六.
もしかして、やらかしたのではないのか。本日何度目かの不安に苛まれつつも、季子は隣に立つ槙原の返答を待つ。
当の槙原は何度か緩く瞬きをしてみせたあと、首を捻った。
「なんで、今更、そんなこと訊くの」
相も変わらず無表情。内心の変化は外からでは見てとれない。とはいえ、この辺は昔からだからなんともいえなかった。強いていえは、かつてはもっと嫌そうな顔をされていた気もしたが。
「槙原の髪、綺麗だったのを思い出したからね」
嘘は言っていない。槙原のことを思い出したのは今日この辺りを通りがかってからだったし、髪についても同じ時に頭に浮かんだ。同時に黒々とした滝の流れに隠されたうなじの色がどんなだっただろうか、という興味と一緒に。
それがどうだろう。予想に反して現れた娘の髪はすっかり短くなっていた。あんた誰、の一言も口にしたくなるというものだ。
「なんとなくだよ」
滑らかに唇の間から飛びだした言の葉は、季子の中で暴れる好奇心を満足させうるものではなかった。なにより、答えではあってもまともなものとは言い難い。
「あんなに綺麗だったのに、なんとなくで切っちゃうの」
頭では、そんなの人の勝手とわかってはいた。しかし、柄にもなく熱くなりつつある季子の唇は止まらない。対照的に槙原はいたって落ち着いた様子で軽く目を瞑ってみせてから、程なくして口を開く。
「そんなこと、昔も言ってたね」
静かな、それでいて他人事じみた一言。たぶん、今思い出したんだろうな、と察する。とはいえ、そのこと自体は咎められない。なにせ、季子自身もつい数時間前、そんなことあったな、と頭にぼんやりと浮かんだ程度だったのだから。
「うん。すごく綺麗だったから」
自身に理はないと思いつつも訴える。言わなければならないという衝動に駆られた。一方の槙原は、悪い気はしないけど、と平坦な声音で応じてから、
「たぶん、村上ほど長い髪にこだわりはなかったんだと思う」
伸ばしてたのもなんとなくだったし、なんてどうでも良さそうに答えた。
あたしと槙原は別の生き物。季子は今更、当たり前の事実を突き付けられる。同時に胸の奥から悔しさが漏れだしはじめた。この感情は勝手極まりないものである、という自覚がありつつも、感情は感情であるがゆえに押さえも聞かず、さりとて、これ以上、槙原に八つ当たりじみた気持ちをぶつけたくないとも思う。
「そっか。ちょっと残念」
微笑む。あからさまな作り笑いだなと実感しつつ、できれば、槙原に気付かれたくないなと願うものの、
「ごめん」
いつもより、ほんのわずかに悲しげに見える目の前の女の顔から、失敗したのだと察した。だからといって、短気を起こすわけにもいかず、
「こっちこそ、ごめんね。なんか一人で熱くなっちゃって」
できるだけ穏便な方穏便な方へと話を持っていこうとする。
会話が途切れる。
こういう場面は過去でも少なく、たいていは季子が一方的に話しかけ続けていて、槙原は相槌を打っていた。季子は次の言葉を探そうと、頭の中を慌てて捜索するものの、上手い繋ぎが浮かんでこない。そうこうしているうちに、槙原が踵を返した。一拍子遅れて後を追う。なにか話さなければ、という焦りが募っていくなかで、槙原が流しの横に設けられたコンロの上に置かれた薬缶に軽く触れてから、あらためて振り返ってきた。
「私はコーヒーをお代わりするけど、村上はどうする」
生来のぼそりとした声質のせいか聞き取り辛くはあったものの、室内灯の当たる女の横顔には動揺は窺えない。どころか、話しかけてきてくれた。こんな機会を逃す手はないと、
「うん、お願い。あと、できれば砂糖一本もつけてくれないかな」
図々しいお願いをできるだけ気安げな声音を心がけて口にする。槙原は少しだけ眉を釣りあげたあと、コーヒー豆の入った瓶の蓋に手をかけて頷いてみせてから、薬缶の取手を持った。いつの間にか、女の手前には新しいカップが用意されていて、コーヒーが注ぎ込まれる音がする。それを包みこむようにして台所横の小窓をたえず揺らす風。まだまだ夜は長いのかもしれないなんて思いながら、なんとはなしに距離を一歩詰める。途端に真っ白なうなじが目に入ってきた。かつては長く黒い髪に隠されてめったに見ることができなかったものの、今は惜しげもなく晒されている。
そう言えば、あたしは、槙原のうなじをずっと見たいって思ってたな。急に頭に浮かんだのは、かつて、目の前の席に槙原が座っていた時のこと。ぼんやりと座っていると、黒い髪が風で揺れるのがよく目に入ってきた。その黒い髪は野暮ったいくらいたっぷりとして、暗幕みたいだった。その綺麗な大きな布に覆われたうなじはどんな色をしているんだろう。そんなことを頭の片隅で考えていた気がする。気がするだけで、さして考えていなかったかもしれないけれど。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
差しだされたカップを受けとる。取っ手の辺りまで押し寄せてきた湯気が少しだけむずむずした。そうしている間に、槙原はすたすたと歩いていく。その後ろ姿を追っている間も、視線が行くのはうなじだった。
かつて見たうなじと今のうなじ。どちらも幽霊みたいな色をしているという印象は重なるものの、なにかが違うという気もしている。髪に遮られなくなって日光が当たるようになったからだろうか。そう問いを投げかけてみて、そうかもしれないしそうでないかもしれない、と心の中でひとしきり首を捻ったあと、どちらかといえば、そうでない気がする、という印象の方に軍配があがる。もっとも、あくまでも季子の頭の中にある手触りじみたものであって、前者である可能性は消えたというわけではない。
ただただ印象だけで語るとすれば、やはり、長い髪が短くなったという以上に、なにかが失われてしまった、という感はぬぐえなかった。もっとも、そのなにかはいまだはっきりしないままなのだけれど。
我に返る。いつの間にか、槙原に見上げられている。その手前には卓袱台。また、元の場所に戻ってきていた。眼下で唇がたわむ。自然に次の一言が頭の中で浮びあがった。何を見てるの。きっと、そんな問いかけがされるのだろう。
「なんか、村上、寂しそうな気がする」
違った。
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