君の恥まりの日(2014)

 「恥を知らないということはだね、つまりは終わりがないということなんだ。そして終わりがないという結果は、あらゆるものが際限なく拡張される原因につながっている。あらゆるものが際限なく拡張される世界は、ひどく不安定で居心地が悪い。なにしろ無限だからね、人間が御しきれる範囲に収まりきらない。

だから君は、もっと恥を知るべきなんだ。恥らえば行動を躊躇する、歯止めが掛かる、沈黙する。そうすれば一旦時間が止まる、留まる、凍りつくことになる。魂を熱く揺さぶる恥の感覚、それは広大無辺の時空間に打ち込まれる楔のようなものだ。厖大な事象のなかから常識と非常識を区分し、かつ絆し、まっとうな人間として有限の可能性を規定する。支配する、と大胆に言い換えることができるかもしれない。だけど恐れる必要はない、この感覚は楽しく生きていくための必要条件なんだ。楽しく、というのがポイントだよ。無変化はただ負の情念を生み出すが、変化は多様性に満ちている。安寧も滞ればマンネリズムに侵されて荒廃するし、絶望も時を置けば最悪から抜け出す指標になる。

陳腐で小難しい説教に聞こえるかい? でも僕らは何の取柄もないただの人間だ。いくら煩瑣に思えても、最低限の恥は抱え持つべきなんだ。恥を知れば、すべての物事に終わりがくる。終わりがくるということは、始まりがあるということだ。恥極まる日の始まり、終わりの恥まりだ。まったく、日本語というやつは、物事の本質をよく捉えた言語だと思うよ! 恥の感覚が絶頂に達し、咽喉の奥から熱っぽい塊がこみ上げてくる瞬間、すべての感情が消え、そして生まれる。だから、今さら恥じ入る必要はないんだよ。ただ恥じ入るだけでいいんだよ」

さあ、存分に恥をかけ! ずいと距離を詰めてくる沙良氏は臆面もなく、秘めたる観念を語りかけてくるのだった。恥晒しをもじった名を冠する彼女の本名を私は知らないし、彼女がここまで「恥」に執着する理由もよく判らない。過去によほどの大恥をかいたのだろうか。その苦渋を忘れまいとして、敢えて恥を上塗って暮らしているのだろうか。「恥の多い生涯を送ってきました!」と嬉々として話す様子は能天気そのものだったが、鷹揚の一辺倒では片付けられない複雑な機微を実は備えているのかもしれない。そう考えると、彼女の朗らかな声も、ずるずる、ずるずると怪我した脚を引き摺って歩く心が伸び切った足跡を残しているように感じられる。

「無知の知という言葉があるが、君はその前に無恥の恥について知らねばならない。恥知らず、なるほど何をしても許されそうな、包容力のある幻想的な響きがこの言葉には隠されている。だけど、真実は正反対なんだ。少し逆説的な言い回しになるが、無限のなかで行えることは限られていて、有限の領域内で行えることは限りなく多い。基準点があるからこそ人はどこにでも往くことができるのだし、無限を前にしたところで途方に暮れてしまう。最後に損をするのは道標を持たぬ無恥の存在であり、そのため僕らは恥を知らない心をまず初めに恥じなければならない。

とめどなく溢れ出てきて理性を差し迫る冤屈なしがらみ、可能性を限りなく阻む誠実なトラウマ。確かに気持ち悪く感じられるけれども、決して無下にしてはいけない。自身を弁えるべきなんだ、まだ傷つきやすい敏感な心と、老衰した意志の遥かな懸隔に悩まされている僕らなのだから! わざわざ心が立ち入り禁止の看板を判り易く掲げてくれているのに、無理して潜り抜ける必要はない。恥を乗り越えた先に、自意識を無限に蝕む欲望を充たす耀きは落ちていやしない」

脳内で何度も反芻したのであろう、傍白にも聞こえる沙良氏の言葉。かくも預言者のごとき堅い言葉で告げられると、何やらこちらの方が恥ずかしくなってくる。我が意を得たりと思われるのが癪だったので、私は気取られぬよう、俯き加減で彼女を見やる。力の籠った視線を行き交わせると、朱を注いだ頬が妙に疼く。赤面恐怖症のきらいがある私は、誰かと面と向かって話し合うのが苦手だった。沙良氏との一連の会話は、一方的な送受信によって成り立っていたが、それでも普段とは別の歯痒い思いから恥の紅葉は満面に色付いた。

