八.

 卓袱台の片づけを手伝ったあと、季子は自ら宣言した通り、床に布団を敷いて転がる。

「消していい」

 ベッドの上から聞こえてくる槙原の声に、

「できれば点けておいて欲しいんだけど」

 と頼みこむ。ベッドの上からこちらを見下ろしてくる眼。

「怖いの」

 特に感情の籠っていない言の葉なのにもかかわらず、馬鹿にされているような気がした。

「そういうわけじゃないけど、昔から点けて寝てたから」

 事実を口にしたはずなのに、どことなく言い訳じみてしまっているのを恥じる。槙原は二三度瞬きしてから、そう、と呟いてから身を転がす。平常運転だとわかりつつも、

「なんなら、やっぱり消してくれてもいいけど」

 つい意地を張ってしまう。しかし、

「私は、別にどっちでもいいから」

 などといなされてしまう。季子としてもこれ以上、意地を張るのも馬鹿馬鹿しい気がして、天井を仰いだ。途端に飛びこんでくる照明を眩しく思いつつ、手を翳してみる。太陽ではないものの血潮が見えて、そんな歌があったななんて振り返りつつ、この行為に既視感を覚えた。

「おやすみ」

 上から投げかけられるあっさりとした声。季子は味気なく感じる。

「もう、寝ちゃうの」

「夜、遅いし」

 言われて、枕元に置いておいた腕時計を確認すると、たしかにもう少し零時を回りそうだった。季子にしたところで、旅疲れをしていないと言えば嘘になる。それでも、

「せっかく会ったんだし、もっと話そうよ」

 季子は槙原と話したいと思う。なにしろ、この機会を逃せば、次はいつ会えるのかもわからないし、下手をすればもう会えないかもしれない。まあ、そんなに固い理由はなしに、なんとなく喋り足りないというのもあるのだが。

「眠いし」

「いいじゃん。今日ぐらい」

 尚も文句を垂れる。思えば、寝ようか、と言われる前から何度も主張していた。自分で思っているよりもあたしは寝たくないのかも。そんな自覚が湧きあがってくる。程なくして、ベッドの上から小さく息を吐きだす音。

「私が寝るまでだったら」

 槙原の方が折れてくれた。そう実感してから、つい十数秒前に放たれた息が溜め息だったかも、なんて心配になりだす。とはいえ、今更取り消すというのも気が退けて、ありがとね、と言葉にして、上半身を起こした。

「そう言えば、槙原の家ってテレビとかないの」

 そんな素朴な疑問は、台風情報を知りたいな、という気持ちからの出てきたものだったが、

「ない」

 家主に一刀両断される。下宿生なら珍しくないのかもしれなかったが、何年も実家暮らしの季子にとっては、どうにも釈然としない。

「テレビがないと、色々と暇じゃない」

 口にしてから、すぐに愚問だと察する。

「だいたい、本を読んでるし」

 そうだった。槙原はそういうやつだった。一緒の教室で過していた時から、空いている時間、文庫本に目を落としている槙原の姿が簡単に思い出せる。

 しかし、実際、本を読んでいるだけで満たされるものなのか。たまにしか本を読まない季子にはどうにもピンと来ない。

「でも、本を読んでるばかりで飽きたりしないの」

 突っこんだ質問かもしれないと思う。とはいえ、気になったからついつい口が出てしまう。ベッドの上で槙原の身体が少し蠢いた。

「あんまり」

 答えにやや間がある。あんまりってことは時々は飽きるんだ、と畳み掛けると、ベッドの上にいる女は控え目に、飽きるってわけじゃないけど、と答え、

「趣味に合わない本に当たった時とかは、別のことがしたくなる」

 不本意そうな声を出した。思わず、寝台の上に肘を乗せて覗きこむと、槙原の眉間に薄らと皺が寄っているように見える。その、趣味に合わない本のことを思い出したりしているかもしれない。

