七.
なんとはなし。それこそ、つい、といった感じで口からぽろりと出た言葉だったと、和泉は思う。ただ、ついではあったものの、段々、和泉の中で村上の表情を語る言葉としては、一定のもっともらしさを有しはじめてもいた。
「なんで、そう思うの」
立ちっぱなしで戸惑った顔をする村上の投げかけた疑問に心の中で、もっともだ、と頷きつつも、やはりそれらしい理屈は出てこず、
「なんとなく」
と答えて、入れ直したコーヒーを口に含み、舌の上で転がす。豆の料がいい加減だったからか、雑な苦さだった。
「そっか」
一方の村上は気の抜けた感じで答えてから、腰を下ろし、スティックシュガーを破りはじめる。相変わらず浮かんでいる微笑みは、今日やってきてからおおむね浮かんでいる顔なせいか、感情が読み取りにくい。ただ、なんとはなし、の結果である、寂しそう、という印象は依然として胸の中に残り続けている。
黒々とした液体の上に注がれる白い粉の流れは、魔法の粉、なんていう危うい言の葉を連想させた。それを眺める村上の目はやはり優しい。
「まあ、槙原もそうかもしれないけどさ」
そんな優しい目を砂糖の流れに向けたまま、唇を開けたり閉じたりする。
「夏休みって言ったって、楽しいことばっかりでもないしね」
和泉が頷いたところで、ぱらりという残滓とともに紙の包みからなにも出てこなくなる。
「勘違いしないで欲しいんだけど、あたしは今もけっこう楽しんでるつもり。今言ったのは、なんていうか、そう、一般論ってやつだよ」
なんでもない風な物言いは、それこそごまかしじみていた。なんかあるんなら聞こうか。なんて言おうとしたところでやめる。促すほどの情熱がなかったのと、言いたいのなら言いたい時にでも勝手に口にしてくれた方がいい気がしたから。
和泉があらかじめ手前に置いておいた、小さなスプーンを手渡し、村上が、ありがとう、といってすぐさま受けとる。扉を叩きつける風の音はまだまだ力強く聞こえた。コーヒーの中につっこんだばかりスプーンを緩やかに掻き回す村上。渦を巻く黒い液体を見下ろす細められた目は、元の眼球の大きさからかこぼれそうな気がした。
「どっちかといえば、あたしには槙原の方が寂しそうに見える気がするんだけどな」
急に水を向けられ首を捻る。そんな和泉の前で村上はスプーンを引きあげて、コーヒーに息を吹きかけてから、
「少なくとも、あたしが見たかぎりだとあんま笑わないし。正直、高校の時からなにを考えてるのかわからないことが多かったよ」
なんて薄く微笑む。随分な言われようだ、などと思いつつも、和泉としては特に反論する気も起きず、そうだね、なんて応じる。
「そんなに、思ってることとか言わなかったし。そもそも、あんまり人と喋らなかったから」
いざ口にだしてみると、ほんの少しだけ寂しい高校時代だったかもしれないな、と振り返りつつも、だからといってそれが悪かったとは思わなかった。むしろ、まあまあ楽しかったはずだった。
「でも、普通に暮らしてたらちょっとくらい笑うでしょ。見たかぎり槙原ってそういうのもないから」
思いの外、村上は高校の時にこちらを見ていたらしい、なんてぼんやりと考えつつも、今語られている事柄は、和泉にはあまりピンと来ないものだった。
「私、笑ってなかったの」
「自覚なかったの。少なくともあたしは見たことないけど」
あたしが見てないところだったら、笑ってるかもしれないけどね。微かなフォローのようなそうでないような言葉を付け加えこそしたものの、村上の中で和泉が笑わない生き物であるというのはもはや決まりきったことであるらしかった。やや不本意ではあったものの、そもそもからしてさして意識していないことだったため、そう、なんて関心混じりに応じてから、
「でも、高校の時、つまんなかったわけじゃないよ」
言っておいた方がいいかな、なんて気持ちから口にした言の葉の連なりは、却ってわざとらしいような気がする。案の定、村上は、そうなんだ、なんて言いながら、こころなしか顔がわずかに引き攣っているように見えた。失敗したかな、なんて和泉は自省したものの、まあいいか、とすぐに開き直り、
「今も、別に寂しいわけじゃないし」
