五.
対面から聞こえる麺を啜る音。そのすぐ後に、和泉は箸を下から持ちあげ、最終的には唇の間を通過する熱く細いもので似たような音を鳴らす。歯に挟まれた麺は切れ目が入りやすく、いかにも安物といった感じだった。実際に安売りの時に溜めこんで買ったものだったのだが、その脂っこさや濃い醤油味はどことない安心感すら引き寄せる。体重や健康と引き換えではあったが。
眼前では、麺を持ちあげては息を吹きかける村上の姿がある。元々、あまり喋っていなかった和泉を気まずくさせたあとに放った第一声は、お腹すいちゃったし、なんかもらえないかな、とさっぱりとしたものだった。青春十八切符での旅は、遅れてきた傷心旅行なんじゃないか、なんてありきたりな筋書きを描いたばかりだったのもあって、そのあっけらかんとした反応は拍子抜けだったものの、このまま愚痴られ続けられてもどうしていいかわからなかったため、夜食で仕切り直せるのはありがたかった。
そして今。相も変わらずびゅーびゅー吹く風の音を耳にしながら、女二人でカップ麺を啜っている。
「いやぁ。この悪いことしてる感じがたまらないよね」
やはり、村上に特段変わった様子はない。むしろ、遠足前、あるいは遠足を全力で楽しむ小学生みたいな感じで活力が満ち溢れはじめている節すらある。この手の輩は、和泉も小中高を通してよく横目で見ていた。そして、横目に映ったかと思えば、すぐに通りすぎてしまっている。いずれにしても、縁遠い相手であることが多かった。
「太りそうだしね」
和泉が自戒も込めて呟くと、村上は卓袱台の上にまだ中身の入った紙製のカップを置いてから、
「そうなんだよ。悪いことの代償って案外、大きいんだよね」
目を軽く瞑り、確かめるみたいにして何度も首を縦に振ってみせる。だったら、食べなきゃいいのに、なんて思いもするものの、和泉にしても小腹は空いていたし、遠足前のわくわくとまでは言わないまでも、今の村上みたいに気分が高揚するのもある程度、理解はできた。そのわくわくの源が、和泉自身が溜めこんでいたカップラーメンだったのは少々解せなかったが。
それにしても、美味しそうに食べるな、と勢いよく麺を吸いあげる村上を見た和泉は思う。そして、こんな食事の仕方は、普段からのものであるのか、あるいは思い出した過去の付き合いのあれこれを吹っ切るためであるのか。そのどちらか、もしくはまったく違う理由からなのか。わからなかった。
どうであったか、と探るべく、かつて一か月だけともにとった昼食のことを思い起こしてみるが、この記憶自体心もとない。食事をしていたのはたしかだし、村上のべらべらへらへらとした喋りを耳にしていたのも思い出せた。しかし、どんな村上が顔をして食べていたのか、という点に関しては靄がかかっている。辛うじて、惣菜パンやパックのいちご牛乳なんかを飲んでいた気はしたが、それもまたたしかではない。
今高校時代を振り返れば、和泉の生涯でもかなり珍しい一か月だったのにもかかわらず、驚くほど薄らとしか記憶に残ってない。少なくとも、今日まで忘れていた程度には。村上の言葉を信じるのならば、それ相応に仲良くしていたはずなのに。たぶん、村上の方が大袈裟なんだろう、と当たりをつけつつも、やっぱりかつての和泉は薄情だったのかもしれないと思う。もっとも、村上にかぎらず、他人にさほど興味を向けていなかったのもまた事実なのだが。
とにもかくにも今。目の前で麺を啜りあげる村上の頬は弛んでいる。わざとらしくもなく、たぶん、まあまあ、美味しがってくれているんだろうな、と和泉はあらためて思った。そして、それはたぶん良いことな気がする。
箸の先に手ごたえのなさを感じた。カップの中を覗きこめば、一見して麺も肉もいり卵も見当たらず、ただただ脂ぎった汁のみが広がっている。ああ、食べ終わったのか。いつもながら、呆気ない結末に顔をあげれば、紙カップを傾けてごくごくとする村上の姿。
「太りたくなかったんじゃないの」
和泉の唇の間から滑りだした言の葉に、村上は三度の瞬きで答えてから、
「ほら、理想と現実は食い違うものだから」
