ひこうき(2012)

 彼が、僕の頭の中で死んでから結構な時間が経った。

惜しい人をなくしたものだ、と思わず涙ぐんでしまう。滴がとめどなくこぼれ落ちる事はないけれども、滲み出てくるそれは簡単にせき止める事が出来ないので、僕の眼球はじわじわと赤く腫れ上がる。彼から多大なる影響を受けていたと気付いたのは、主に彼の死後だった。

彼のことだから、未練も後腐れのなく往生したのだろう。生前から彼はそういう男だった。だが僕は彼ほど飄々と生きておらず、また突然の訃報だったため、未だに気持ちの整理がつかないでいる。

最期のお別れの前に、何か気の効いた台詞の一つや二つでもかけてあげたかった。今になってそう強く思うのだが、もはや後の祭りだ。


 せっかくの機会なので彼について少し話してみたいと思う。しかし、そのためには少しこの物語についての前置きが必要かもしれない。

 

これは僕の「頭の中で」始まり、繰り広げられた後に完結した物語である。どれだけのスパンで続けられたのかはもはや覚えていない。たった数日の出来事だった気もするし、数年に渡って行われた事件であった気もする。しかし『いつ始まりいつ終わったのか』という事は、この物語を話す上でそれほど大した意味を持たないので、考える必要はない。

「頭の中で」という『場所』についても同様である。「彼」が実際にいたのかどうか、僕が嘘をついているかどうか、この物語は現実なのか空想なのかを検証する必要はない。そんなことはどうでも良いのである。どちらにせよ僕の身に起こり、体験し、覚えている事に変わりはないので、わざわざ考慮するに値しないのだ。

真実とは何か。そんな事を考察するのはそれを知りたい人だけに任せておけばよい。結局、何が大切なのかを決めるのは自分自身であるのだから。

ここまで書いて、彼が昔こんなことを呟いていたのを思い出した。

「意味のあるくだらない現実と意味のないくだらない空想、どっちが大切だと思う?答えは簡単。どっちも不必要に決まっている。どっちでもいいことは別に無くても構わないんだ。だけど、その大切じゃないものを大切にしてしまうのが私であり、君なのだ」そして、「私の言うことほど意味のないことはない。あまりあてにしない方がいい」とも。

思えば、この台詞が彼という存在の全てを表していたようだ。当時の僕は「なるほど!」と納得してしまっていたけれども、よくよく考えてみれば答えになっているようで全くなっていない。しかし、その屁理屈にも近い彼の論理に少なからず影響を受けていたのも確かであるし、それを否定してしまえば僕自身の生き方の否定に繋がってしまう。人の行動原理なんてものは案外安直なもので、誰か自分の重要な人物の言葉一つで人生の指針を決めてしまうことも少なくないのである。

意味があるようだけど何の意味もない。答えも得るものも何もない。だけど大切じゃないなんてことはない。これはそんなお話。

 




        1


その日も僕は、世界一無駄な時間を過ごしていた。せっかくの貴重な夏季休暇であるのに、何もせずに潰していたのだ。

窓の外から子供の元気な声が耳に流れ込んでくる。児童独特の甲高い声が勢いよく僕の家まで駆けあがり、無遠慮に窓ガラスの戸をノックする。

夏の日差しは、半開きになったカーテンの隙間から臆することなく飛び込んでくる。蝉は自己主張激しく泣き喚いている。テレビからは有益でない情報が垂れ流されている。この空間の中でなんのアクションも起こしていない、静止した存在であるのは僕一人だけであるようだ。

特に何かをしたい訳ではない。しかし、疲労困憊という状態でもなく、折角の休みの日であるのだから何かをするべきなのだろうか。強いて言うならば、僕はこの空白の時間を睡眠に費やしたい。だが、音の熱風が我が物顔で闊歩するこの場所が、親切に安眠を提供してくれるとは思えなかった。

