髪、白い肌、眠たげな目。そんな槙原は、たいてい一人でいたものの、だからといってなにか欠けていたというわけでもなく、しっかりと根を張っていたように思える。そんな少女と同じクラスになったあの一年。季子はいつものように誰とでも仲良くなりながら、時折目の端にちらちら映る本を読む少女の姿を気にしていた。

 そんな風に興味を抱いた六月の終わり頃、席替えによって槙原が前にやってきた。どんな娘なんだろう。そんな疑問を持っていた矢先だったから、まぁまぁ嬉しかった。

 とはいえ、話しかけるのには少しばかり難儀した。槙原は休み時間、大抵本を読んでいる。だからといって、話しかけていけないという決まりはなかったが、座ってページを捲っているだけで絵になる少女の邪魔をするのは気が咎めた。だからこそ、話しかけるにしても本を読んでいない時間帯が望ましいと判断し、昼休みに一緒にお昼ご飯を食べないか、と言ってみた。その願いはあっさりと承諾され、二人は昼休みの時間をともにすることになった。おそらく、断られるだろうと思い、何度か頼みこもうとしていた季子は、拍子抜けしつつも、ともに弁当をつつく仲となった。

 とはいえ、その一か月はさほど楽しいものではなかった。季子がいくら話しかけたところで槙原の反応は芳しくなかったし、表情もどことなくつまらなさそうだった。なんであたしはこの人と食べてるんだろう、なんて自分から誘ったにもかかわらず何度か思ったものの、懲りずに一か月話しかけ続けたものの、大きな変化は訪れず、夏休みに突入し、新学期の席替えであっさりと、ともに昼食をとる機会は失われた。

 寝息が耳に入り、音を立てないようにして体を起こす。ベッドの上ではブランケットをかけた槙原が安らかな寝息を立てていた。右を下にして寝る、女の表情はなぜだかどことなく苦し気に見える。

 寝顔を見たのも初めてかもしれない、と季子は思う。槙原の後ろに座っていて、たっぷりとした黒髪は嫌というほど眺めていたが、正面はそれこそ昼食の時に以外はあまり見る機会がなかった。そんなだから、居眠りしている姿を拝むこともなく、そもそも、居眠りしていたのかどうかす季子にはわからない。

 少しの間、じっとしたあと、音を立てないように近付く。その後、槙原の顔の前で手をひらひらさせてみるものの反応はない。ぐいっと顔を寄せて見下ろしてみれば、そこには整った顔をした女がいる。高校時代はその野暮ったさに埋もれていたものの、こうしてみればやはり素材が良かったのだと実感した。元より、美人寄りだったものに三年の月日が加えられた結果、ぼんやりと見つめていたいくらい綺麗になっている。

 そんなわけで、しばらくの間、息を殺してベッドの上に転がる女の顔を眺めつづけていた。耳に入ってくるのは徐々に弱まっていく雨風の音と、微かな吐息。それと時たま意識する、季子自身の機械的な鼓動。そう、鼓動は機械的だった。

 失礼な言い方をすれば、おそらく昔の槙原よりも今の槙原の方が美術品としての価値は高いだろう。少なくとも、美術館に行った時にただただ綺麗な絵を見た時のような感情を得られるはずだ。しかし、そこにはかつてあった、惹きつけられるようななにかはない。

 仮に高校時代の季子が今の槙原を見て声をかけたいと思ったかといえば、声はかけただろう。ただそれは、かつての槙原に声をかけた時に比べて、反射や惰性を伴ったものになったに違いない。

 なにが変わってしまったのか。物理的にいえば髪の毛が長いか短いかただそれだけの違いになるのだろう。なにせ季子の視点からすれば、多少は社交的になったようであっても槙原の本質にはさほど変化は見受けられないのだから。

 見つめれば見つめるほど冷めていきつつも、目を逸らさない。あるいは季子自身、なにかを期待しているのかもしれなかったが、槙原は規則的な寝息を立てるだけで何の変化もなかった。

 ああ。溜め息を吐きそうになる自らに嫌悪を覚えつつも、季子は槙原の顔を見下し続けた。ハッとするほど綺麗だと再確認すればするほど徒労感が心の上に積み重なっていく。




 ←*


 すっかり暗くなった教室。窓際の席で頬杖をつく和泉は、前の席で少女が立ちあがるのを見つめていた。

「じゃあ、また」

 早い足取りで去っていく少女の後姿をぼんやりと眺める。活発な短い髪の毛はすっきりとしている。

 少女が去ったあと、自らの長い髪をなんとはなしにすくいあげた。綺麗だ、と誉められたのは素直に嬉しい。ただ、あれくらい短いのもいいと思った。今は試す気にならないけど、いつかはああいう髪型にして見てもいいかもしれない、なんて思いつつ、目を瞑った。オレンジ色が瞼の裏に広がる。

 瞼を開けた時には少し前に何を考えていたか忘れて、首を捻った。




 *→


 台風一過。吸いこまれそうな青空を見上げて、季子は今日も熱くなりそうだと思った。まとめなかった髪は肩に振りかかり温かったが、どことなく愛おしい気がする。

 まあ、たぶん、気のせいだけどね。なんて考えたあと、欠伸を一つ。

 これからどうしようか。いや、帰るしかないよね。なんて自分で突っこみつつも、先程出てきたばかりの扉から一歩一歩離れていく。家主を起こさないように気を付けたせいか、玄関からは誰も出てくる気配はなく、季子自身もそれでいいと思った。

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あまやどり ムラサキハルカ @harukamurasaki

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