なんてへらっと言ってから、ごくごくを再開する。その潔さに感心するとも呆れるともつかない気持ちを抱いた和泉は、なんとはなしに残っていた汁を一口含んだ。しょっぱい、でも美味しい。ついでにもう一口、なんて気持ちが湧きあがりかけたものの、さすがに自重して、手を合わせて、ごちそうさまでした、と口にしてから立ちあがる。
「お粗末様でした」
楽しげに告げる村上に、それは私の台詞じゃないの、とつっこみそうになった。直後、和泉に続いて腰をあげた村上の手の中には、すっかりスープが無くなった容器がある。
和泉が台所を目指して歩きはじめると、もう一つ畳に沈みこむみたいな足音が着いてきた。程なくして居間を出たところで、フローリングを軋ませる音。他人がいる。それもこんな嵐の日に。そんな不思議を、今更実感する。そして、よくよく考えてみれば、下宿の部屋に誰かを招き入れることすら久々だった。
台所上のライトをつけてから、スープを流し、カップを軽く水洗いする。
「あたしにも水場を貸してくれる」
いつの間にか、村上が隣にいた。今日一番、近い距離にいるかもしれない。そう思い頷きながら、ふと、すぐ傍にいる女のよくぱっちりとした目に意識が向く。たしかに高校の時もこんな目をしていた気がした。可愛いとも綺麗ともつかないどっちつかずな顔の中で、上の方にある二つの穴には、たしかに人を惹きつけるものがある。色々な人と仲良くやれていた、というよりもいまだに仲良くし続けられるのは、本人の対人能力の高さもさることながら、このどことなく憎めない目も関係しているのかもしれない。なんてことを、三年後である今、少しだけ綺麗になった気がする村上の顔を見て考える。
和泉が場所を譲ると、村上は、ありがとう、と小声で答えてから、水道水をカップに流しこみ、鼻歌を口ずさみはじめた。曲名は出てこないが、どことなく聴きおぼえがある気がする。直後に村上が和泉の方を向き、
「あたしの顔になにかついてたりする」
なんて尋ねてきた。和泉は首を横に振ってから、
「その曲、なんだっけ」
そう口にする。言ってから、あまり興味はなかったはずなのに、と和泉自身の行動を訝しがった。
「けっこう、有名な曲だと思うんだけどな」
村上は不思議そうな顔をしたあと、つらつらと曲名と演奏しているとおぼしきバンドの名を口にする。バンドの名前は聞いたことがあったものの、曲の方は知っているような知らないような、という感じだった。もっとも、さほど音楽に興味がない和泉からしてみれば、よくあることではあったが。
「槙原はこの曲、知らなかった」
「バンドの方は知ってるけど」
ぽつりと零れ出た言の葉はどことなく弁明じみた音色になっている気がした。和泉の方に罪悪感を抱く理由などないはずなのにもかかわらず、どことなく罰が悪い。
「そっか。まあ、出してる曲も多いし、そういうこともあるよね」
対する村上の方は、この会話自体に感じ入るところはないようで、さらりと流してしまう。きっと、村上にとっては、多く持っている話の内の一つでしかないのだろうから。同時に和泉にとっても、少しだけ関心が向いた程度の話題に過ぎない。ただ、ほんのわずか、お互いにとっての会話の重みの違いとかそういうものが引っ掛かった。
「そう言えば、話は変わるんだけど」
ほら、思った通り。予想通り、話題が別のところに移るのがわかり、薄らと胸に点る落胆のようななにか。そもそも、なんで落胆しているのだろう。筋違いじゃないか。あちこちに散らばっていく思考をとりたててまとめもせず、なに、と聞き返した。どうせ、たいした話じゃないだろうとタカを括って。
「これ、聞いていいのかわからないんだけど」
なぜだか、歯切れが悪い。自分から話題を振っておいて、この態度はなんなの。和泉はそんな風に訝しがりつつも、らしくない、なんて思う。いや、そもそも、嵐の外から現れた時点でらしくない気がした。というよりも、らしくない、なんて言えるほどの交流も記憶もないはずなのに。どこか明後日の方に行きそうな思考の最中、
「槙原、なんで髪を切っちゃったの」
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