それに、さすがに家で引き籠っているだけでは僕に寄り添ってくれている僕自身の体がかわいそうな気もした。このままだと時間が勿体ないという気持ちもある。そこで別段行きたい訳ではなかったが、僕は小さな旅行に出かけることにした。理由なんてものは何もない。誰とも寄り添わず、出かける場所もスケジュールも何も考えていないお出かけ。散歩の延長線上にある小旅行である。

目的もなしに、ただこの暇を何か有効に使わなければ勿体ないという焦る思いだけで思い立った行為だ。もし外が水しぶき飛び交う悪天候の中であったならば迷わずこの外出は中止していただろう。そう考えると、その日の天気が快晴だったのは感謝するべき事なのかもしれない。この旅がなければ彼と出会うこともなかったはずだからである。

単に面倒だったのか金欠だったのかはもはや憶えていないが、とにかくその日は交通費を使いたくなかった。そこで久しぶりに自転車を引っ張り出し、近場を走り回ることにした。

引き出しの中に乱雑に放り込まれていた、自転車の鍵。机の上に投げ出されていた、お気に入りの音楽が詰まった小型音楽プレーヤー。これらをジャンパーのポケットに無造作に詰め込み、そして勢いよく家のドアを押し開ける。 

見慣れた外の景色が僕の目の前に飛び込んできた。そのいつも通りの風景に今更なんの感傷も得ることはない。僕は、何の感情にも染まっていない真っ白な思考を維持したまま、真っすぐ駐輪場に向かう。

最近使っていなかったせいだろうか、自転車のタイヤにはほとんど空気が残っておらず、サドルに跨ると無機質な金属部分のごつごつした感覚が尻を通して伝わってきた。うなだれたゴムチューブを巻きつけられた車輪は、ペダルを漕ぐに従ってきいきい声を洩らしつつ前方へと加速を始める。

自転車で駆けながら、僕はふと上を向き大空を眺めてみる。太陽は白く輝き、天は雲ひとつない群青色で塗りつぶされていた。禍々しい色彩ではない、淡いグラデーションで描かれたいつも通りの水彩画だ。この非の打ちどころのない天空を見る度に、僕は宇宙が出来る前の何もない空間とイメージを重ねてしまう。無から有が生まれ、混沌が生まれる前の秩序なき秩序を持った世界。何もないが故に汚点もなく完璧な空間。目を凝らしても虫一匹確認する事ができない。

そんな広大すぎる大空に影響されてか、いつのまにか僕は寛容な精神を持ち合わせているような気分になった。自転車の速度で切り拓かれた風が心地よく僕の頬に纏わりついてくる。きめの細かい絹のようだったので、遠慮なく僕は首筋に柔らかな風を巻きつける。はだけたジャンパーが風になびいてはためくせいか、目を瞑ると空を滑空していると勘違いしそうになった。

あまりに気持ちが良くて、一つ歌でも歌いたいような気分になる。そこで、自転車が横転しないよう留意しつつ音楽プレーヤーのイヤホンを耳の穴に押し込み、音声を再生した。

奇跡と言えるほどの調和を保った音の波が僕の全身に浸透し、どんどん世界は音楽の海の中に埋没していった。僕はやがてそこにどっぷりと浸る形になる。この音の大海原の中では外の世界の音は雑音でしかなくなる。時間も空間も限りなくゆっくりとなり、音楽の中に溶けていく。いつしか僕は外の風景を見失い、音楽の作りだす幻想の泡に取り込まれていた。この海の中では鼻歌の一つや二つ歌っても構わないだろう。記憶はあやふやだが、恐らくは結構な音量で僕は音の波に合わせたハミングを始めた。

瑠璃色の音楽の海と駆けていく自転車を吹き抜ける爽やかな精神の海風。そしてどこまでも広がる群青色の青空。この時世界は確かに静かな幸福に満ちていた。





何故なのだろう。一人で爽やかな幸福を満喫した後は、どこか虚しい気持ちで胸が詰まってしまう。広大な周りの空間の隅に潜む、自分の矮小さに気づいてしまうせいだろうか。

僕はさっきまでの満ち足りた静寂を忘れ、じわじわと広がってゆく憂鬱に苛まれていた。自転車を漕ぎ始めてしばらくした後のことである。

音楽プレーヤーは聞き手も居ないのに馬鹿のように音を漏らし続ける、ただの無用の機械と化していた。自転車も歩を進めることを止めて鉄製の木偶の坊となっていた。だが、それ以上に死んで動かなくなっていたのは僕の心だった。独りで自意識の世界を泳ぎ回っているうちに急にたまらない寂しさに見舞われたのである。