まだ短い人生の中で、これといって大きな失敗をしでかしたことがない。だが、謂れのない気恥ずかしさはいつでも未来に付き纏い、失敗の恐ろしさを唆し、私の行動を制限する。直向きな姿勢が、人を尻込みさせてしまうのは何故だろう。恥に対して不感症になれたら、どれだけ楽に生きられるだろう。頭をよぎる前はそれほどでもなかった漠然とした苦悩も、外に持ち出されることで爆発的に嵩を増すことがある。脈絡なく嚥下される自己弁明に脣を歪めつつ、しかし自嘲気味の抑えた声で沙良氏に悩みを打ち明けたところ、先に続く返事を彼女は寄越してきた。

「そうだな、恥を知らずに振る舞う様子は、太陽を捕まえようとする子供の仕草に似ているかもしれない。空を仰ぎ、照準を合わせ、照り映える日輪をぎゅっと握りしめる小さな手。天体の体積を知らず、星々の距離を知らない子供は、無限の存在を取り違え、世界を手中に収めたと勘違いする。そして周囲に向かって叫ぶのだ、ついに手に入れたぞ、苦難を濯ぎ快楽の風を呼び込む、透明の閃きを! その掌はもちろん何物も掴まず、太陽は燦然と天を動いている。精神の徒労と摩耗、意のままに動かされる、量り違えた贋物の法則は、自意識が野放図に拡がる荒野に子供を置き去りにする。

いや、この喩えは少しばかり無垢が過ぎるかな。何にせよこの子供は、年齢によって定めることができない。大それた、図々しい、分別のない、身の程知らずの世間知らずはもれなく当て嵌まるからだ。無恥の厚顔は広大無辺に敷き詰められて、もはや足の踏み場もない。不作法な輩ほど、快楽をあさましく欣求する。狭量なはずの心が無限ほどあるはずの宇宙を埋め尽くす倒錯、これに勝る破廉恥が、果してこの世にあるのだろうか? 微笑ましくも滑稽な子供は必ず痛い目に遭う。僕が保証するよ、かつての僕がそうだったからね」

 沙良氏は自らの言葉に陶酔したのか、あるいは何か思うところがあるのか、身体の震えをこらえるようにして両手を胸に押し当てた。わななく瞳は感激で潤い、夜の湖となって無数の月影が水面を乱反射する。澄明な視線は私の身体を透過し、真っすぐな言葉が胸を打つ。相対する面映ゆさに私の心は雀躍し、やがて上気する。恥の消息をよく知る彼女は、耳を傾ける私の赤ら顔に丁寧な言葉を注いてゆく。

「君は今どき珍しい、羞恥を心得ている人間だ。だから自信を持っていい。嫌味ではないよ、恥辱のサラシを幾重も心に巻き付けている、僕の正直な印象だ。なにせ世間は肉体を着飾る衣服の話題でもちきりなせいで、形而上の事柄には及びもつかない。往来をめぐる人々の精神は、すべからく剥き出しで下品そのものだ。外見は目一杯の化粧を施しているが、はしたない内実の有象無象、本当に辟易してしまう。まったく、恥知らずな輩もいたものだ。

そこへゆくと君の心は奥ゆかしい裸の王様だ。この形容も悪い意味で捉えないでほしい。馬鹿な衆群は君を全裸と勘違いして嘲笑を浴びせるかもしれず、ともすると君自身もまた衆群に流され、全裸で街を練り歩く憂き目に遭っていると感じられるかもしれない。だが、少なくとも、哲学上の観点から見詰める僕は、君の高潔なドレスに心を奪われている。馬鹿でなければ、精神を這い纏わる絢爛な装束に自然と目がいくものだ。そして、衆群の狷介な囁きが君の不安を掻き乱すのと同じ理屈で、僕の見た真実は君の秩序になり得る。だから、恥、その煌びやかな象嵌を施した姿勢を君は誇っていい。感情と真摯に向き合い、尊厳を着こなしている君はすこぶる美しい」