なんて付け加えて、むしろ、騒がしいくらいだな、と思う。村上は、そっか、なんてややぞんざいに応じつつ、カップを傾けた。そんな村上の顔はどことなく心ここにあらずと言った感じで、和泉はやっぱり寂しいのは村上の方なんじゃないかと考えはじめる。それとともに頭の中に再び遅れてきた傷心旅行説が浮かんできたものの、直接は尋ね辛かった。
だけど、一年も前に別れた相手を思い出して、傷心旅行をしたりするものなのかな。そんな素朴な疑問を持ちもしたものの、今の村上のことをさほど知らない和泉にとっての足掛かりはそれくらいしかなく、したがって想像の翼も広げにくい。そもそも、こうして目の前にいる相手の諸々の事情を勝手にぐだぐだと考えたりすること自体、失礼なのではないのか、なんてことも考えたりする。
「まあ、あたしもたぶん、寂しくないよ」
村上のしみじみとした言の葉を耳にして我に返る。見れば、コーヒーカップの淵の方を叩きながら、目を細めていた。
「幸せなことに、今日は一人寝じゃないしね」
茶化すみたいな声音は、それでいてどことなく真実を含んでいるように思えた。そして、そんな声音を和泉はいつかどこかで聞いた気がする。目の前でコーヒーをあおる村上は、なんてね、なんて少しだけ頬を紅潮させてから、
「そう言えば、誰かと一緒に寝るのって一か月ぶりくらいかも」
なんて瞼を開いたり閉じたりした。その相手は家族、友だち、それとも恋人。余計な勘繰りがはたらいたことを恥じる。聞いてしまえばいい、と思わなくもなかったが、やはりそこまで突っこむのもどうかという自制がはたらき押し留めた。とはいえ、知りたいとも思う。有体にいって、和泉にとって村上は興味深く見えた。
「布団とベッド、どっちがいい」
客用布団なんて久々に使うしかびてないかな、なんて考えたあと、不意に頭に浮かんだ情景は放課後の教室。ああ、そうだった。
「うーん、あたしはどっちでもいいけど、こういう時は布団って答えるのが、ヨウシキビ、ってやつな気がする」
村上の口ぶりは相も変わらず茶化すようではあったものの、一人寝じゃないしね、と呟いた時よりも軽く聞こえた。和泉は、私もどっちでもいいから好きな方を選んでくれていいよ、なんて答えつつ、先程自分で言及した、髪を誉められた瞬間のことを頭で転がす。その時の口ぶりと、一人寝じゃないという口ぶりが薄っすらと重なった気がした。勝手にわかったような気分になって少しだけ嬉しくなる。
「どしたの。なんか楽しそうな顔をしてるけど」
「そうかな」
首を捻る。それは笑ってるということなのだろうか。つい先程、村上と交わした言の葉を思い出し、少しだけ興味が湧いたものの、すぐ近くに鏡はなく、仮にあったとしても既に表情は変わっているだろう、と察し、少しだけ残念に思った。
「あっ、今度はしょぼくれた」
傍にいる村上は不思議そうに瞬きをしながらそんなことを言う。いっそ、向かい側にある大きな二つの眼を覗きこめばわかるのかな、なんて考えてから、やっぱり村上はこちらをよく見ているなと実感した。いや、相手はおそらく自分だけにかぎられないのだろう、と和泉は推測する。おそらく、色々な人の顔色や声音やその他の仕種を自然と見逃さないようにしているから、すぐに相手の変化に気付くのだと。単に、和泉自身の表情がわかりやすいのかもしれない、という可能性も頭の端の方にかすめたものの、不本意なので無視し、代わりに村上の観察力を賞賛する方へと話を持っていこうとする。
今日も、そしてあの日の放課後も。村上は和泉から特別なことを見出した。村上だけが発見したかわからなかったが、少なくとも口に出したのは村上だけだ。何気ない口ぶりと、その中に時々混ざる特別。そしてそれはきっと、和泉のいないところでも口にされたりされなかったりするのだろう。それがとてもいいことのようにも惜しいことのようにも思えた。
「そろそろ、寝ようか」
コーヒーを飲み終えてからそう口にする。こころなしか風も弱まりはじめている気がした。村上が唇を尖らせる。
「えぇ、せっかくこういう日なんだからもうちょい起きてようよ」
その不満気な口ぶりを和泉は心からおかしく感じた。
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