僕ももう子供ではなかった。この年になれば自分が特別に秀でた存在でないことも流石に自覚している。平凡と形容しても良いかもしれないが、平凡をのたまう人は大抵余裕を持っているので僕は平凡以下の人間なのだろう。

「このかけがえのない時間を、こんな意味のないことで潰していていいのか?」誰でもない自分がそっと耳元に問いかけてくる。「他にやるべきことがあるのではないのか?」

少し考えてみると、ここ最近時間が有り余っているのに、意味のある行いを全くしていないことを思い知らされる。僕の手元には何の身にもならない、「無」しか残っていない。いや、この人生を振り返ってみても特に何も得ていない。

避けようのない真実を告げる僕の中の後悔は、冷静を装う自分と卑屈になりつつある自分の心の中をせめぎあい、全身を駆け巡る。

「思春期特有の悩みって奴だな」客観的に自分を分析しようとする自分もいたが、やはり自分の真の気持ちを見なかったことはできない。

「独りで目的もなくぶらぶらして、本当に楽しいのか?」

「本当は自分の周りにいる人たちのようになりたいのだろ?」

そうだ。僕は寂しいのだ。こんな真っ白な空白の時間を、独りで無意味に塗りつぶしているというこの事実が。誰かと時間を共有できないという悲しさがたまらなく厭だったのだ。別に下手でもいい、独りで無地のキャンバスを汚すのではなく誰かと共に色を塗りたい。それが僕の本心だった。

別に友人がいないというわけではない。しかし特別親しい、いつでも気軽に誘えるような友達はいない。向こうがどう思っているのか知らないが、なんとなく一緒にいるような奴らばかりだ。

それに引き換え周りを見てみろ!なんと青春を謳歌している人間の多いことか!時には親友と、時には恋人と一生の思い出作りを行う。毎日がすべきことで溢れており、自分の幸せを周囲に発信している。中には誇張している人もいるだろうが、そうしたエピソードを生みだすための種子を持っているだけでも充分だ。

僻みでもなんでもなく、僕は特別に友人に囲まれた生活や、異性と楽しい日々を過ごしたいわけではなかった。ただ、周りの人と接する事で得る幸福が欲しかったのだろう。それも心の底から渇望した欲望ではなく、周りが持つものを自分が持たないという焦燥感からくるものだ。憎悪から由来する真っ黒な泥ではなく、ある種爽やかな自己嫌悪が僕の周りを取り巻く。そして透明感を持った闇の膜が、岩にへばり付く藻の如く僕の精神を覆い始めていた。

さっきの満足感も自己完結した僕だけの幸せだ。分かち合う相手がいない幸せは果たして幸せと呼べるのだろうか?心の波は荒れ始め、僕を意識の沖の奥のほうへ攫っていこうとする。

ああ、なんとなく死にたい。僕は青春特有の気持ちに押しつぶされそうになる。真の意味で生命を失いたくなる訳ではないのだが、満たされないことに不満を覚えてこの世から消え去りたくなるような気持ちである。精神的なものが周りの水圧に負けて押しつぶされそうになる感覚が僕の意識を圧迫する。

消えてなくなってしまいたい。僕はゆっくりと自転車を押しながら、どこへ行くでもなくうろうろと足を動かしていた。

さっきまでが幸福という名の大海原で泳ぎ回っていたのだとしたら、今は幸福の沖にある孤独という渦に巻き込まれ、深い海の底辺に引きずり込まれてしまったという形になるのだろうか。なるほど、道理で息苦しい訳だ。溺れる心配はないが、空気と一緒に苦しみも吸いこんでしまうので必然的に顔色が悪くなる。

