九.
見上げる和泉の前で、村上はどことなくきょとんとした目をしている。和泉の頭の中には、楽しげに話している制服姿の村上が浮かんでいた。その時の髪は短くて、今以上に活発そうだったと記憶している。
「伸ばしてるの」
あまり興味はなかったものの、話題に出した手前、尋ねてみた。村上は何度か瞬きをしたあと、ああ、なんて気の抜けた声を出してから、
「そうそう。なんか大学に入ったあたりから伸ばしはじめてさ」
ほら、なんかモテそうじゃん、と軽く付け加える。そういうものだろうか、と首を捻りながら、和泉は自らのうなじの辺りに手をやった。既にそこには髪の毛はない。
「男受けはけっこういいよ。槙原と同じで手入れにも時間使うけど」
あはは、なんて笑う村上の声はどことなく弱々しく聞こえる。おや、と首を捻る。あまり、聞かれたくないことだったのかな。そんな推測をしつつも、深く考えないまま、そっか、と寝転ぶ。いつもと異なり点けっぱなしの蛍光灯のせいで目がちかちかした。おまけに頭頂部の方向にある窓には、先程よりは弱まったとはいえ叩きつけてくる風。眠気はやってこない。
「そのおかげかわからないけど、付き合っている人も途切れないし。まあ、楽しいよ」
ベッドの下の方で頬杖をつく村上を軽く体を起こしながら見る。楽しいよ、と口にした瞬間の目に、一瞬憂いが差したように見えた。もっとも、あまり人間観察に自信がないため気のせいかもしれなかったが。
ふと、浮かんだのは村上とその周りを囲む女生徒たち。時折、目に入った、楽しげに話す女生徒たちの姿を、当時の和泉は自分には縁のないものとして端から切り離してた節がある。騒がしいのは苦手だったし、本を読んでいればまあまあ満たされていて、とりたてて必要としてなかった。少なくとも当時はそう思っていたし、今もその認識に大きな間違いはないと考えている。ただ思い返してみれば、一緒に食事を摂る前と後では、なんとなくではあるものの、村上への見方が変わっていたような気がしないでもない。
良くも悪くもみんなのものだった村上。そのみんなの村上を和泉はただ前後の席になったというだけで昼休み間のみではあるものの独占していた。当時の和泉は今以上に村上のことを知らなかったものの、いざ相対しても騒がしい女子集団の一人という認識は特に変わらず、夏休みを跨いで、一緒に食事を摂らなくなったあとにいたってもやはり変化はなかった。
それでも、思い返せば、ほんのたった一度だけ、騒がしい少女の集団の一人、という枠を外して向かい合ったことがある。
「途切れないってことは、逆にたくさん別れてるってことでもあるんだけどね」
「さっき言った先輩だけじゃなかったんだ」
心はこの場にないのに、和泉の唇からは、自然とこの場を埋めるための言の葉が紡がれた。村上は、まあね、なんて肩を竦めてみせてから、
「最近は、とりあえず付き合ってみる感じで、もう入れ食い、みたいな」
茶化すみたいに言ってみせる。その笑みはただ単におかしがっているように自嘲しているようにも見えた。たぶん、なにかを押さえこんでいるはずなのにもかかわらず、いつにもまして楽しげな感情が豊かな感じ。
これも台風の夜だからかな。なんて根拠の薄い妄想。どちらかといえば、身に覚えがある感情表現を相手に適用しただけだったのだが。とにもかくにも村上の振る舞いは、平時よりも幾分か素に近そうで、なんとなく剥きだしになったように見える顔が少しだけ嬉しく思えた。
「っていうか、槙原はホントに付き合ってる人いないの。いるでしょ。一人や二人」
「いない」
からかうようなごまかすような言葉を一蹴する。そうしながら、怪しいなぁ、なんて、口の端を弛める村上の長い髪の毛をぼんやりと眺めた。比較的自然に伸びるのに任せていた和泉の髪とは異なり、よく手入れされているのが見てとれる。そんな風に、違う、とわかりつつも、なんとなく、すっかり風通しが良くなったうなじの上を覆っていたかつての自らの髪を幻視した。
「村上は」
口を動かしながら、そんなただただ長いだけの髪を村上は誉めていたんだな、とぼんやり思う。
「今も誰かと付き合ってるの」
頭の中には夕日を浴びた笑顔。
「いやぁ、それがね。ちょうどこの前、別れたばっかりでさ。今は新しい恋を探してるとこって感じ」
目の前の村上はどことなく虚ろな笑顔。そんな風に見えて、少々痛々しく思う。
「けど、たまには休憩もいいかなって思う。いつもいつも、男男だと疲れるしね」
なら、付き合わなきゃいいのに。なんてことを和泉としては思ってしまうが、多かれ少なかれ人付き合いというのは面倒くさいものであるし、いつでも人に囲まれているところからしても村上は常に人と繋がっていたいのかもしれない。もっとも、今の村上の周りにも人がたくさんいるというのは、村上の自己申告と高校時代の印象を組み合わせて出てきたもので、実のところまったく違う生活を送っている可能性もなくはなかったが。
「誰かと付き合っているのってそんなに楽しいの」
和泉の口から飛びでたのは素朴な疑問。村上は、うーん、と少し考えてから、
「楽しい、と思うよ」
どことなく曖昧に答えてから、
「いや、楽しいよ。楽しいことは楽しいけど、やっぱりさっきも言ったけど、しんどいことも多いから」
なんて言い足してから、今でさえこれなんだから、結婚なんかしたらどうなっちゃうんだろうね、と茶化した。和泉は村上の言葉に、そうだね、と頷きつつ、今度は弁当を突きあった時のことを思い浮かべる。あの頃、散弾銃みたいに途切れない言の葉を連なりを口にしていた村上。それはたぶん、女子の集団にいた時も同じような感じだったのだろう。その時に浮かべていた楽しげな顔。今もたいして変わらない表情を浮かべているはずなのに、なんだか割れ目から覗いた別の何かを見ている気がした。
私だけが、村上のこんな顔を見ている。そんな錯覚に陥りそうになってすぐ、和泉は思い直した。それこそ、確かめようがない。和泉が知っているのはあの一ヶ月の村上と、今の村上だけ。それ以外の時間、村上は家族と話したり、色んな友だちと話したり、色んな男と抱き合ったり。とにもかくにも、そこには和泉の知らない時間がたくさんある。だから、村上はかつての夕方ような目だったり、今みたいなどことなく虚ろな笑顔を、色んな人に見せつけていたかもしれないし、たぶんそのはずだ。
「ごめんね。不安にさせちゃったかな。大丈夫だよ。しんどいことよりは楽しいことの方が多いと思うし、槙原だったらきっといい男を捕まえられるよ」
黙りこむ和泉を見てなにを勘違いしたのか、声をかけてくる村上。和泉は首を横に振りながら倒れこんだ。なんだかいつになく心細くなる。
「そういうの、まだよくわからない」
おかしな話だ。部屋の中はいつにもましてうるさいはずなのに、どことなく虚しい。
「そっか」
今の位置からは村上の顔は見えない。だから、この平坦な声の意味合いもよくわからなかった。わからないことが少しだけ悲しい。
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