「きょう、よっしーの大学へ遊びに行って、その帰りにちょっと寄らせてもらったんだ。そしたら、ちょうどお兄ちゃんが帰ってきて──」

「お兄ちゃん、なんか怒ってませんでした?」


 ワンテンポ置いて、ゆかりさんは首を傾げる。もともとおっとりしている人だけども、いまのは、どこかわざとらしさも窺えた。


「……ねえ。人夢くんて、お兄ちゃんのむかしのこととか聞いてる?」


 むかしのこと。口の中で呟きながら、ぼくは少し考えた。よぎったのは、前にお兄ちゃんが言っていた、一清さんとのいざこざだった。

 それを話してみると、ゆかりさんはもっと首を傾げていた。

 沈黙も流れる。

 どうしたんだろうと、声をかけようとしたとき、ロクちゃんの鳴き声が近くで聞こえた。廊下の戸が開いていて、レールのところに、ロクちゃんの前足があった。しっぽを大振りしている。

 ゆかりさんは急にしゃがみ込んで、ロクちゃんの長いあごを撫で始めた。

 ロクちゃんもロクちゃんで、興奮して、ゆかりさんのワンピースに前足を置こうとしている。

 ぼくは慌ててあいだに入った。


「汚れちゃいますよ」

「ん?」


 ゆかりさんは、ぼくの声でやっと気づいたのか、のんきに「まずいね」なんて言って、腰を上げた。


「そっか。とうとう犬、飼い始めたんだ」


 とても感慨深げな言い方だった。懐かしそうに廊下を見渡している。

 ゆかりさんと善之さんは、中学の先輩後輩という間柄だ。この家に頻繁に出入りがあっても不思議じゃない。というか、かなり遊んでいたと思う。


「うちも飼ってたんだよね」

「うち?」

「うん。小寺さんとこね。まだ子犬だったけど。あれから、どうしたのかなあ」


 天井へ目を向けてから、ゆかりさんはまたしゃがんだ。さっきよりは控えめにロクちゃんを撫でている。

 ゆかりさんは、男の子から女の子へなろうと、町からも出た。家族にもなにも言わなかった。そんなお家と、ご両親とも、きちんと話し合えているのだろうか。……なんて、ぼくが心配しても始まらないことだ。

 でも、あまりに普通に「小寺さん」と出すから、案外、いろいろ答えてくれるのかもしれない。

 口を開きかけ、ぼくは首を振った。

 それはそれ。これはこれだ。中ボーごときのぼくが、安易に訊いちゃいけないことなんだ。


「ね。人夢くん、この犬なんて名前?」


 相変わらず、スカートには気をやらず、ほんわかな雰囲気だけをまとって、ゆかりさんはゆっくりと、ぼくを見上げた。

 このとき、ふと思った。

 ゆかりさんは、一体、どんな男の子だったのだろう?

 もちろん、見た目や体型は変わったはず。

 お兄ちゃんが言うには、むかしのまんまらしい。どこを歩んできても、持ち合わせている空気までは変えなかった。さすがだとも笑っていた。


「あ、ロクです。数字の六。……ていうか、お兄ちゃんとか、善之さんから聞いてないですか?」

「うん。そういえば聞いてなかったね。そっか、ロクか。あいつらしい名前つけちゃって」

「……」


 さっき途中になってしまった話を思い出した。

 なのに、そっちへ話題を戻すよりも、ゆかりさんがいま置かれている状況を知りたいぼくがいた。

 頭を抱えて唸っていたら、素早く腰を上げたゆかりさんが、「大丈夫? 頭痛いの?」と近寄ってきた。

 額に手が当てられる。それとなく遠慮して、ぼくは一歩後ずさった。


「なんでもないです。ごめんなさい」

「寺さん」


 そこへ、善之さんの声が飛んできた。

 さっと手を下げたゆかりさんが顔を向ける。

 重量感のある足音が近付く。かすかにタバコの匂いも連れてくる。

「寺さん」ことゆかりさんは、頬を膨らませ、善之さんを斜に見上げた。


「十服だね。済んだ?」

「すんません。長引いた」


 善之さんは、ぼくにも目をくれた。


「人夢も帰ってきてたんだな」

「うん。ただいま」

「豪も来ただろ」


 ゆかりさんが応える。


「ちょっと話した」


 善之さんは軽く頷くと、ちらっと玄関を見て、「行こう」と、ゆかりさんを促した。


「先行ってて。わたし、人夢くんと、もうちょっと話があるから」


 善之さんは、とくに不審がる様子もなく、颯爽と玄関を出ていった。

 だが、ぼくは、そうもいかない。なんのことかと身構えた。「訊かれる候補」「話される案件」はいろいろある。そして、そのどれもが深刻だ。

 しかし、ゆかりさんはきょろきょろとしている。はっとなって台所へ行くと、ポシェットを持って戻ってきた。キャメル色の革のポシェットだ。

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篠原兄弟物語 2 もりひろ @morishimahiroi

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