 当然海底から引っ張り上げてくれる人などいやしない。この苦しみを逃れるには自分自身で浮上するしかないのだ。もしくは時間が経って潮が引くのを待つか。当然僕に自発的に自分を変えようとする気概は持ち合わせていないので、後者の道を取る他なかった。

 そろそろ日も沈みかけている。こんな事を考えるくらいならもう帰ろうか。今度は見知らぬ誰かが僕の心の中で囁く。そう言われ顔を見上げると、確かに日が傾き夕陽の赤と群青が地平線で衝突していた。二色が新たな模様を描き出し、僕は感傷的な紫の影を見た。

 夕陽の風景を見ると途端に感慨深く感じる。これは小さな頃から見慣れているのにも関らず、色褪せることのない気持ちである。天頂に小さなお天道様が居座っているときは何も感じないのにどうしてなのだろう。

僕の心はその何億何兆倍もある太陽と落下速度を同調させて、見えない所まで落ち続けようとしていた。僕は暗闇から心を手繰り寄せようとするが、無駄な努力である。重力で自由落下する気持ちは人間の力ではどうしようもない。家の岐路を辿るうちに、僕は最早抜け殻だけの存在になりつつあった。

僕の眼前にそびえる巨大な火の玉は下半身を地平線上に隠し、周りの光ごと奈落の底に連れ込もうとする。雲ひとつない天空は夕陽の円と紫色の無だけで構成された完璧な神域の世界だ。崩れかけた僕の心も地球の裏側に拉致されそうになっていた。

周囲の世界はこんなに美しく完全な存在であるのに、僕はどうして不完全な存在なのだろう。どうして周りと調和することができないのだろう。自虐の自問は無意識下から無限に沸き出て、僕の意識を半永久の苦悩へと陥れる。

今まで周期的に陰鬱な気分になり、何度も落ち込んできたが、今度の内省は特に強烈だった。今度こそ死ぬしかないかもしれないな。そう思い意識を遠くに置き去りにしようとした時、ほんの僅かな変化が眼前に現れた。

あれだけ雲一つなく完全性を保っていた赤と青の天空が、一閃の雲によっていとも簡単に汚されたのである。次に僕は、その雲の先頭に一機の飛行機が取り付けられており、その鉄塊が空を滑っているのを見た。飛行機雲が夕空に描かれたのだ。

その一閃の雲は猛スピードで紅がかった大きな球体に接近し、やがて貫いた。さっきまで神々しく完全な世界を全うしていた大空は、一筋の飛行機雲によって傷がつけられ、すっかりただの青と赤の混じった空間になり下がる。細長い雲に上書きされた太陽は串に刺さった団子のようにも見え、貫禄の欠片もなかった。

こうもあっさりと完全な空間は消えてしまうのか。今まで僕を圧倒していた世界が急に力を失ったのを見て僕は脱力した。飛行機雲の爪痕は空だけでなく、僕の心にも残ったのだ。ただこの傷は心に蔓延り化膿していた膿を取り除いてくれたようでもある。僕の視界に付着していた闇はすっかり剥がれ落ち、世界が再び色づいた気がした。

こんなことで悩んでいても仕方ないのかもしれない。他の人にとっては取るに足らないちっぽけな風景の変化であったのだが、その時の僕にはそう感じられたのである。問題は何も解決していないが、とりあえず立ち直ることができた。きっと、あの飛行機が僕の抱いていた周囲に対する羨望の世界も汚してくれたのだろう。

僕はその飛行機雲に言葉なき感謝を贈り、今度ははっきりとした視界でその紅を眺め見た。




          2

 どれくらい空を眺めていたのだろうか。随分と長い時間ぼうっとしていたようにも思えるが、夕陽の空も飛行機雲も微動にせず先ほどと変わらない容貌であったので大した時間は経過していないのかもしれない。

 僕は飽きる事なくその不完全な空を眺め続ける。特に魅入る訳でもなく、ただ見つめるだけだ。不思議とその空と面と向かっていると不安も希望も何もない、無心の心持ちでいることができた。