理路の上に悠然と腰を据え、こちらを見守る少女。私の火照り顔が彼女の瞳に湛えられているかと思うと、拙い経験がまた膿んで心の瑕疵となり、炎症が赤い発疹になって身体中に現われる。ますます赤らむ顔を真向かう白い手は優しくなだめ、純粋が混淆を統べるような魔法をもってして、私は籠絡する。

「まあ要するにだ、君のはにかんだ表情、僕としては割合に気に入っているんだよ。もっと大切にしてくれると嬉しいんだがね、親友(オールドスポート)!」

沙良氏は本質を言い当ててそれを前面に押し出すことで、かえって物事を煙に巻くのが得意だった。そして私も、煙に巻かれ、混乱と納得が互い違いに絡み付く心の変調を楽しんでいた。移ろいゆく言葉の狼煙が立ち消える前に、錯乱に弾かれる前に、彼女に誘導されるがまま妥協の地面に降り立つ私の心はすっかり安らいでいる。堅固でひんやりとした観念は精神を安定させ、身を委ねても容易に崩れない安定性は受容の悦びに私を目覚めさせる。唐突に差し渡された単純な結論でさえ、私の心を揺り動かさない。感動の振幅が不動の安定を生み出す矛盾に気付くと、不思議と勇気づけられる。

「ありがと。ちょっとだけ、気持ちが軽くなったかも」

「そうかい、そいつは何よりだ」

「うん」

滔々と心に汲み入る沙良氏の雄弁に比べると、私の言葉はあまりにも無愛想だった。内懐では連綿と思考を働かせているが、紡がれた言葉は口に含んだ瞬間に澱んでしまう。彼女の言に従えば、恥の性質は「定義と制限」にあり、堂々巡りの末に押し黙ってしまう私の躊躇もまた恥に起因することになる。そして彼女は手を変え品を変えて恥を知る心を肯定し、嫌な顔一つせず深遠な饒舌で私の糜爛した魂を介抱する。実は私が悩みを打ち明けるのは今日に始まったことではなく、彼女はその度ごとに、別のアプローチをもってして苦悩の塊を溶かしてくれるのだった。本名すら知らない、電子の世界の片隅ですれ違った程度の縁しか持たない、実世界で会うのは今日が初めてであるこの私の苦悩を!

「私は……」

話したい事柄が絶え間ない波濤となって口元に押し寄せるが、定型句の抱え持つ意味の範疇を大いにはみ出した、この感謝の心を私は精確に言い表すことができない。口不調法に加えて素直になれない精神は、ありもしない無限の言葉を探し求め、再び浮揚した不安定な思考はやがて暗礁に乗り上げる。沙良氏が恥を晒す対象(ノエマ)は実は私であり、流暢な彼女の言葉はさもしい私を浮き彫りにする敬虔な鏡台と見做す認識、自己本位的で唾棄すべき発想さえ飛び込んでくる。

「難しく考えすぎなんだと思うよ、君は。僕はほんの少しおしゃべりだけど、それは頭の回転が早いからでも、恥知らずだからでもない。本当のことを言っているから話が詰まらないんだ。この詰まらないは、どちらの意味で解釈しても構わないよ。どちらも本当のことだからね。そして君の苦悩も君が恥を恥じている思考も本物だ。だけど、恥をかいた未来に煩悶する君の姿は贋物だ。何故なら、そんな君はどこにも居ないのだからね。

恥を知る者は過去を悔いり未来を悟る能力を持つ。だからこそ僕はその人を清らかな存在だと考える。しかし、未来を憂い、いたずらに妄想を膨らませる責任の所在は所在ない無限の思考にある。先に言った通り、恥は有限の現象なのだから、君が今見ている漠然とした風景の暗澹は恥の関与しない、ただの取り越し苦労だ。贋物の景色は本物になろうと躍起になって、現実に成り済ます取っ掛かりを求めて、頭の中に転がる言葉を乱暴にまさぐる。当然、そんな都合の良いものが在るはずもなく、君は初めから持っていない宝物を失くしたような放胆に見舞われてしまう。

だから、君の探している言葉は決して見つからない。見つかったとしても、それは手垢に塗れた、嘘臭くて白々しい台詞だ。とても口にすることができないだろう。言葉にすると嘘臭いのではなく、嘘臭いからこそ言葉にしたがるんだ、馬鹿な衆群は要するに! 君は話の核心部をぼかしているから、僕の言葉も観念の範疇から抜け出せない。だけどこれだけは真実だ、是非覚えておいてくれたまえ。僕は今、とても恥ずかしいんだぜ。能書きを垂らす真面目ぶりに、あまり慣れていないんだ。少なくとも、現実世界ではね」

