深夜の自転車
鮭さん
第1話
ゲラゲラと笑い声が流れる部屋。深夜2時。今日もYouTubeに時間を吸い取られてしまった。やらなければいけない大学の課題がたくさんあったのに。いつも通り自堕落な生活。流石にそろそろやめなければ。iphoneのホームボタンをダブルクリックしアプリを閉じる。部屋はしーんと静まり返る。一人暮らしであることを思い出す。
グゥ
お腹がなる。そういえば昼以降何も食べていなかった。ベッドから降りる。床の軋む音。扉を開けて台所へ。暖房が入っている部屋を抜ける。寒い。冷蔵庫を開ける。
ガチャ
冷蔵庫を開く。青白い空気が流れ出る。右上にバター、棚には牛乳が置いてある。それしかない。そう言えばパンも切らしていた。コンビニに買いに行くか。寒いから出来ることなら外に出たくはないのだけれど。玄関はすぐそこ。大学生の1K、一人暮らしだ。玄関と台所は繋がっている。
ギィッとドアを開ける。冷めた空気に包まれる。アパートの敷居を抜けると街頭が青白く道左端を照らしており、道には光の濃淡が出来ている。人工的で無機質な冷たい灯り。幼い頃入院していた時の深夜病棟を思い出す。ふと、自転車が目に入る。アパートの敷居を抜けた目の前、街頭の隙間に、自転車が止まっている。青白い光の連なりの薄まったところに、ひっそりとある。前後には子供用の籠が設置してあるが、誰も乗っていない。寂しそうだ。こんな時間になんだろうか。自転車置き場でもないのに。捨てられたわけでもないだろう。周囲に自転車を一時的に止めて用を足すような施設もない。コンビニに行くなら普通コンビニの駐車場に止めるだろうし。不気味だ。取り敢えず、道を真っ直ぐ進む。なんだか後ろから自転車に目をつけられているようなそんな気がする。冷たくじっとりと見られているような。トントントントンと、足音が辺りに響き渡る。
気にしないようにコンビニへ向かう。数分で到着するはずだ。横断歩道。この時間でも自動車通りは少なくない。信号が変わる。数台ひっかかる。スタスタと渡る。いつもと変わらない。いつもと変わらない道だ。コンビニに入ると、若い大学生らしき男がだるそうに商品を棚に並べている。パンコーナーに行き、いくつか手に取る。レジで会計を済ます。
「ありがとうございましたー。」
店員の力のない声が背中を押す。片道を戻る。横断歩道は青だった。赤であって欲しかった。あの通りは、"あっち側"につうじてしまっているような気がするのだ。気がするだけだが。何をびびっているのだろう。自転車が一台止まっていただけなのに。スタスタと進んでいく。自動車の音が遠ざかっていく。入れ替わりに、街灯の青白い光が視界に入ってくる。あっという間に私の足音以外聞こえなくなる。夜の山道に一人取り残されたような、真っ暗な海の上にボートで一人取り残されたような気分だ。
トントントントン、トントントントン
足音が響く。もう少しでアパートが見えてくる。
トントントントン、トントントントン
アパートが見えてきた。自転車は相変わらず止まっているみたいだ。
トントントントン、トントントントン
長い髪の女が乗っている。反射的に目を逸らす。ああ、見てしまった。背筋をピンと伸ばし両手でハンドルを握っていた。止まっている自転車に。前後にも何か乗っていたようだった。もう見てはいけない。心拍が胸を破りそうだ。引き返してもいけない。反応してはいけない。反応したらそこでもう終わりな気がする。歩調も変えてはいけない。気づいていないフリをするのだ。
トントントントン、トントントントン
進む。心臓の音が外に漏れ出ていないだろうか。私は何も知らない。何も見ていない。自転車の隣を抜け、アパートの敷地内へ。顔がこちらを向いていたような気がする。でも何も見ていない。扉の前で鍵を取り出し、鍵穴に挿す。
カチャッ
鍵穴にいれ、回す。慎重になってもいけない。なぜなら私は、気づいていないのだから。ドアノブに手を伸ばす。
スチャッ
ああ....音がした。鍵の音ではない。反射的に目が向いた.....。さっきの女が立っている。自転車の前に。赤ん坊を後ろと前に抱き抱えながら。見てしまった....。目があった。深海魚みたいに大きな目だった。底の見えない真っ暗な穴に突き落とされたような感覚。
スチャッ
再び。歩く音だ。見ていなくてもわかる。こちらへ向かっている。扉を開けて部屋に逃げ込む。すぐに鍵を閉める。ドカドカと奥の部屋へ逃げ込み、布団を被る.............。
ピンポーン
無機質なチャイムの音。
ピンポーン
二度目。
「ごめんくださーい。」
平べったい女の声。生気がない。
ピンポーン
三度目。
「ごめんくださーい。水をくださーい。」
さっきと同じ声。声に力がない。感情もない。やけに間延びした声だ。赤ん坊の鳴き声も混ざっている。
ピンポーン
四度目のチャイム
「ごめんくださーい。ごめんくださーい。さっき、入っていかれましたよね。ごめんくださーい。水くださーい。あの、水くださーい。水くださーい。」
早く何処かへ行ってくれ。早く、早く。
トントン、トントン
ノックの音。耳のすぐ近くでなっているような気がする。
「いるんでしょう?開けてくださーい。水をくださーい。水をくださーい。ごめんくださーい。水をくださーい。水をくださーい。」
トントントントン、ドンドンドンドン
ノックの音が大きくなる。加速する。
「水をくださーい。お願いしまーす。水をくださーい。水をくださーい。開けてくださーい。水をくださーい。水をくださーい。水をくださーい。」
平たく冷たい声が響く。布団を強く握る。
ドンドンドンドン、ドンドンドンドン
「開けて下さーーい。開けて下さーーい。水をくださーい。水をくださーい。水をくださーい。水をくださーい。水をくださーい。水をくださーい、水をくださーい、、、、。」
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
「開けてくださーい。開けてくださーい。」
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
岩雪崩みたいな音だ。今にも扉が壊れてしまいそうだ。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
人間が叩く音だとは思えない。もうだめだ。壊される。侵入される。助けてくれ、助けてくれ。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
「水なんかない!!!!!」
叫んだ。自分でもびっくりするほど大声で叫んだ。
静まり返る。
ジャーーーーーーーーーーーーーー!!!
水がシンクと衝突する音。
ドガドダドダドダドダバタドダ
「あるじゃないですか、水。」
布団一枚隔てたところから、のっぺりとした女の声が聞こえた。
深夜の自転車 鮭さん @sakesan
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