世界が定めている時間の中ではものの数分、されど僕の頭の中では悠久に近い時間、朱色に染まった西の方角を向いて過ごしている。すると段々と周りの景色が動いていく事に気がついた。勿論こんな短時間で世界は劇的な変化を見せない。僕の意識が勝手に現実と空想を結びつけ、景色に変化をつけようとするのだ。

白い雲の矢に脳天を貫かれた太陽は串団子だけでなく、帽子を被った人の頭に見立てる事が出来た。雲の描く白いラインが帽子の鍔で夕陽の円が丸い顔。シルクハットを目深く被った丸顔の紳士。

空想から生まれたその存在はすぐさま頭の中から消し去る事はできない。せっかくなので僕はその空想力を存分に働かせ、頭の中でその紳士を思い切り動かしてみることにする。

その紳士は当然シルクハットの色と同じ、くすんだ白色のスーツに身を包んでいる。煙のような髭を紅潮させた顔の下に生やし、その表情は柔和な微笑みを浮かべている。

頭の中で型を研磨された紳士。初めはトイレに必ず貼られている、男女を示す人型のマークのような出で立ちだったのが、徐々に壮年の男性の姿に変わっていく。

鮮明なイメージではないので細部まで描写はできない。しかしそれが紳士だと判別する最低限のアイデンティティは空想の海で培われ、そのうち意識的に僕の手が加えられることもなくなる。そしてその空想は独立して僕の頭の中で勝手に動き始める。


紳士は僕に一礼をしてそこに立てかけてある椅子に座る。そしていつの間にか備え付けてあったピアノの鍵盤に腕を伸ばし、音を奏で始めた。僕はピアノの弾き方など知らないので、当然空想の世界に生きる紳士も出鱈目に鍵盤を叩き続けるのみである。それにも関わらず、音は美しい調律を保った結晶となり、極彩色の楽器から宙に飛び出す。音楽は僕の耳の中で弾み、光りながら再び僕の見る世界の中に溶け込んでいく。

どうも紳士のピアノの腕が上手すぎると僕が訝ると、彼はピアノから手を離し手拍子を始めた。しかし依然として音楽は鳴り響き続けている。そうか。僕はここで初めて自分の耳と一体化しつつあった音楽プレーヤーのコードに手を触れた。今までの音楽はこの鳴りっぱなしになっていた機械から発せられたものだったのだ。気分が落ち込んでいたので音楽の再生が続いていたことも忘れてしまっていた。道理で聞き覚えがあり、うまい演奏であるわけである。今回は音の海に飛び込むのではなく、少し離れた海岸でその波の音の心地よさを堪能するだけにしておくことにした。再び溺れたりしたら大変だ。

彼の座る椅子とピアノは、気持ちの良い旋律と共にゆっくりと回転をしつつ宙を舞った。彼はうっとりと目を細めピアノと共に浮遊する。音楽はとっくに頭の中にある天国に到達している頃だろう。紳士もまた気持ちよさそうにピアノを弾く真似をし、ピアノと音楽の舞う空間の一部になっていた。

      

ずっと夕焼けを見つめて空想をしていたせいか、赤銅色に輝く夕日の後光が僕の見る風景をじっくりと焦がしていた。いくら夕陽でも、ずっと見つめていると目に良くはない。僕は思わず手で夕陽の光を遮り、その眩しさを避けた。同時に首を捻り、顔を正面から背けたのでその紳士の姿を一瞬見失う。

少し、くだらない空想にふけり過ぎていたようだ。僕は二三度瞬きをして意識をリセットする。

この後、再び夕陽の方を向いてその場所に太陽しかなければ、この話は僕の他愛のない空想ということで片が付いたのだろう。しかし、この空想はまだ終わっていないようだった。目をやった先には、紳士が未だに少し遠くで佇んでいたからだ。

やあ、こんにちは。紳士は落ち着いた振る舞いで僕に挨拶をすると、ゆっくりとこちらに近づいてきた。夕焼けの空を背景にしているせいだろうか、もしくは僕の空想のイメージが薄れたせいだろうか、彼の姿は逆光でシルエットしか見えない。