そう言い棄てると、沙良氏は初めて赤面した。不意の発言に思わず顔を上げる私の瞳に、視線を背けた沙良氏の横顔が浮かび上がる。先までの調子から考えると、「汗顔の至りだね、いやはや」などと言葉を差し挟んできそうなものだが、何も言わないところを見るに、本当に恥ずかしがっているようである。

照れ隠しのために反り上がる口端の勾配はなだらかで、綺麗な盃を形作るその脣は、大人びた顔立ちと相反して奇妙な愛らしさを彼女に宿らせている。恥じ入る姿は私と同じ悩みを共有しているようにさえ見え、唐突に訪れた秘事の共有という悦びの錯覚に私は卒倒しそうになる。先の瞬間まで落ち込んでいたのに、現金なやつだ、と誰かに指摘されるかもしれない。だが、あれほど頑なに思えた朝の夢を時計のアラームが容易く食い破るように、本物の恥らいは贋物の悩みを瞬時に侵食する。そして、幸も不幸も含まれていない、赤い現象の花が頬の辺りに活けられる。

「ええと、沙良氏……」

告白しよう、私は沙良氏の恥晒しな姿にすっかり雪崩れてしまっていた。まだ若い私たちは、感情の処理能力に劣り、動作不良をたびたび起こす。その際にフリーズして静止した状態を安定した関係と勘違いし、その思考形態を便宜的に「恥」と呼ぶ。沙良氏から授かった、この考えを押し進めていると、高揚していながらも安定した、可変と不変を併せ持つアンビバレンツな感情をまとめて「恥」とみなすことが可能になる。つまり、友情と恥らいは、枷にも指針にもなるという側面から鑑みても、やはり同一視されるべき概念であった。そして、自意識を過剰にさせ、妙な勘違いを起こさせる点においても近しいものがある。花の喩えを続けて用いるのなら、一定方向に延伸する「芽生え」を孕む心を見出すことができるだろう。

双方が恥を目前にしてあたふたしていると、彼女がある日ネット上で私に講釈した言説が不意に脳裏に蘇った。視界よりライブ中継される、彼女の像を伴ったその文章は、「恥」について初めて触れた私の鮮烈な印象に支えられている。

「ストパン? スト魔女だっけ? あまり詳しくないのだけれど、僕、〈パンツじゃないから恥ずかしくないもん!〉というキャッチフレーズが好きなんだよね。恥ずかしさとは何なのか、真剣に考えちゃったよ。当然、あの言葉は〈パンツのままで人前に出る行為が恥である〉という認識が前提としてあるわけだけど、恥知らずにこの感覚は理解することはできないんだ、勿体ない話だよね」

ああそうだ、沙良氏はこれまでに披露した各種の知識を説明する下積みに、私たちに共通する嗜好を卑近に用いていたのだった。彼女の発言は必ず称賛に結び付けられ、嫌味なところは一つもなかった。着眼点は鋭く、拡げられる言説は思いもよらぬ地点まで私を牽引する。彼女の存在が急接近し、恥の赤い火が統合される幻に私は浸される。

「確固たる恥に裏打ちされた有限の想像力、そこから生み出される少女らへの想いは、あたかも朝焼けを裂いて飛び交う少女らの軌跡のように深く抉れている。観ていて胸が詰まりそうな、何度も指でなぞりたくなるような、この湧きあがる情動の痕跡。パラフレーズされる言葉の振幅を見ていて、ときどき思うことがあるんだ。恥は忍ぶものではなくて、偲ぶべき感覚なのではないのか、ってね」

そして、彼女の言う通り、その感覚は思い偲ばれ、私を厳密に規定する。居心地の良い恥の有限のなかに仕舞われる私たちは、ひとまず小難しい問答を終いにする。心地よい時間の上に座り込み、けざやかな赤い話の花を繚乱させる少女ら。つと外部から、白く初々しい一輪が物語の傍に添えられると、二人の赫灼たる関係性はいよいよ燃え上がる。(了)

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