「そういう時はなにをしてるの」

 槙原が目を瞑る。それから少しの間、沈黙してから、

「散歩に行ったり、行きつけの喫茶店でぼんやりしたり、それと」

「それと」

 やや間を置いた槙原を促すようにして言葉を重ねると、

「文章を書いたりしてる」

 と続けた。

「そう言えば、ペンクラブに入ってるんだっけ」

「麻雀研究会の代わりに」

 あまり慣れてなさそうな茶化す感じの言葉。さっきも似たような言い回しをしていた辺り、案外気に入っているのかもしれない。

「じゃあさ」

「ダメ」

 季子の次の台詞に被さるようにしてなされる拒絶の声。まだ、なにも言ってないんだけど、と呆ける季子に槙原は、

「じゃあ見せてよ、って言おうとしてたんでしょ」

 普段であれば、自意識過剰だなぁ、なんて茶化したいところではあったものの、見事に当てられてしまった驚きが勝り、なんでわかるの、と尋ねる。

「大学でも何度か同じようなことを聞かれたから」

 どうやら、既に経験済みだったらしい。比較的、なんにでも反応する季子が口にするくらいなのだから、同じような興味を持つ人間はいるだろうというのは容易に想像がつく。

「いいじゃん、減るもんでもないし」

 ものすごく興味がある、というわけではなかったものの、気にならないといえば嘘になるので、得意の、いいじゃん、でねだってみるが、

「減りはしないけど、読んで楽しいものでもないから」

 急に口が回りだしたベッドの上の女は依然として頑ななままだった。思わず、ケチ、なんて唇を尖らせて言ってしまいそうだったが、そんなことをすればもっと見せてくれなさそうでやめる。

「楽しくない、ね。でも、槙原は楽しいから書いてるんでしょ」

 とりあえず、当たり障りのない言葉を挟んでみる。季子としては特に意味のないものだったが、

「どうだろ」

 槙原のやや間を置いた反応は、どことなく歯切れが悪いものだった。この感じは季子にもおぼえがある。先程、本を読むのが好きなんでしょ、と尋ねた時と同じようなものだった。思わず、ならなんで書いてるの、なんて聞いてしまいたくなるくらい似かよっている。

「たぶん、なりゆき」

 まるで季子の心の中の、ならなんで、に応えるみたいにして、槙原は聞いてもいないのに答えらしきものを口にする。ぼんやりとした話し方は、おそるおそるといった感じがあった。思うに当の本人にも確信がないのだろう。そうである以上、季子もまた槙原の胸の内の答えを持つわけでもないため、なりゆき、と鸚鵡返しして話を促した。

「他にやることもないからぼんやり読んでいて、いざ高校で絶対に部活に入りなさいって言われたら、特にやりたいこともないからなんとなく入った。そんな感じ」

 そう言えば、高校の部活は強制だったな。今更ながら思い出す。入ったはずの新聞部に、ほとんど顔を出さないで三年間を終えたせいか、季子の中で部活の印象はかぎりなく薄い。そして、槙原の高校時代の部活を知ったのも、同じ部活だった二宮さんの口から洩れたからに過ぎない。大学のサークルにいたってはさっき聞いたばかりだ。

「大学もサークルに入らなくちゃいけなかったの」

 理屈的にはそうなりそうだったが、槙原は寝ころんだまま首を横に振ってみせる。

「ただぼんやり過してても、退屈そうだったから」

 けど、本を読んだり書いたりする以外のサークルに入るつもりもなかったし。控え目に付け加えた言の葉は、それでいて力強さも窺わせる。そこにはやりたいこと以外はしない、という芯の強さがある気がした。だったら、

「髪を切ったのも、なりゆきなの」

 なんて、結局、話を戻してしまう。槙原はまた、とでもいうようにほんのわずかに目を尖らせたあと、そうかも、と曖昧な答え。

「そんなにしてなかったけど、手入れとかも面倒だったし」

 たったそれだけの理由で、あの綺麗な長い髪が失われてしまった。そのことを季子は半信半疑で受け止める。まだ、どことなく含みを感じなくもなかったからだった。もっとも、ただの気のせいというのも充分に考えられるが、季子自身は、気のせい、という可能性を信じたくはない。

 不意に槙原の視線が季子の方に向き、そう言えば、なんて前置きしてから、

「村上も高校の時に比べると髪が伸びたんじゃない」

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