さっきの空想の続きかと思い、僕は再びその空想を鑑賞する準備を行う。しかし、前とは少し異なる点があった。さっきの空想の世界では背景はぼんやりしていた(と、いうより背景まで空想していなかった)のに対して、今回は現実そっくりの景色が紳士と一緒に登場しているのだ。現実の背景に空想の紳士を重ねて脳内で映写しているに過ぎないのだが、その紳士があまりにもはっきりと見えているせいで、目が捉えている世界が現実なのか空想なのか一瞬分からなくなる。

彼は一歩、二歩とこちらの方に近寄り、その姿を詳らかにする。かなり浮世離れした白色の服装で身を包んでいることを除けば、その姿はまるで普通にいる人間のようにも見えた。よっぽど僕の頭の中で、この紳士が印象に残ったらしい。

彼はシルクハットの鍔の端をくいっと引っ張って被り直し、再度僕の瞳を覗く。その紳士の白いスーツとシルクハットは夕闇に照らされて、朱色がかった、何とも中途半端な色合いとなっていた。

温和そうな表情を浮かべているが、角度を変えてみれば少しニヒルな笑みを浮かべているようにも見える。僕も彼に習い口を閉ざしたまま彼を見つめ返す。

その男は、顔に刻まれた年輪や灰色の髪などの齢を重ねた証拠物品を身に着けていた。一方で、彼の輝くような瞳は若々しさも想起させる。老いた夕日の物悲しい赤色光ではなく、生まれたての朝日が放つ黄金色の眩しさだ。恐らく、僕の瞳は光ることなく黒ずんでいるだろうから、丁度光源とその影のような対応関係になっていたに違いない。

僕は彼が何かを言い出すのを期待して少しの間待っていたが、一向に動こうとしない。このままでは埒があかないので僕から話を切り出す事にした。

「おい、何か喋れよ」

僕は唇を動かさずに、頭の中に向かってその言葉を投げかけた。もちろんその紳士は空想の存在であるので、わざわざ口に出さずとも彼と会話ができるし、気を使う必要などない。僕は年上のその紳士に向かって横柄な態度で臨む。

彼は少し首を傾け、深慮するように眉間にしわを寄せた。そしてその仕草を取り繕うかのように、慌てて咳払いをした。その姿があまりに現実的だったので、僕は思わずたじろいだ。今回はやけにディティールの細かい空想だ。

やがて彼は何も言わずに僕に背を向け、自分がやって来た方向の空を仰いだ。今まで紳士に目を向けていたたため描写していなかったが、相変わらず夕日も飛行機雲もそのままの形で居続けていた。大抵、空想の中では時がゆっくりと流れる。

彼はこちらを見ず手をひらひらさせたかと思うと、向こうの方へと歩いて行った。少ししてから僕は、それが手を振るって別れ仕草だったのだと気がついた。

僕は、全く動かない景色の中でただ一人、僕から遠ざかる彼の姿を無言で見送った。その紳士の影は彼の身長を優に超える長さとなり、地面にしがみついていた。そのうち彼は夕焼けの逆光に飲み込まれ、見えなくなる。少し目を凝らしてみたが、完全に彼は消えてなくなっていた。

彼は僕の空想などではなく、実際に実在しているのではないか。僕は影と彼の後姿を見比べた後、少しだけそう考える。そしてすぐにその考えを笑い飛ばした。

この時には、自分の孤独の悩みなどすっかり忘れてしまっていた。


何にせよ、これが僕と彼の初対面の様子である。より正確には、僕が「彼」を思いついた時の様子といった方が正しいだろうか。




              3

太陽は地の底に落下しきったようで、辺りはすっかり深い藍色で満ち満ちている。僕はその闇のもやを押しのけ、目を凝らして周りを見渡す。徐々に目が暗黒に順応し、黒塗りの影となった世界が眼前に広がる。

地上に漂う大量の電灯のせいか、雲一つないのにも関わらず、星が一つも見えない夜空だった。

先ほどの天空に感じた畏れと同じ思いを抱くかと思ったがそんなことは別に無かった。深夜になるまでの夜は、暗闇がまばらに散らばっていて統率感がない。そのため、無限に広がり、見ていると吸い込まれそうな昼間の青空とは対照的に夜空はこじんまりとした印象を受ける。どちらかと言えば限定的な、親近感に近い感情をその空は内包していた。

このことを考えた後、僕は初めて少し前まで感じていた孤独の寂しさの気持ちがすっかりかき消されていることに気がついた。あまりにもさっぱりしているので忘れてしまっていたほどだ。

飛行機雲とあの紳士に遭遇したこと寂しさがなくなったのだろう。自分の空想に励まされるのもどうかとは思うが、気分のよい事を悪くいう道理などない。

僕は軽くなった自身の気持ちをひょいと持ち上げ、帰宅の途につくことにした。夕陽を見ている間は自ら足を石化させ動かしていなかったので、一歩を踏み出す度に痺れを感じる。僕は手で押していた自転車に再び跨り、勢いよくペダルを回した。ペダルを通して命を吹き込まれた自転車は勢いよく駆けだし、僕の視界に映る周りの景色は後ろに流されていく。自転車のフロントに備え付けてある、一つ目から照らしだされる光線と地上に浮かぶ無数の灯りを頼りに、僕は夜道の狭い空間を走り抜けた。


自転車の乗り始めは事故が起きないように気をつけて運転を行うが、そのうち注意が散漫になると意識に空想を挟み込む余裕が生まれる。僕も、見慣れぬ路地を抜け出ていつも通る帰り道に辿り着いた安心感からか、再度空想が頭の中から飛び出してきた。印象深い空想や思い出は心に深く刻まれるので失くす心配がないのだが、頭上を過(よぎ)る何気ないエピソードは意識の上空を素通りしてしまうので、捕まえたままにしておくのが難しい。御多分にもれずこの時の空想も、僕は何も覚えていない。何やら愉快な事を考えていた気がするが、記憶していない面白い話を人に伝えることほど難儀なことはないので今回は省いておくことにする。

ここで考えられるのが「紳士の登場する空想ではないのか?」という発想だが、恐らくそれでもないと思われる。理由は後で詳しく説明するが、そもそも彼との記憶は幾つもの時が経っても多分忘却したりしないはずだからだ。きっと細部を忘れ、その物語が骸だけの形になったとしても大切なことはまだ持っているだろう。

むしろ、僕がいくら空想を働かせても彼がやってこない事に対して疑問を持ちつつ自転車を漕いでいたような気がしてきた。確証はないが、さっき考え出した紳士の細部を思い出せないもどかしさに苦しんでいたような思いがかすかにするのである。心でつっかえているせいで、喉元まで出かかっているのにでてこないあのやりきれないあの感覚である。

いや、これはもう少し後に感じた思いだったか?まあどちらにせよそういった気持ちが僕の中で芽生えていたことは事実なので、この、彼と出会ったその日にこの思いに駆られた事にしておこう。繰り返しになるが、重要なことは『いつ起こったか』ではなく、この事が僕の身に起こり、それを体験し、記憶しているということである。それだけは否定しようがない事を僕が誰よりも知っている。

何故彼は頭の中に来訪しないのか?そういえば彼と夕陽の中で別れる時もやはりよそよそしい感じであったので、ひょっとすると彼はやはり・・・。







            4

 夕陽の中に消えていった彼の姿を思い返してみる。その背中には二度と僕の頭の中に現れないという決意が現れていたようでもあったが、そんなことはまるでなかった。

「意味があるっていったい何なのだろうな?」

頭の中に鮮明に焼き付いていた彼は、僕が暇な時に度々訪れてきた。

「例えば君がとても有意義なことを知りえたとする。君の一生を左右するような、大事なことだ。君はそのことを毎日のように思い出し、嘘偽りなくどんなものより大切にする。自分の命を引き換えにしてでも守りたいと考える。

それが何なのかって?さあね。家族や友人かもしれないし、物かもしれないし、自分自身かもしれない。私は具体的なものを示すことが苦手なんだ。それは自分の心に問いかけてくれ。」

彼は基本的に無口だったが、何か小難しい理屈をこねる時はやたらと饒舌になった。僕が何かを思いついた時の代弁者でもある彼は、殆どの場合を感情をこめ、急きたてて話すので、どうしても耳そちらに行ってしまうのだった。

「さあ、君には大切なものが出来た。ところがだ、そんな思いも自分が物事に必死になった瞬間にすぐに吹き飛んでしまう。考えてみてくれ、全力疾走している間にいや、もっと下品な例で考えてみようか。とてつもない便意に君は襲われている。ここから最寄りのトイレに行くまでかなりの時間が必要になる。そんな時、君は誰に祈るだろうか?日頃信じていない神様?どっちにしても自分が限界を感じている瞬間は大切なものなんて消え去ってしまうんだ。要するに、大切なものなんてものは人間が平和で暇な時にしか得ることができないんだ。」

彼はここまで話してから、右手で持っていた一本の煙草を再びふかした。空想の存在なので煙の臭いはしなかったが、煙草から出る煙はしばらくさ迷った後、風に揺られて周囲の空間に溶け込んだ。

若干前に会った時より若返っている気がしないでもないが、そもそも人の空想なんてものは当てにならない。多少の容貌の変化があっても何ら問題はないだろう。

ちなみにこの時の彼の話の内容は、僕がある事件により大切なものを失くしてしまった後に彼に励まされる形で享受したのだが、これは省略しておく。




            5

そういえば、前に彼の名前を尋ねたことがあった。

僕は気軽に聞いたつもりであったのだが、意外と彼は返答するのに時間をかけた。即興で作っているのだろうか、と考えていると、彼は「夕陽のゆうちゃん」とだけ答えた。

「え?」僕は思わず聞き返してしまう。今思えば失礼な話だったかもしれない。

「夕陽のゆうちゃん」

彼は丁寧に再度自己紹介をしてくれた。

僕は彼の名前が存外に可愛らしかったことよりも、いつもは光のように直進する視線で見つめてくる彼の視線が少し泳いでいたことに驚きをもった。照れがあったのだろうか?いや、彼に限ってはそんなことはあるまい。

ただ僕が彼のことをゆうちゃんと呼びかけることは結局最後までなかった。彼に気を使ったのではなく、機会がなかったのだ。登場人物が二人だけなら、名前など必要ない。私と君、そして彼だけで十分だ。これも彼の言い残した台詞だったか。







空想上の紳士がいきなり話かけてきたということもその言葉の意味も、思い描いた存在が喋りかけてきたという現実も、それまで考えてきた空想も僕の中で全てごちゃ混ぜになる。そして、この辺りになると空想と現実の境界が少しだけぐらつく。

僕は、顔が朱色に染まり白いシルクハットを被った紳士がそこにいることを自然に受け入れつつあった。現実なのか空想なのかは知らない。しかしどちらにせよそこに「いる」というのは揺るがない事実である。

これが、僕が「彼」と初めて会った瞬間であった。


彼は僕の作り出した幻なのか?それとも夕陽を背景に背負っていたせいで僕が勝手に幻想と勘違いした、現実に存在するお節介な人間なのか?僕は本気でどちらなのか分からなくなっていた。

あなたが現実にいるのかどうか。それを当人に問うのは適切でないと考え、半呼吸の間僕は考える。そのせいで周りが見えていなかったのだろうか、彼はそこに居た場所から姿を消していた。

僕はきょろきょろと辺りを見回すが、人の影ひとつ確認することができない。そして隠れるような岩陰も見つからない。

人が煙のように消えるはずがない。やはり彼は幻だったのだろう。そう思って振り返ると極彩色の人の背丈ほどの高さもある楽器が道端に落ちていた。さっきまで紳士が僕の頭の中で使用していたピアノだ。

どうしてこれがここに?

彼は現実か幻か。そもそもここは?



あれから僕はずっと迷ったままでいる。

形見に帽子を貰う。

ひょっとしたら事故で死んだ彼を偲んで作り出した幻だったのかもしれない。


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昔書いた散文詩のようなもの @kumomajin

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